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『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』については、
第6章までを読んだところで以下の3つのエントリーを書きました。

『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 1(2013/1/17)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 2(2013/1/17)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 3(2013/1/18)


残り部分もその後、一気に読み終えており、
いずれも読みごたえのある章ばかりで書きたいことは沢山あるのですが、
エントリーにしようと思いながら日が経ってしまうと、
読んだ直後の「あれも、これも、書きたい!」勢いを
もうそのままには取り戻せないのが悔しい。

でも、第7章と第12、13章についてだけは、どうしても書いておきたい。

この3つの章については、
重症障害のある子どもの親としての個人的な体験や思いが
特にくっきりと重なっていく内容だったから。


第7章 田代志門「死にゆく過程をどう生きるか―施設と在宅の二者択一を超えて」

一旦は恵まれたホスピスに入ったものの「テンションが下がる」といって
在宅に戻った女性のインタビューでの語りに沿って、

ホスピス医療が患者や家族におのずと求めてしまう規範や、
患者中心の医療を志向しつつ、それが「死の専門家」である医療職による
「洗練された管理システム」を通じた「よき死」への誘導になってしまう傾向を指摘し、

医療がその限界を超えない限り、施設であれ在宅であれホスピス医療は
真に「患者が『主』である」医療にはならない、と説く。

つまりは、この本の主題は各章それぞれに、
第1章で編著者の安藤氏が以下のように書く「新しい医療の文化」が必要だとの
主張に収束していくのだ……と、改めて納得。

医療が既存の医療の専門知の枠組みで人間の生(死)を切り取ってそこに自足するのではなく、その限界を自覚しながら、そのなかで医療に何ができるのかを模索していくことができるような新しい医療の文化(原文は傍点)
(p.16)


「そーだっ!」と思わず叫んだのは
この女性にとって「自分よりはるかに若いスタッフから
『精神的ケア』の対象とみなされること自体が許せないことだったのだろう」という洞察。

これは私の個人的な体験にもドンピシャ当てはまる。

例えば、昨年ケアラーの一人として北海道栗山町でお話させてもらった中で、
私は以下のように語ったことがある。

私だってそれまでは一人前の常識的な社会人として世の中を渡ってきたはずなのに、障害のある子どもの親になったとたんに、何も知らない、なにもできない無知で無能な存在みたいに扱われて、どこへ行っても、ああしなさい、こうしなさい、あれをやってはだめですよ、と指導され教育され叱られて、どこへいっても「ありがとうございます」「すみません」と頭を下げて、いったい、これはなんなんだろう、と。

ケアラー自身の人生の継続性や、ケアラー自身の生活、心身の健康にすら、もはやだれも関心を向けてくれない。ただ介護者・療育者としての優秀な機能であり役割であれと無言のうちに求められながら、家族だから出来て当たり前、愛さえあればできるはず、というメッセージを送られている……


私の場合には障害のある子どもの母親になったとたんに、
「障害児の母親」という役割や機能でしかない存在として扱われ、
例えば母子入園や受診などで、医療職や福祉職から一方的に
「指導」され「教育」されるべき存在とみなされることへの違和感。

この末期がんの女性の場合には、ホスピスに入ったとたんに
「死にゆく人」という存在でしかない人として扱われてしまうことへの違和感。

それをこの女性は「テンションが下がる」と表現したのであり、
この人は、さらに以下のように語る。

でも、みんなね、お医者さんの勉強ばっかりして、計算ばっかりして、心の問題を全部しないできている。みんな、医学生の人たちも、技術ばっかり。それよりも、どうして人間が生きなきゃなんないのか、とかね。どうやったら人のために生きられるかとか、生きなくちゃないの、とか、そういうことをあんまり考えてる人がいなかったです。全部、抗がん剤だとか、データとかばっかり重視して、そんなの何になるのって私は思うのね。そしてお医者さんだって、最後は財産も名誉も地位も学歴も、そんなの何にもならない。ただの一人の人間として自分はどのように生きたかが、私は大事だと思うのね。
(p.118)


著者はここで述べられていることを
「自分に関わる医療者のまなざしが、
生死にかかわる意思決定の根底にある死生観の問題ではなく、
その周辺にある技術的な問いへと切り詰められていくことへの不満」と捉えている。

そして、以下のように書く。

死ぬことだけを意識して患者に接する」態度は、患者の生の豊かさを「死にゆく人」という役割に矮小化してしまう点で問題がある。
(p.122)


母子入園で整形外科医から、何の配慮もなく、
いきなり傲岸な態度で「この子は一生歩かないよ」と言われたことに
私たち母親は手ひどく傷つけられた、という話をずっと以前に本に書いたら、
その後、その施設の整形外科医のみなさんが「歩かない」という言葉を使う前に必ず
「申し訳ありませんが」と断りを入れるようになった。

