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イタリアの功利学者Alberto Giubilini とFrancesca Minervaの共著で
“出生後中絶”と称して新生児殺しを正当化した論文がネットであっという間に広がり、
著者らに脅迫状まで届く事態になっていることは、以下のエントリーで拾ってきました。

中絶してもいいなら“出生後中絶”と称して新生児殺してもOK(2012/2/27)
“出生後中絶”正当化論は「純粋に論理のエクササイズ」(2012/3/5)


下の方のエントリーで紹介した著者らの公開書簡が出た日に、
別のサイトで、ついに御大Peter Singer が登場していました。

Peter Singer Weighs In on Infanticide Paper
The Chronicle, March 5, 2012


本人が直接ここに寄稿したというわけではなく、
この記事の著者 Tom Bartlertが頼んで書いてもらったものを掲載・紹介するという、
ちょっと変則的な恰好になっています。文章も短いです。

最初のあたりには、ちょっと面倒くさそうなトーンもあって、
書いてと求められて(問題の論文の掲載誌編集長は愛弟子だし)
しぶしぶ書いた……とでもいった感じ。あくまでも個人的な印象ですが。

(これはアシュリー事件でもNYTの論考について、
「誰かに引っ張り出されて書いている感じ」と感想を書いてた人がいた)

でも、書いていくうちに少しずつ熱が入ってくる感じが、、ちょっと興味深いです。
以下、多少の省略などしながらの、雑駁な訳。

72年にトゥリーが論文を書いてこの40年来、応用倫理学では、状況次第で新生児殺しは正当化できるということになっている。今回の論文がすごく目新しいことを言ってるというわけではない。養子にしたいという夫婦がいる場合でも殺すことは正当化できる、ということなどが追加されているだけで。

自分たちの論文をそういうものと捉えていた著者が、脅迫状までくるような反響の激烈さに驚くのは無理もないが、40年前には、オンラインで論文が刊行されることもなければ、プロ・ライフのウェブ・サイトも存在していなかった。現在は、アカデミックなジャーナルに掲載される論文に批判が起こりやすくなっている。

新生児の道徳的地位というのは現実問題(a real issue)だから、アカデミックな雑誌が、真摯かつ論理的にこの問題を論じている論文を掲載するのは当たり前のこと。旧来の生命の神聖という考えを擁護したい人たちは、暴言を浴びせるのではなく著者らの議論に応答すべきだ。それにしても、生命の神聖を守ろうとする手段が、疑問視する人間を殺してやるぞと脅すことだというのは皮肉なものだ!

And it is ironic that some seek to "defend" the sanctity of human life by threatening to kill those who question it!  

中絶反対論者は、胎児と新生児で道徳的地位は違わないと、この論文と同じことを主張してきたのだから歓迎すればよい。両者の道徳的地位は同じだと言いつつ、同時にan innocent living human being (「赤ん坊のように知的レベルが低いままで生きている人間」の意では)というだけでは生きる権利に値しない、と主張する人間に、ちゃんと反論できるだけの人物が、中絶反対論者の中にほとんどいないようだから、そこが気の毒な ところだが。

脅迫や脅しでなく、理性と議論でこの論争に勝てると思うなら、それをすればよい。


最初に一読した時には
大したことは何も言っていないと思ったのですが、

再読しながら、ツイッターでメモ的に訳していくと、
いくつかの疑問点が頭に浮かびました。

① 一番気になるのは a real issue。

Giubiliniらは非難に対して
「知的な議論、論理のエクササイズをしただけで政策提言じゃない」と弁明したけど、
シンガーはそうは思っていないのでは?

ただ、とりあえず「現実問題」と訳してみたものの
「学問的に意義のある大問題」の可能性もあるので、その辺りはちょっと保留。

一方、それであったとしても
Giubiliniらが引いた「論理のエクササイズ」と「政策提言」の線引きを
シンガーはしていないこと、

冒頭を「現代応用倫理の世界では」と始めていることの2点を考えると、
やはりシンガーはこの点については著者らとは別の立場に立っているのでは?

