昨年末にこちらのエントリーで紹介した『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』を
これはすごい本だ……と唸りつつ読んでいる。
各章ごとに内容が濃く、メモしておきたいことが少なくないので、
まだ4章までだけど、この辺で一度エントリーに。
第1章 安藤泰至「医療にとって『死』とはなにか?」
タイトルの問いと
「人間にとって医療とはなにか?」
「人間にとって『死』とはなにか?」とを
三位一体の問いとして考察することによって、
医療の専門知や、それに基づいた医療の枠組みや視線の限界を示し、
「全人的医療」や「スピリチュアルケア」など
医療がその限界に自覚的であろうとする試みにすら、
「それまでは医療の対象ではなかった生命の領域に医療の視線が向けられ、
それが医療的な枠組みの下にコントロールされていく、という負の側面がある」こと、
「死や死にゆく人をめぐるケアの医療化」という
もう一つのベクトルが働くリスクがあることが指摘される。
その上で、
「終末期医療という営みが単に医学や医療の一つの専門領域の中だけで問われるのではなく、
人間の文化、社会や私たちの生き方の問題として問われ」るためには、
「医療が既存の医療の専門知の枠組みで人間の生(死)を切り取ってそこに自足するのではなく、
その限界を自覚しながら、そのなかで医療に何ができるのかを模索していくことができるような
新しい医療の文化(原文は傍点)が必要だと説く。
……いま本当に求められるべきなのは、このように技術の力によって人間の悲しみや苦しみ、悩みを取り去ってしまう(ことを約束する)医療ではなく、悲しみ、苦しみ、悩みながら私たちが充実して生きることを助け、支える医療なのではないか。だとすれば、「死すべき定めにある人間」に向きあいつつ、その生を支える終末期医療こそが、実は本当の意味での「先端医療」であると言えるのではないだろうか。
(p.17)
障害者の立場から安楽死に反対している障害者団体Not Dead Yetの
「まだ死んでいない」という名称の意味するところが、
読みながら、初めて深く納得される気がした。
第2章 清水哲郎・会田薫子「終末期ケアにおける意思決定プロセス」
生命倫理学の原則を踏まえつつ、
日本の状況に即し、〈情報共有から合意へ〉というプロセス把握をした上で
家族の当事者性を織り込んで、患者と家族と医療職との「共同決定」としての
プロセス重視の意思決定プロセスが提案されている。
こうしたモデルの必要性の背景には
本来は患者が「与える」ものであり、望まない医療を受けない権利を保障するICが
日本では「説明と同意」と訳され患者と医療職との決定の分担論と化したことも
指摘されている。
家族の当事者性について、かなり突っ込んだ議論がされていること、
biological lifeに対して biographical life が
「物語られるいのち:いのちの物語の主題となるいのち」として対置されていて
提案されたモデルでは、患者の最善を考えるためには
医療者側は後者の情報を得なければならないとされていることなど、
かねて個人的に疑問に感じてきたところだったので興味深いのだけれど、
アシュリー事件に関する生命倫理の議論がそうなりがちであったことが思い返されて、
プロセスを問題とする学問として構えた時の生命倫理学の限界のようなものも感じる。
このモデルがまっとうに機能するためには
安藤氏の言う「新しい医療の文化」が先にあることが大前提なんじゃないかなぁ、と思うし、
プロセス・モデルというのは結局のところ「医療職性善説」でしかなく、
英国で現在問題になっているリヴァプール・ケア・パスウェイと同じく、
このモデルそのものが、1章で安藤氏の指摘するように
「共同決定という医療化」のリスクをはらんでいるんじゃないのかなぁ……。
そこのところに、
アリシア・ウ―レットが言う「医療の中にembeddedした生命倫理学」の限界を
そこはかとなく感じてしまう章だった。
(次のエントリーに続く)
これはすごい本だ……と唸りつつ読んでいる。
各章ごとに内容が濃く、メモしておきたいことが少なくないので、
まだ4章までだけど、この辺で一度エントリーに。
第1章 安藤泰至「医療にとって『死』とはなにか?」
タイトルの問いと
「人間にとって医療とはなにか?」
「人間にとって『死』とはなにか?」とを
三位一体の問いとして考察することによって、
医療の専門知や、それに基づいた医療の枠組みや視線の限界を示し、
「全人的医療」や「スピリチュアルケア」など
医療がその限界に自覚的であろうとする試みにすら、
「それまでは医療の対象ではなかった生命の領域に医療の視線が向けられ、
それが医療的な枠組みの下にコントロールされていく、という負の側面がある」こと、
「死や死にゆく人をめぐるケアの医療化」という
もう一つのベクトルが働くリスクがあることが指摘される。
その上で、
「終末期医療という営みが単に医学や医療の一つの専門領域の中だけで問われるのではなく、
人間の文化、社会や私たちの生き方の問題として問われ」るためには、
「医療が既存の医療の専門知の枠組みで人間の生(死)を切り取ってそこに自足するのではなく、
その限界を自覚しながら、そのなかで医療に何ができるのかを模索していくことができるような
新しい医療の文化(原文は傍点)が必要だと説く。
……いま本当に求められるべきなのは、このように技術の力によって人間の悲しみや苦しみ、悩みを取り去ってしまう(ことを約束する)医療ではなく、悲しみ、苦しみ、悩みながら私たちが充実して生きることを助け、支える医療なのではないか。だとすれば、「死すべき定めにある人間」に向きあいつつ、その生を支える終末期医療こそが、実は本当の意味での「先端医療」であると言えるのではないだろうか。
(p.17)
障害者の立場から安楽死に反対している障害者団体Not Dead Yetの
「まだ死んでいない」という名称の意味するところが、
読みながら、初めて深く納得される気がした。
第2章 清水哲郎・会田薫子「終末期ケアにおける意思決定プロセス」
生命倫理学の原則を踏まえつつ、
日本の状況に即し、〈情報共有から合意へ〉というプロセス把握をした上で
家族の当事者性を織り込んで、患者と家族と医療職との「共同決定」としての
プロセス重視の意思決定プロセスが提案されている。
こうしたモデルの必要性の背景には
本来は患者が「与える」ものであり、望まない医療を受けない権利を保障するICが
日本では「説明と同意」と訳され患者と医療職との決定の分担論と化したことも
指摘されている。
家族の当事者性について、かなり突っ込んだ議論がされていること、
biological lifeに対して biographical life が
「物語られるいのち:いのちの物語の主題となるいのち」として対置されていて
提案されたモデルでは、患者の最善を考えるためには
医療者側は後者の情報を得なければならないとされていることなど、
かねて個人的に疑問に感じてきたところだったので興味深いのだけれど、
アシュリー事件に関する生命倫理の議論がそうなりがちであったことが思い返されて、
プロセスを問題とする学問として構えた時の生命倫理学の限界のようなものも感じる。
このモデルがまっとうに機能するためには
安藤氏の言う「新しい医療の文化」が先にあることが大前提なんじゃないかなぁ、と思うし、
プロセス・モデルというのは結局のところ「医療職性善説」でしかなく、
英国で現在問題になっているリヴァプール・ケア・パスウェイと同じく、
このモデルそのものが、1章で安藤氏の指摘するように
「共同決定という医療化」のリスクをはらんでいるんじゃないのかなぁ……。
そこのところに、
アリシア・ウ―レットが言う「医療の中にembeddedした生命倫理学」の限界を
そこはかとなく感じてしまう章だった。
(次のエントリーに続く)
2013.01.22 / Top↑
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