例えば、娘が中学時代に骨折した時に、治療方針を説明する際の医師が
「申し訳ありませんが、ミュウさんはこの先も立って歩くということはないと思うので
手術をしてまで骨をまっすぐにつなげることはせず、このままギプスで……」というように。

それがあくまでも善意であることは疑わないのだけれど、それだけに、いつか、

親を傷つけるのは、「歩かない」事実でもなければ
「歩かない」という言葉を使われること自体でもなく、
子どもの障害を知らされたばかりで混乱している親の気持ちに何の配慮もなく、
その親の目の前で、子どもを故障したモノのようにみなし、扱いながら、
「この子はどうせ一生歩かないよ」と言い放つ、その共感のない眼差しであり、
人としての無神経だったのですよ、ということを、
きちんと説明して誤解を解かなければなければ、と思っている。

子どもが中学生になるまで障害と付き合ってきた親にとって、
しかも大たい骨の骨折の治療について医師と話している場面ではなおのこと、
我が子が一生立って歩くことはないというのは、既に単なる「事実」に過ぎない。
なんで、この医師がここで謝るのか、私にはあの時、さっぱり理解できなかった。

その後も何度か、そんなふうに
「歩かない」という言葉を使われる前にイチイチ謝られては困惑する体験があって、

批判された問題のありかについて
単に「障害児の親に向かって『この子は歩かない』という言葉を使うと、親は怒る」と
因果関係の数式のようにしか捉えられていないのかも……? と気付いた時には、
ちょっとびっくりしてしまった。

もちろん保護者からの批判を受けて、
変わらなければならないと思ってくださったことには私も感謝しているのだけれど、

まさにこの章の著者が言うように
人の気持ちを思いやるという、誰でも一人の人として当たり前にやっていること、
医師だって一人の人としての自分を置き去りにしなければ思い当たるはずのことを
医師として患者や家族を「医療介入の対象」としてしか見ず、
問題を「技術的な問いへと切り詰め」てしまうために

我が子の障害を知らされたばかりの親に「この子は生涯歩くことはない」という事実を
何の配慮もなく傲岸な言動で投げつけることの無神経が
単に「特定の言葉」の問題になってしまうんじゃないだろうか。

「これまでこうして生きてきて、その先に、
“今ここ”にこうして生きている一人の人である私」が
医療の側が勝手に設定する「患者とは家族とはこういうもの」の中に落とし籠められて、
そうした「こういうもの」に対して勝手な「指導」や「教育」や「ケア」を行おうと
一方的に迫ってこられることに対して、

しかも「アンタにいったい人生の何が分かるというの?」と言ってやりたいような
年若いニイチャンやネエチャンに専門職だというだけでエラソーな高みから
それをやられることに対して、

私たちは
人として貶められているような「無礼」を感じるのだと思う。

それがこの女性が言う「テンションが下がる」ではないだろうか。

毅然として抗がん剤治療を諦めたように見えたこの女性が
様々な家庭の事情を抱えて生きてきた「個人史」を語る中には
きれいなだけの「家族愛」ではくくれない相矛盾した思いが錯綜していて、
その中から語られる言葉の中には、
「ほんとは一番身近にいる人が面倒みてくれるんだったら」抗がん剤治療も
やりたかったという言葉も出てくる。

そんなふうに「これまでこうして生きてきて、その先に
“今ここ”にこうして生きている一人の人である私」の中には
誰だって相矛盾する思いをたくさん抱えていて、
どれか一つだけが本当の思いだなんて言えない。
矛盾するまま、どれもこれも本当の思いとしか言えない。

子どもの障害を知らされたばかりの親の中にだって、
激しく葛藤する、互いに相矛盾する感情が嵐のように渦巻いている。

だって、著者が書いているように
「自己というものがそもそも首尾一貫した整合性のあるものではなく、」
その『成り立ちが個々の場面に依存し、多元的である』」ものなのだから。

それなのに、医療の場に「重症児の母親」として出ていく時、
つい「前向きに頑張っている母親」モデルに応えようとふるまってしまう、
つい、そういう母親であると認められようとのケチな下心にモノ言わされてしまうのは、
あれは一体どういう医療のマジックなんだろう……?

そういえば、ミュウがまだ幼児の頃に、そういう違和感を、
「サイズが3号分くらい違う服に、無理矢理に身体を押し込められる感じ」と
某所で表現してみたことがあった。

そうそう、専門家の視線は患者の生活や人生全体を照らす「蛍光灯」ではなく
その人の生活の中の専門領域該当部分だけを照らす「懐中電灯」だと
表現してみたこともあったっけな ↓

「“身勝手な豚”の介護ガイド」3のオマケ:だって、spitzibaraも黙っていられない(2011/7/22)
2013.02.12 / Top↑
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