これまでのエントリーはこちらです。
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 1(2013/1/17)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 2(2013/1/17)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 3(2013/1/18)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 4(2013/1/28)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 5(2013/1/29)
読み終えて思うのは、
「尊厳死」「平穏死」が説かれる今の日本で、
この本が書かれたということの大きな意義。
「尊厳死」「平穏死」を語る前に、
本当に考えるべきは「いかに死ぬか」「いかに死なせるか」なのかどうか、
この本を読み、もう一度考えたい。
第12章 安藤泰至 打出喜義「グリーフケアの可能性
―医療は遺族のグリーフワークをサポートできるのか」
第13章 高橋都 「医師が治らない患者と向き合うとき
―『見捨てないこと』の一考察」
この本を読んだ最初の時から、
上記の2つの最終章は一つのものだと感じていた。
各章での考察を経巡る過程でも常にその底流としてあった
第1章の「新しい医療の文化」の提言を受ける形で、
これら最終2章が、思い切った表現や指摘にまで踏み込んで「悪しき医療の文化」を鋭く突きながら、
「新しい医療の文化」の創出のために必要なものをあぶり出していく。
そして、そこにある主張は、
ここでもまた、私を含めた多くの重症児の親たちが
心ない医療職の言動に傷つけられてきた体験を経て、
こうあってほしいと医療に求め続けてきたものに、
そのままぴたりと重なっていくことに、私は衝撃を受け、
また、そこに大きな希望を見る思いにもなった。
実は、この本を読んだ時、
私は大きな緊張感(恐怖と呼びたいほどの)と闘いながら
2月3日の保護者会研修会の準備をしているさなかだったので、
僭越とは思いつつも、この2つの章で書かれていることは、
まさに3日の研修会で私自身が訴えようとしていることと同じと思えてならず、
そのため最終2章のエントリーだけは研修会が終わってから書きたいと、
ちょっとの間、延期していたもの。(もし良かったら、長文で恐縮ですが、
このエントリーと一緒に上記リンクの研修会の内容を読んでいただけると幸いです)
本書の第12章は
特に複雑で困難なグリーフワークを背負ってしまう医療事故死遺族と
彼らに対する医療サイドの対応を例にとりながら、
「私たちの社会における医療のあり方(ゴチックは原文では傍点)、
医療をめぐる既成のシステムあるいは文化のようなもの」(p.201)によって
医療そのものがグリーフワークを「阻害」する要因となっていることを指摘する。
例えば、医療の密室性や高度な専門性のために、
何が起きたのかの真実が検証されにくいことに加えて、
医療者や病院側の自己防衛的な態度が
「それ自体、遺族の悲しみを否定しているかのように」映る。
さらには「医療事故・医療紛争予防マニュアル」など
遺族が「これは、事故隠しマニュアルではないか」とつぶやいたような
「悪しき医療の文化」も現に存在する。
著者らは、
医療事故死遺族としての体験をもとに新葛飾病院で
セーフティ・マネージャーとして活躍する豊田郁子さんの三原則
「うそをつかない」「情報を開示する」「ミスがあれば謝罪する」と
それらを病院の「文化」として根づかせ、患者と医療者のパートナーシップを作っていく試みを紹介する。
その上で、新しい医療の文化を、
医療者や病院と患者や家族(遺族)が「共に創っていく」ことが重要であるが、
後者は医療において常に「弱者」であることを踏まえ、
前者により多くの努力と責任が課せられる、と主張する。
この主張は、私には
アリシア・ウ―レットがBioethics and Disabilityの中で説いていた、
「生命倫理学と障害学・障害者運動は対話を通じて和解することが必要。
その上で初めて、意思決定のプロセスを共有することによって、
障害者を排除することのない生命倫理の判断が可能となる。
ただし、医療が障害者を差別し加害してきたのは歴史的事実である以上、
また生命倫理学が既に医療の内部に取り込まれてしまっている以上、
生命倫理学者の方により多くの相互理解への努力が求められるのは当然だ」
との主張と重なって聞こえてくる。
第12章の著者らは以下のように問う。
死別だけでなく、医療の対象となる多くの病気や障害もまた、深い喪失体験や悲嘆をもたらすことは言うまでもない。…(中略)…そこで問われるのは、そうした悲しみの中にある患者や家族を一人の人間として尊重し、その悲しみに寄りそえる医療が、どのようにしたら実現されるのかということである。
(p.207)
この問いを医療現場から受ける形で書かれているのが、第13章。
著者は患者が「見捨てられた」と感じるのは、
