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「リハビリの夜」(熊谷晋一郎 医学書院)

ずっと気になっていた本をやっと読んだ。
たいそう面白かった。ちょっと新鮮な読書体験でもあった。

言葉ではなかなか伝えにくいこと、普通はおそらく小説の仕事とされていることを
著者は小説という形式を取らずに試みて、一定の成功を見ている、といったふうな。

脳性マヒ者で、車いすを使って生活している著者は
子どもの頃から自分で歩くとか走るという直接体験は持たないものの
周りにいる健常者が歩いたり走ったりする姿を詳細に観察して
それを疑似体験とすることによって、
あたかも自分自身が歩いたり走ったことがあるかのように、
それらの体験を自分の身体感覚として知っている、と
書いているのだけれど、

ちょうど、その逆の疑似体験へと、この本は読者をいざなう。

脳性マヒの身体で生きて世界を体験するということが、
その人にとってどういう感覚なのか、ちょっと体験させてもらえたような、
その感触がなんとなく少しだけ分かったような感じがしてくる。

そんなふうに自分の体験を描きつつ全体としては、
個体のあり方や機能と能力を「正常」を基準に捉え、
あくまで個体への働きかけで「正常」へと問題解決を図ろうとする
リハビリの眼差しそのものの不当さを浮き彫りにし、

そこにある、そのような身体と、そのような身体をもった人と、周囲との、
「ほどきつつ拾い合う関係」に目を向けた問題解決を、との主張。

いわば「一つの身体」とその周辺の日常という小さな射程での
「医療モデル」から「社会モデル」への移行の過程を丁寧に解き明かしていきつつ、
リハビリ医療に根深い「医学モデル」への、
これまでにはなかった深みと厚みのある批判の展開ともなっている。

いくつかのキーワードがあって、その中心は「敗北の官能」。

例えば、

課題訓練前に行われる体をほぐすためのストレッチと、課題訓練がうまくこなせなかったときに苛立ちとともに行われるストレッチとは、強引に身体に介入されるという意味では同じだが、前者に「ほどけと融和」があるのに対して、後者にあるのは「かたまりと恐怖」である。
トレイナ―の動きは、私の動きとはまったく無関係に遂行されていて、私の身体が発する怯えや痛みの信号はトレイナーによって拾われない。トレイナーは交渉することのできない他者、しかも強靭な腕力を持った他者として私の身体に腕力を振るうのだ。
私の身体はやがて、じわじわと敵に領地を奪われていくかのように、トレイナ―の力に屈していく。
まず腕が、足が、腰が、一つまた一つとトレイナ―の力に負け、ふにゃりと緊張が抜けていく。
しかしそこには、折りたたみナイフ現象の時のような快感はない。むしろ、腕や、足や、腰を、私の身体から切り離してトレイナ―という他者へ譲り渡すような感じだ。
(p.67)

・・・「自発的に」という言葉は、トレイニーが自らの自由意志に基づいて運動せよという含みをもっているのだが、同時にそこには自発性だけではなくて「私の指示に従え」というトレイナ―の命令も込められている。つまりトレイナ―は「自らすすんで私に従え」と言っていることになる。だから、そこで掲げられる「主体」というのは、トレイナ―の命令への「従属」とセットになっているのである。
(p.70)


読んでいると、なにやら「敗北の官能」とは
人格が未成熟な虐待的な親によって育てられ、ダブルバインドで縛られ、
自分の人格を無視されたまま相手の都合で玩弄された
ACの体験にも通じていくような気がする。

さらに、例えば以下なども、
障害児が医療から「まなざされる」という体験は
なんのことはない、被虐待体験そのものではないか……と、目からウロコ。

人は皆、成長のある段階で、実際の他者にまなざされながら規範を覚えていく。やがて規範をほぼ習得しおえるころになると、他者がいなくても自分で自分を監視するようになる。さらに規範が身体の一部の用に当たり前のものになれば、とりわけ自分や他者から注がれる監視の眼差しを意識しなくてもよくなり、いわば「心の欲するところに従いて矩を超えず」の状況になる。
これはつまり、自由意志に基づいて主体的に行動しているという感覚のままで、規範から逸脱しないという状態になれるということだ。…(略)…それは、他者の内部モデルを、みずからの内部モデルとして取り込んだ状態とも言えるだろう。
しかし規範を取り込むことに失敗した私は、眼差しや規範との同一化に至ることなく、自分を監視する不特定多数の他者や自分自身の眼差しをひりひりと感じ続けることになる。それは第一章で述べた、「健常者向け内部モデル」と「等身大の内部モデル」の両方が一致しない私の状況に対応している。
規範の取り込みに成功した身体は、内部モデルによる予測的な制御で動くから、しなやかでやわらかく、身体の緊張度が低い。いっぽう私のように取り込みに失敗した身体は、ただでさえこわばる体をより緊張させて動かすことになる。
(p.126-127)


周囲の評価が気になり、緊張が強く、
承認を求め続け頑張り続ける一方で、
どれだけ承認を得ても常に満たされることがなく
「もっと」求めざるを得ないのも、また、ACの特徴の一つ。

そして、医療を始めとする科学とテクノの価値意識が
利権を背景にした経済の要請を受けて、俄かに席巻していく世界が
管理・操作・コントロール志向を強め、幼稚な人間観の短絡思考で、
どんどんと虐待的な親のような場所になっていくことを考えると、

この本に描かれているリハビリの被害体験は
世界中であらゆる形で「弱者」の立場に置かれる人に広がっていきつつあると
考えてもいいのでは……という気がしてくる。

(次のエントリーに続く)
2012.02.14 / Top↑
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