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医療倫理のジャーナルに
イタリアの学者さん2人の共著で
乳児の障害の有無を問わず「出生後中絶」を正当化する論文。

After-birth abortion: why should the baby live?
Alberto Giubilini, Francesca Minerva
Journal of Medical Ethics, February 23, 2012

アブストラクトは以下。

Abortion is largely accepted even for reasons that do not have anything to do with the fetus' health. By showing that (1) both fetuses and newborns do not have the same moral status as actual persons, (2) the fact that both are potential persons is morally irrelevant and (3) adoption is not always in the best interest of actual people, the authors argue that what we call ‘after-birth abortion’ (killing a newborn) should be permissible in all the cases where abortion is, including cases where the newborn is not disabled.

中絶は胎児の健康とはまったく無関係な理由であっても広く受け入れられている。

そこで以下の3点を指摘することによって、著者らは
新生児に障害がない場合も含め、中絶が許容されるケースのすべてにおいて
「出生後中絶(新生児の殺害)」が認められるべきである、と説く。

(1) 胎児も新生児も共に実際の成人と同じ道徳的地位を持たない。
(2) いずれにも人格となる可能性があるという事実はこの問題と道徳的には無関係である。
(3) 養子縁組は必ずしも実際の関係者の最善の利益とは限らない。

(actual personの細かいニュアンスが分かりません。
どなたかご教示いただけると幸いです)


この論文について、BioEdgeのMichael Cookが取り上げている ↓
Ethicists give thumbs-up to infanticide
BioEdge, February 25, 2012


Cookの解説によると、著者2人は功利主義の倫理学者で、

上記アブストラクトの結論部分に当たる本文では、
以下のように書かれてもいるとのこと。

Such circumstances include cases where the newborn has the potential to have an (at least) acceptable life, but the well-being of the family is at risk.

このように許容される状況には、新生児には少なくとも許容範囲の人生を送りうる可能性があるが、家族の福祉が危うくなるケースも含まれる。


新生児の利益ではなく、関係者の利益のために行われるものなので
出生後中絶は安楽死ではない、とも著者らは明言。

私もすぐにこれを思ったけど、
「こんなの“すべり坂”じゃん」との批判に対しては
中絶の正当化論をそのまま新生児に拡大すればこうなる、と主張し、

「じゃぁ、出生後どれくらいの期間なら殺してもいいと?」との問題には
神経医学や心理学に下駄を預けつつ、

自意識が生じる数週後に新生児は
「パーソンになる可能性」から「パーソン」になる、とも。


いつも思うのだけど、
倫理問題の最先端の問題が議論されている時に、
その議論の決着が既に着いたかのように装って、
さらにその先の問題を先取りして提示することによって
ゴリ押しに倫理の線引きを先に移動させてしまおうとするのが
功利主義の学者さんたちのヤリクチ……?

「障害があるという理由だけでなく
障害がなくても親や家族の利益のために殺してもよい」と説く人が出てきて、

その人たちが提示した問題が
そこに提示された形で議論に持ち込まれることによって、
そこでは、「障害のある新生児は殺しても構わない」が
未決着の議論から結論を先取りする形で前提されてしまう。

ちょうどSavulescuらの説く「臓器提供安楽死」が
今だに合法化されていない国が大半である積極的安楽死を勝手に前提にして
「今でも安楽死は認められているのだから」と正当化されるように、

また「重症障害児にしかやらないのだから構わない」と正当化される成長抑制が
「重症障害児はその他の障害児とは倫理検討を別扱いして構わない」を
検証されないまま結論先取りで前提し、議論を進めることによって、
その議論が前提を既成事実としていくように。

慎重な議論によって、ギリギリの折り合いが見つけられ、
危ういバランスを保っているような難しい倫理問題を、
「今でもどうせ(実はごく一部またはグレー・ゾーンでのみにせよ)やっているのだから」の
「どうせ」論で、ドヤドヤと無神経に無造作に、さっさと先へ進めていこうとするなら、

それは正に「すべり坂」以外の何でもないじゃないか、と思う。

そして、こういうことを言う人たち、
ここで提示した議論が十分に尽くされない内に
きっと次には言い始めるんでは?

「そうして殺した新生児からの臓器提供や研究利用を認めよう」って。
2012.03.14 / Top↑
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