大きく言えば以下の3つの形ではないかという。
・患者や家族が十分納得しないうちに治療や延命に向けた治療が中止されてしまうとき
・穏やかな旅立ちの準備や苦痛緩和を中心とする医療への確実な移行が行われないとき
・医師との個人的関係性が失われるとき
一方で、こういう時に医療サイドは「見捨てた」という実感を持っていない。
その要因として、著者が挙げているのは、まず医学教育の問題。
・治癒困難な病気の患者や家族への接し方を教えていない
・“問題点を同定し、介入することでその問題を解決・軽減する専門職”として育てられる
私が唸ったのは、この後に出てくる「介入行為が医師の中に呼び起こす愉悦」の指摘。
これはずっと前に
コメント欄でのmyuさんという方とのやり取りで
経済問題としての保健医療の問題が現場医師に見えなくなってしまう要因として
「ある種の心地よさ」という表現で語り合ったことのあるものに通じていく気もする。
また、地域包括支援システムでの医療と介護の連携を難しくしている要因の1つも
そこにあるんじゃないかという気がしている。
著者は様々な文献からの提言を引用しつつ、
最後に以下のように書いている。
……医学的介入の力が及ばない状況でも、患者や家族との関わりを保ち、その望みや優先順位を聞き、相手に心からの関心を示し、医学的状況との間にできる限りの折り合い点を見出して少しでも苦しみを和らげるように寄り添うことができれば、患者や家族が“見捨てられ感”を抱く場面を今よりも減じることができるのではないか。そのような関わりを保つことは、治らない患者と向き合う医師自身にとっても、きっと心の拠り所となり、寄り沿い続ける動機を与えてくれるのではないかと考える。
(p.223-224)
ここを読んだ時、私が思ったのは
「これは、重心医療そのものだ……」ということだった。
この丸善のシリーズ第4巻を読まれる方に、
spitzibaraから、たってのお願いがあります。
この本を読まれた後に、
長年、重症心身障害児者の医療に関わってこられた高谷清氏の
「はだかのいのち」(大月書店)と「重い障害を生きるということ」(岩波新書)を
どうぞ、ぜひとも読んでくださいますように――。
【関連エントリー】
高谷清著「重い障害を生きるということ」メモ 1(2011/11/22)
高谷清著「重い障害を生きるということ」メモ 2(2011/11/22)
高谷清著「重い障害を生きるということ」メモ 3(2011/11/22)
古代の人たちが重症障害者を手厚くケアしたエビデンス(2012/12/25)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 1(2013/1/17)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 2(2013/1/17)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 3(2013/1/18)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 4(2013/1/28)
『シリーズ生命倫理学 第4巻 終末期医療』メモ 5(2013/1/29)
読み終えて思うのは、
「尊厳死」「平穏死」が説かれる今の日本で、
この本が書かれたということの大きな意義。
「尊厳死」「平穏死」を語る前に、
本当に考えるべきは「いかに死ぬか」「いかに死なせるか」なのかどうか、
この本を読み、もう一度考えたい。
第12章 安藤泰至 打出喜義「グリーフケアの可能性
―医療は遺族のグリーフワークをサポートできるのか」
第13章 高橋都 「医師が治らない患者と向き合うとき
―『見捨てないこと』の一考察」
この本を読んだ最初の時から、
上記の2つの最終章は一つのものだと感じていた。
各章での考察を経巡る過程でも常にその底流としてあった
第1章の「新しい医療の文化」の提言を受ける形で、
これら最終2章が、思い切った表現や指摘にまで踏み込んで「悪しき医療の文化」を鋭く突きながら、
「新しい医療の文化」の創出のために必要なものをあぶり出していく。
そして、そこにある主張は、
ここでもまた、私を含めた多くの重症児の親たちが
心ない医療職の言動に傷つけられてきた体験を経て、
こうあってほしいと医療に求め続けてきたものに、
そのままぴたりと重なっていくことに、私は衝撃を受け、
また、そこに大きな希望を見る思いにもなった。
実は、この本を読んだ時、
私は大きな緊張感(恐怖と呼びたいほどの)と闘いながら
2月3日の保護者会研修会の準備をしているさなかだったので、
僭越とは思いつつも、この2つの章で書かれていることは、
まさに3日の研修会で私自身が訴えようとしていることと同じと思えてならず、
そのため最終2章のエントリーだけは研修会が終わってから書きたいと、
ちょっとの間、延期していたもの。(もし良かったら、長文で恐縮ですが、
このエントリーと一緒に上記リンクの研修会の内容を読んでいただけると幸いです)
本書の第12章は
