NDRNの報告書の“アシュリー療法”に関する個所から。
アシュリー事件のケース・スタディとして
06年のGunther&Diekema論文から今年3月に出てきたTom とEricaのケースまでの流れに沿って、
両親と担当医らの正当化論、それからシアトルこども病院が立ちあげた成長抑制WGの結論などを概観し、
07年のWPASの調査報告書とだいたい同じ批判が示されています。
特に目を引くのは、正当化論をいくつか引用した後の以下の下り。
これらの文章には、自分たちの考え方がアシュリーの市民権に反するのではないかとちょっとでも考えてみる意識が完全に欠落している。
(p.20)
それからTom やEricaのケースに見られるように
その後も“アシュリー療法”が続けられていることについて、
アシュリー療法がその後も行われているのは、障害者コミュニティの人々を価値のおとった存在とみなす医学モデルの偏った姿勢の証である。
(p.23)
また、今年3月にGuardian に寄せられたコメントを引いて、
「社会における能力主義」が指摘されている。
その引用の最後の一文は、
A療法が倫理的に許容されるのは、障害のある人は人間ではないと本気で考える枠組みにおいてのみである。
(p.26)
報告書は、その後、2007年以降の論争で出てきた
様々な障害者団体からの批判の論点を挙げ、さらに
無益な治療の一方的な差し控えや停止の実例を報告した後に、
「障害のある人々の視点(2012)」という項目に至り、
その冒頭で以下のように書いている。
今日に至るまで刊行された文献の多くは、重症障害のある子どもに代わって意思決定を行うのは親と介護者が最もふさわしいと説いてきたが、NDRNとDRWとしては、医療の意志決定に関しては障害者の立場を代理するのは障害のある人々の方がふさわしいと考える。
(p.33)
この後で、シアトルこども病院が07年にWPASとの間で
倫理委のメンバーに障害者を加えると合意したことに触れ、
その後、実際に障害者をメンバーに加えた、と書いている。
“アシュリー療法”その他の医学的には無用の医療介入のセーフガードとして
特に親や代理人、介護者の希望と当人の権利との間に相克がある場合には
障害の種類や重症度を問わず、本人の意見が反映されるデュー・プロセスが必要だと主張し、
障害者といえど考えは様々なので
倫理委に障害者を加えるだけでは十分ではないという指摘もあるが、
……一人ひとりの障害者がそれぞれ違うとはいえ、デュー・プロセスによる保護によって市民権と人権を守られる権利は誰にも等しい。
ここら辺りで個人的にちょっと引っかかるのは
「障害のある人の代理決定を行うのは親や介護者よりも
障害者の方がふさわしいのだ」とまで言ってしまうのは、どうなのか、という点。
その後の部分を読むと、実際に主張しているのはそこまでのことではなく、
自分で意志表示をし自分の権利を主張できない人の場合に
親や介護者が本人の権利を侵害する可能性があるなら特に、
本人だけの利益の代弁者による敵対的審理をデュー・プロセスとして補償し、
その役割に障害者を当てよ、という主張に過ぎないように思えるのだけれど、
冒頭で書かれていることとの間にギャップがあるので、紛らわしい。
私は後半の部分の主張には賛成だけど、
冒頭のように「医療について決めるのは親よりも障害者の方がふさわしい」とまで言われると
一律に言えることではないと、抵抗がある。
アシュリー事件のケース・スタディとして
06年のGunther&Diekema論文から今年3月に出てきたTom とEricaのケースまでの流れに沿って、
両親と担当医らの正当化論、それからシアトルこども病院が立ちあげた成長抑制WGの結論などを概観し、
07年のWPASの調査報告書とだいたい同じ批判が示されています。
特に目を引くのは、正当化論をいくつか引用した後の以下の下り。
これらの文章には、自分たちの考え方がアシュリーの市民権に反するのではないかとちょっとでも考えてみる意識が完全に欠落している。
(p.20)
それからTom やEricaのケースに見られるように
その後も“アシュリー療法”が続けられていることについて、
アシュリー療法がその後も行われているのは、障害者コミュニティの人々を価値のおとった存在とみなす医学モデルの偏った姿勢の証である。
(p.23)
また、今年3月にGuardian に寄せられたコメントを引いて、
「社会における能力主義」が指摘されている。
その引用の最後の一文は、
A療法が倫理的に許容されるのは、障害のある人は人間ではないと本気で考える枠組みにおいてのみである。
(p.26)
報告書は、その後、2007年以降の論争で出てきた
様々な障害者団体からの批判の論点を挙げ、さらに
無益な治療の一方的な差し控えや停止の実例を報告した後に、
「障害のある人々の視点(2012)」という項目に至り、
その冒頭で以下のように書いている。
今日に至るまで刊行された文献の多くは、重症障害のある子どもに代わって意思決定を行うのは親と介護者が最もふさわしいと説いてきたが、NDRNとDRWとしては、医療の意志決定に関しては障害者の立場を代理するのは障害のある人々の方がふさわしいと考える。
(p.33)
この後で、シアトルこども病院が07年にWPASとの間で
倫理委のメンバーに障害者を加えると合意したことに触れ、
その後、実際に障害者をメンバーに加えた、と書いている。
“アシュリー療法”その他の医学的には無用の医療介入のセーフガードとして
特に親や代理人、介護者の希望と当人の権利との間に相克がある場合には
障害の種類や重症度を問わず、本人の意見が反映されるデュー・プロセスが必要だと主張し、
障害者といえど考えは様々なので
倫理委に障害者を加えるだけでは十分ではないという指摘もあるが、
……一人ひとりの障害者がそれぞれ違うとはいえ、デュー・プロセスによる保護によって市民権と人権を守られる権利は誰にも等しい。
ここら辺りで個人的にちょっと引っかかるのは
「障害のある人の代理決定を行うのは親や介護者よりも
障害者の方がふさわしいのだ」とまで言ってしまうのは、どうなのか、という点。
その後の部分を読むと、実際に主張しているのはそこまでのことではなく、
自分で意志表示をし自分の権利を主張できない人の場合に
親や介護者が本人の権利を侵害する可能性があるなら特に、
本人だけの利益の代弁者による敵対的審理をデュー・プロセスとして補償し、
その役割に障害者を当てよ、という主張に過ぎないように思えるのだけれど、
冒頭で書かれていることとの間にギャップがあるので、紛らわしい。
私は後半の部分の主張には賛成だけど、
冒頭のように「医療について決めるのは親よりも障害者の方がふさわしい」とまで言われると
一律に言えることではないと、抵抗がある。
2012.07.20 / Top↑
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