② 「新生児殺し擁護派」VS「中絶反対派」の対立の構図を描くことは、
問題を過剰に単純化していると思う。

これは既に拙ブログで問題の論文を拾った時に、補遺で「なんだか、読んでいると、
功利主義のトンデモ御用倫理学者さんたちと、どんどん原理主義的になる保守層の間に、
実は全く筋違いな対立の構図が描かれてしまいそうで、それが一番イヤだ」と書いたけど、
やっぱり、そこへ持ち込まれている。

議論されるべきことは、実際は、その対立の外というか間というか、
そのどちらにも与しきらない中間的な立場の広がりと深さの中にこそ
まだまだ多様に存在しているはずなのでは?

③ オンラインで刊行されるようになったから
「学者の論文に批判が起きやすくなった」という解釈の、一方向性。

シンガーは「論文への批判が起こりやすくなった」だけを言っている。

インターネット上には、暴言や脅迫以外にも
問題の論文の内容について冷静な議論も出ているはずなのだけれど、
「ネットによりアカデミックな世界の外の人も議論に参加できるようになった」とは言っていない。

この不均衡は、双方向は想定されていないということ?

④ どうせ、論破などできまい、というゴーマンを、
私は個人的には感じます。

「どうせ論破などできまいが、できるものならしてみるがいい」と見下してかかる、
傲岸な響きがあるような感じがする。

⑤ 「脅迫や脅しではなく、理性と議論で」というのは私も思うけれど、
それを実際にアカデミックな世界の外からやってしまうと、
どういうことが身に降りかかり得るかを考えると、
ここでspitzibaraがこの記事と出会ってしまったのも、
何かの必然かもしれない。

(ツイッターでフォローしてくださっている方以外には分かりにくいと思いますが、
そういうことをやろうとすると、反感を買い、ツライ目に遭う可能性もあるかも、との意。
当ブログでも時々ありますが)

⑥ 「勝てると思うなら」というところがムチャ気になる。

上記④とも繋がっているのだけど、
「勝てると思うならかかってこい」姿勢は、
相手の言うことを最初から全否定する構えでしかなく、

シンガーが奇しくもその言葉を使っているように
それはディベートではあっても、誠実な議論や対話の姿勢とはいえない。

人の命は勝ち負けじゃない。

⑦「知的議論」と「政策提言」との線引きについては?

上記に見られるように、中絶反対論者との対立の構図を描き、
 そこでの議論を「勝ち負け」で捉えているシンガーの感覚は
正に「論理のエクササイズ」なのだと思う。

しかしシンガー自身はこちらのインタビューで語っているように
現場医師らからの問い合わせを受けて、その判断に関与してもいる。
(クーゼと相談して「決めた」という文言を、自ら使っていることに注目)

つまり、一方で、中絶反対論者に向けては「論理のエクササイズ」で挑戦しつつ、
自身の言動においては、「政策提言」どころか直接的に現場にスタンダードを敷いている。

ここで①の疑問に戻るのだけれど、
シンガーは著者らの線引きを肯定する立場に立つのか、否定する立場に立つのか。

また、その立場と、
自らの論争のスタンス、倫理学者として直接的に医療判断に影響する立場が
どのように整合されるのか?

⑧ これは、ついでだけど、
せめて元論文の著者名くらい書いてあげればいいのに。

トゥリーの論文はタイトルも掲載誌もちゃんと書いている一方で、
Giubilini らについては、最初から「著者ら」。
論文のタイトルも書かない。

同じ世界でメシ食ってんだし
誰だって論文を書こうと思えば、それなりの苦労をしているのだし、
自分がその世界で大物だと思うならそれだけに、
下には心遣いをしてあげればいいのに。
2012.03.14 / Top↑
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