特に複雑で困難なグリーフワークを背負ってしまう医療事故死遺族と
彼らに対する医療サイドの対応を例にとりながら、
「私たちの社会における医療のあり方(ゴチックは原文では傍点)、
医療をめぐる既成のシステムあるいは文化のようなもの」(p.201)によって
医療そのものがグリーフワークを「阻害」する要因となっていることを指摘する。
例えば、医療の密室性や高度な専門性のために、
何が起きたのかの真実が検証されにくいことに加えて、
医療者や病院側の自己防衛的な態度が
「それ自体、遺族の悲しみを否定しているかのように」映る。
さらには「医療事故・医療紛争予防マニュアル」など
遺族が「これは、事故隠しマニュアルではないか」とつぶやいたような
「悪しき医療の文化」も現に存在する。
著者らは、
医療事故死遺族としての体験をもとに新葛飾病院で
セーフティ・マネージャーとして活躍する豊田郁子さんの三原則
「うそをつかない」「情報を開示する」「ミスがあれば謝罪する」と
それらを病院の「文化」として根づかせ、患者と医療者のパートナーシップを作っていく試みを紹介する。
その上で、新しい医療の文化を、
医療者や病院と患者や家族(遺族)が「共に創っていく」ことが重要であるが、
後者は医療において常に「弱者」であることを踏まえ、
前者により多くの努力と責任が課せられる、と主張する。
この主張は、私には
アリシア・ウ―レットがBioethics and Disabilityの中で説いていた、
「生命倫理学と障害学・障害者運動は対話を通じて和解することが必要。
その上で初めて、意思決定のプロセスを共有することによって、
障害者を排除することのない生命倫理の判断が可能となる。
ただし、医療が障害者を差別し加害してきたのは歴史的事実である以上、
また生命倫理学が既に医療の内部に取り込まれてしまっている以上、
生命倫理学者の方により多くの相互理解への努力が求められるのは当然だ」
との主張と重なって聞こえてくる。
第12章の著者らは以下のように問う。
死別だけでなく、医療の対象となる多くの病気や障害もまた、深い喪失体験や悲嘆をもたらすことは言うまでもない。…(中略)…そこで問われるのは、そうした悲しみの中にある患者や家族を一人の人間として尊重し、その悲しみに寄りそえる医療が、どのようにしたら実現されるのかということである。
(p.207)
この問いを医療現場から受ける形で書かれているのが、第13章。
著者は患者が「見捨てられた」と感じるのは、
大きく言えば以下の3つの形ではないかという。
・患者や家族が十分納得しないうちに治療や延命に向けた治療が中止されてしまうとき
・穏やかな旅立ちの準備や苦痛緩和を中心とする医療への確実な移行が行われないとき
・医師との個人的関係性が失われるとき
一方で、こういう時に医療サイドは「見捨てた」という実感を持っていない。
その要因として、著者が挙げているのは、まず医学教育の問題。
・治癒困難な病気の患者や家族への接し方を教えていない
・“問題点を同定し、介入することでその問題を解決・軽減する専門職”として育てられる
私が唸ったのは、この後に出てくる「介入行為が医師の中に呼び起こす愉悦」の指摘。
これはずっと前に
コメント欄でのmyuさんという方とのやり取りで
経済問題としての保健医療の問題が現場医師に見えなくなってしまう要因として
「ある種の心地よさ」という表現で語り合ったことのあるものに通じていく気もする。
また、地域包括支援システムでの医療と介護の連携を難しくしている要因の1つも
そこにあるんじゃないかという気がしている。
著者は様々な文献からの提言を引用しつつ、
最後に以下のように書いている。
……医学的介入の力が及ばない状況でも、患者や家族との関わりを保ち、その望みや優先順位を聞き、相手に心からの関心を示し、医学的状況との間にできる限りの折り合い点を見出して少しでも苦しみを和らげるように寄り添うことができれば、患者や家族が“見捨てられ感”を抱く場面を今よりも減じることができるのではないか。そのような関わりを保つことは、治らない患者と向き合う医師自身にとっても、きっと心の拠り所となり、寄り沿い続ける動機を与えてくれるのではないかと考える。
(p.223-224)
ここを読んだ時、私が思ったのは
「これは、重心医療そのものだ……」ということだった。
この丸善のシリーズ第4巻を読まれる方に、
spitzibaraから、たってのお願いがあります。
この本を読まれた後に、
長年、重症心身障害児者の医療に関わってこられた高谷清氏の
「はだかのいのち」(大月書店)と「重い障害を生きるということ」(岩波新書)を
どうぞ、ぜひとも読んでくださいますように――。
【関連エントリー】
高谷清著「重い障害を生きるということ」メモ 1(2011/11/22)
高谷清著「重い障害を生きるということ」メモ 2(2011/11/22)
高谷清著「重い障害を生きるということ」メモ 3(2011/11/22)
古代の人たちが重症障害者を手厚くケアしたエビデンス(2012/12/25)
2013.02.12 / Top↑
| Home |