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とても評価の高い本で、
確かに感動も味わいもないわけではないのだけれど、
ずっと、喉に引っかかった小骨のような違和感があった。

それは、著者が介護現場でどういう働き方をしているのかが
最後まできっちり掴めないことと関係しているような気がする。

たとえば著者は、本書の後半部分で、
一時的にショートステイの遅番勤務になった期間があって、
その間には介護職員としての業務をこなすので精いっぱいになり、
驚くことができなくなった、といった体験について書いた後で、

以下のように書いている。

 その後、職員の人数も充実してきて、私は再び介護の仕事の一方で、利用者へ聞き書きをする時間をつくれるようになった。
(p.217)

他の個所には、
「補助をしながら」という表現や「フリーの相談員として」という表現もある。

あとがきには以下のようにも書かれている。

 本書を閉じるにあたって、何よりもそうして私を育ててくれている利用者たちに感謝したい。また、私のわがままをあたたかく見守ってくれ、応援してくれる職場の上司や同僚たちにも、心から感謝している。
(p.232)


著者は介護現場に
いったい単に「わがままな介護職員として」いるのか、
「介護現場をフィールドに選んだ民族研究者として」いるのか、
「民族研究者ゆえに一定の特権を認められた(わがままな?)介護職員として」いるのか、
その辺りのことがよくわからない。

著者はいったい、
どのようないきさつから、どのような手順を踏み、
どのような職場での取り決めによって働いているのか。

こうした聞き書きの実践について本を書いて報告するのであれば、
やはりその辺りは明確にすべきだったのではないかなぁ。

この「喉に引っかかった魚の骨」的な違和感は、
この本に描かれた聞き書きの体験から著者が提唱している「介護民俗学」とは、
具体的に以下のいずれのことなのか、という疑問にも通じていく。

・民俗学を学び、民俗学の聞き書きの素養のある若い人たちが
正規の介護職員として働くことが、高齢者の良いケアに繋がる。

・民俗学を学んだ若い人たちが
著者自身と同じ「わがままな介護職員」として働けるような介護現場のアレンジがあれば
高齢者にとっても民俗学者にとっても利益のあるウイン・ウインの関係になる。

・高齢者介護のアプローチの一つとして
民族学者または民俗学の素養のある人による聞き書きを導入することが高齢者の良いケアに繋がる。
(でも、この場合かならずしも「介護職員になる」必要はないのでは?)

・民俗学者または民俗学を学ぶ学生が、介護現場を聞き書きのフィールドに加える。
(この場合も、彼らが介護職員として働く必要はないのでは?)


私には、著者が提唱する「介護民俗学」というのは、
本書の場面によって、上の4つが都合よく使い分けられているような印象があった。
それが、読んでいてどこか腰の定まらない落ち着きのなさに繋がっていたようでもある。

例えば、著者は以下のように書くなどして、
介護現場での聞き書きは、民俗学者の調査する者としての権力性を逆転させると主張する。

だから聞き書きの場では、アカデミックな知識はあっても、実際の経験やそれに基づく民族的知識を持っていない調査者と、それらを豊富に身に付けていて、それについての記憶を語ってくれる高齢の話者(かつて、民族学者の多くが話者のことを「古老」と呼んでいたことにも関係するか)との関係は、話者が調査者に対して圧倒的に優位な立場にあると言えるだろう。第三章で引用した野本寛一の言葉通り(九八頁)、調査者は、まさに話者に「教えを受ける」。それが聞き書きなのである。
(p.155)


その考えに基づいて、「介護民俗学」は
上野千鶴子さんがいうような介護する者と介護される者の力関係の非対称性も
逆転させるダイナミズムと捉えることができる、とも書いている。

もちろん、そこには「それがケアの現場で行われるという意味では、
内包される暴力性から完全に免れることは不可能である」との気付きも
ないわけではないのだけれど、それはすぐさま、

「ケアの場での実践は、常にそうしたジレンマを抱えていくことなのである。」(p.223)と、
介護の場につきもののジレンマとして片付けられてしまう。

でも、ここで生じているジレンマとは、
介護の場そのものに必然的に内包されるジレンマではなく、
介護民俗学が介護現場に持ち込まれるゆえの別のジレンマであるはずなのだけれど。

なにか、著者のモノの言い方には、こうした、
介護民俗学にとって都合のよいことだけに焦点を当てて書きつつ、
介護民俗学にとって都合の悪いことは介護の問題に落としこんで終わるような、
どこかご都合主義的なところがあるんじゃなかろうか。


 しかし、介護民俗学での聞き書きは、利用者のこころや状態の変化を目的とはしない(というより変化を指標にしたらおそらく「聞き書きは効果なし」という結果しか得られないだろう)。聞き書きでは、社会や時代、そしてそこに生きてきた人間の暮らしを知りたいという絶え間ない学問的好奇心と探求心により利用者の語りにストレートに向き合うのである。
(p.168)

と、民俗学者の「学問的好奇心と探求心」について正直に書く著者は、

「手がかかる」と思われていた認知症の利用者が
いきなり歌を歌ったことに驚いた場面に続いて、同じ正直さで以下のようにも書く。

 夕食の時間が始まっても私の好奇心はもう抑えることができなかった。私は食事介助をしながら、のぶゑさんにしつこいくらい質問をした。
(p.216)


でも、他の場所で、
夕食の食事介助は一人の職員が複数の人の介助をする、と書かれているし、
娘の施設でもそうだから、介護現場の夕食の食事介助場面が、
決して1対1で介助できるほどの余裕がないことは容易に想像がつく。

そうすると、著者は
夕食の時間が始まって、複数の利用者の「食事介助をしながら」
「のぶゑさん(一人に)しつこいくらいに質問をした」ということなのだろうか……?

それは果たして「わがまま」で済むことなのだろうか。


民族研究者としての抑えがたい「学問的好奇心と探求心」を持った人が
介護職として介護現場で働くということの中にもあるはずの暴力性と、
著者は本当にきちんと誠実に向き合っているだろうか。

ずっと引きずった違和感は、
以下の個所に一番象徴的に表れているように私には思えた。

 もちろん、何人かの利用者からは、「なんでそんなに一生懸命メモをとっているの?」と尋ねられることもあった。が、それに対して「せっかく面白い話を聞いていても、私、メモをとらなかったらすぐに忘れてしまうんですよ」と正直に答えると、その方々も、「そうだよね、私もどこかに書いとかなきゃすぐに忘れちゃうもんね」と同調してくださったし、なかには、「そんなに一生懸命聞いてくれる人はこれまでいなかったよ。私の人生、ちゃんと書きとめて小説にでもしたら、すごく面白いよ」といって、毎回実に楽しそうにご自身の人生を振り返ってお話をしてくれている方もいる。
(p.144)


「すぐに忘れるからメモをとっている」という答えは
本当に「正直な答え」なのだろうか。

ここまで書いてきて、
「喉に引っかかった小骨」の正体がやっとはっきりした。

「利用者」さんたちは
「忘れるから」とメモをとりつつ自分の話を熱心に聞いてくれる介護職員が、
実は「学問的好奇心と探求心」から自分の語りに「ストレートに向き合って」いる
民族研究者であることについて、説明され知らされていたんだろうか?


言わんとしていることは分からないでもないのだけれど、
なにか一番大切な根っこのところ辺りで釈然としないものが残る本だった。


『驚きの介護民俗学』
六車由美 医学書院 2012
2012.10.08 / Top↑
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