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昨日、以下のエントリーで紹介したアリソン・ラッパーの妊娠裸像について、
ずっとグルグルしている。

Ouellette「生命倫理と障害」第5章: 「アリソン・ラッパーの像」

今朝一番のツイッターで、mnagawaさんがこの話題に反応しておられるのを発見したことから、
ぐるぐるが俄かにいくつかの焦点を結び始めた気がするので、
今までに考えたことを、ざっくりと。


ツイッターでmnagawaさんも
「女性が真っすぐな眼差しをして座ってるんだなと思ったのが最初」と書いておられるけれど、
私もこの像で目が止まったのは「まっすぐなまなざし」と「すっくと伸びた背」だった。

全体として受けた印象は、「強さ」と「清潔」。
同時に、ここに描かれているものは「意志」……? とも思った。

それが生きる意思なのか、子を産み育てようとする意思なのか、はたまた全然ちがうのか、
そんなことは本人以外には分かりようがないことだから詮索しても仕方がないのだけれど、
そこに一つの強い意思がある、ということを像が表現しているように感じた。

「清潔」だと感じたのは、
妊娠している以外に過剰に女性性が強調されていないからだと思う。
女性の身体ではあるけれど、存在そのものはとても中性的な感じがする。
「ここに妊娠している一人の人がいる」とでもいったふうな。

例えば髪が短いとか、顔が中性的だということだけではなくて、
もうちょっと、そこに描かれている人の存在感そのものが
私には「女性」というよりも「ひとりの人」だった。

BBCに引用されていた評論家は
「非常に力強く、女性の、生命の、真の美しさ」と言っているのだけど、
私は「女性の」ではなく「生命の」でもなく、「真の」でもなくて、
「アリソン・ラッパーという一人の人がある強い意思を持ってそこにいる、
その姿を描いて、そこに描かれた凛と澄んだ意思の強さが美しい」というふうに感じた。

それでも、この像を「醜悪」だと感じる人がいる。
そのことについて考えていて、頭に浮かんだのは2つ。

1つは、
この像に私はたいした違和感はないんだけど、それは何故だろう、と考えていたら
この像って、妊娠していることを除けば、あの乙武クンと同じ姿なんでは? 

乙武クンが発言・行動し、マスコミに登場してくれたおかげで、
私たち日本人は英国人よりはるかに「手がなく脚が短い身体」を見慣れているのかも?

じゃぁ「醜悪」だと感じる違和感には
「慣れ」の問題という部分も大きいのか……?

……と考えて、もう1つ、連想が繋がったのが、
娘とその周辺にいくらでもいる「奇妙な身体を持った人たち」のこと。

ミュウ自身、背中が3次元にねじれているし脚も曲がったまま固まっているから、
私たち親は見慣れているし、そういう身体ごとミュウはミュウなので、
大したことでも何でもないけれど、初めて見る人にとっては
「なんてねじれた身体」「気持ち悪い身体」と見えるのだろうと想像してみる。

そして実際、世の中にはミュウ以上に身体が変形した人たちが沢山いる。

中には、いいかげん見慣れている私自身、初めて見た時に思わず息を飲み、
いったい人の身体のどこがどうなったらこうなるのか、と内心でこっそり考えたほど、
見事な(?)変形をきたした人もある。

そういう「変形した身体」「ねじれた身体」「奇妙な身体」を持った人たちが
文字通りフロア・ライフでゴロゴロしているのが重症障害者の世界なわけで、
これもまた見慣れた私には大したことでも何でもないけれど、
そういう人たちが自力で動くと、その動きもまた見慣れていない人の目には
「異様な動き」「気持ち悪い動き」と映るのだろう。

でも、
先の見事なほどの変形をきたした身体の持ち主であるAさんとその後、何度も接しているうちに、
個人的に知りあい、Aさん「その人」と日常的にやりとりをしていると、
本当に身体はぜんぜん問題ではなくなるものなんですよ、これが。

AさんはAさんでしかなく、たまに意識するとしても
せいぜいが「そういう身体を持ったAさん」でしかない。

でも、たぶん、そういう体験そのものは
案外に誰もが経験しているんじゃないだろうか。

自分のセックスのパートナーが必ずしも
グラビア・アイドルやイケメン俳優みたいな
パーフェクトな容貌や身体の持ち主でなくても
みんなそれはそれとして何ら問題なくやっていけていることと
それは、とても似ていることのような気がする。

恋愛して好きになった人とセックスする段になって
期待以下の身体だったから愛情そのものが冷めてしまった、という人はいないだろうし、
いたとしたら、それは愛情そのものがその程度のものだったということだろうから、
人と人との関係性の中では、身体って所詮はその程度のことでしかないんでは?

誰かの「異なった身体」がインパクトを持つのは、それを初めて見た瞬間だけ。
そして、相手との関係性の中では、その一瞬にはほとんど意味はないのでは?


mnagawaさんは、ラッパー像の四肢の様態について
「(自身にとっては)プラスにもマイナスにもあまり働かない」と書いている。

私もそう。

それは、たぶん、「見慣れている」というだけではなく、
そういう名前も個性もある「その人」との「出会い」を繰り返し体験して、
人との関係性の中で身体はその程度のものでしかないことを知っているからなのでは?

そしてそれは、上でセックスについて書いたように、本当は誰もが知っていることなのに、

人に愛されるためにはパーフェクトな身体を手に入れることが大事なのだと
誤って思いこまされてしまうのと同じように、

「障害ゆえに異なっている身体」だけが「そういう身体を持ったその人」よりも大問題だと
どこかで誤って思いこんでいるだけなのでは?


そういえば、この前、
重症障害児・者を見たことも触ったこともない学者さんたちが
アカデミックな世界で障害のある新生児の中絶や安楽死を議論していることへの疑問から
そういう人たちと「出会う」べく行動を起こしてほしいと、ある人にお願いし、
「見学にいく」のではなく「出会って」ほしいのだと念押ししたのだけれど、

「見学」にいって、フロアで文字通りごろごろしている
いくつもの「ねじれた身体」や「奇妙な身体」を「見て」終わってしまったら、
「自分ならこんな姿になってまで生きたいとは思わない」的な安易な感想に繋がらないとも限らない。

だからこそ、
その中の誰かと触れあい、○○さんという名前を持ち個性を持った人と接し、付き合ううちに、
ねじれた身体が全然問題ではなくなる「○○さんとの出会い」の体験をしてもらいたい。

「出会ってほしい」にこだわった私自身の気持ちとは
改めて、なるほど、こういうことだったんだなぁ……と再確認。

それならばこそ、やっぱり、
障害児・者の処遇や命にかかわる議論をする学者さんたちはもちろん、世の中の一人でも多くの人に
「障害ゆえに異なった身体をもっている誰か」と出会い、「その人」自身と知り合い関わることで、
「人との関わりにおいて身体は所詮はその程度のことに過ぎない」と
発見する体験をしてもらえたら……と改めて思う。


【関連エントリー】
「A事件・重症障害児を語る方に」という書庫を作りました(2010/10/4)


もう1つ、
そういえば、昔、デミー・ムーアが臨月のヌードを雑誌の表紙に発表した時にも
賛否両論が轟々とあったなぁ……というのも思いだしたのだけど、
これについては、まだグルグルが余り収束していないので、また改めて。
2012.01.19 / Top↑
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