(前のエントリーの続きです)
また長尾氏は、
「高齢で植物状態になってまで、なぜそれが必要なのか」(p. 167)とも書いているけれど、
この表現には、私は強烈な違和感がある。
ここで「高齢で植物状態になってまで」と表現されているのは
「高齢になってから、交通事故などの脳損傷から植物状態になった患者さん」ではない。
交通事故での脳損傷などによる意識喪失は、
いわば「脳不全症」の「症状」として起こっていることであり、
老衰の末期の意識喪失とは、まるで別物でありながら、
そこを敢えて混同することによって、
「植物状態」と診断された人を含め、まだ回復の可能性のある脳不全症の患者さんたちが
臓器目的で治療を中止されていくことへの懸念を、こちらのエントリーで紹介しているけれど ↓
脳損傷の昏睡は終末期の意識喪失とは別:臓器提供の勧誘は自制を(2012/7/20)
上記のように繰り返されている長尾氏の、
科学的厳密さを欠いた「植物状態」という言葉による形容も、これと同じく、
別のものを混同することによってダブル・スタンダードを同時に適用する、
あるいはスタンダードをなし崩し的に動かしていくマジックとして機能している。
「植物状態ともいえる様相」「植物状態に近い」表現のマジックによって
「不治かつ末期」というスタンダードが「植物状態と混同してもよい状態」へと
いつのまにかシフトしている。
そして、そのマジックの種は、以下の表現で、語るに落ちてしまう。
「私としては、意識がしっかりあり、人間の尊厳が保たれている人には、
胃ろうを造ってもっと生きてほしいのです」(p.146)
「もはや意思表示もできない状態ですが、胃ろう栄養で生きている」(p. 155)
「意識がしっかりあ」っても「意思表示」が「できない」ことは十分にあるし、
それらが誤って植物状態と診断されている可能性もたびたび指摘されているけれど、
「延命処置によって生きる」ことが肯定されるかどうかの長尾氏のスタンダードとは
とっくに「不治かつ末期」ではなく、意識の有無であり、意思表示の可否にある。
そして、このスタンダードは、あとがきで紹介される、
昨年の「死の権利・世界連合総会」での松尾幸朗氏の発表のエピソードによって
なおも拡大する。
松尾さんの奥さんは不運な交通事故に遭われ、全身まひとなってしまいました。もはや言葉も発せられなくなった奥さんが、献身的に介護を続ける夫に瞼を使って伝えた言葉は、「ころしてください」。このご夫婦の暮らしの中に、尊厳死、老々介護、医療制度など、今、日本が抱えている生死の問題がすべて凝縮されているように感じます。
(p. 216)
瞼を使ってコミュニケーションが図れるのだから、
この女性はもちろん植物状態ではないし、「意識がしっかりある」。
これまでに書かれてきた「いわゆる植物状態ともいえる様相」などでもない。
それでも、このエピソードが書かれている肯定的なトーンからすれば、
ここにきて長尾氏のスタンダードは、もはや意識の有無とも意思表示の可否とも無関係な
重症の身体障害にまで広げられている。
また、212ページでは
25年間ずっと寝たきりだった息子を見送った人の言葉が紹介され
「「平穏死」という言葉は、高齢者だけのものではないのです」と書いている。
一方、慢性腎不全の90歳の患者さんが
「こんなことで無駄な医療費を使うのは若い人に申し訳ない。
老兵、静かに去るのみだな」(p. 72)と人工透析を拒否する決断を肯定的に描き、
日本尊厳死協会のリヴィング・ウィルへと話を接続していく。
ここでは
「不治かつ末期」でも
「意識」の有無でも「意思表示」の可否でもなく「重症身体障害」でもなく
年齢だけがスタンダードにされてしまっている。
胃ろう問題は、「尊厳ある生」という観点からはもちろん、「医療経済」の観点からも論じられる時期に来ているのではないでしょうか。
(p. 164)
「尊厳ある生」と「医療経済」という2つの観点から考えるなら、
「不治かつ末期」では全然なく、意識があって意思表示ができても、重症身体障害があれば、
あるいは「不治かつ末期」では全然なく、意識があって意思表示ができても、高齢であれば、
「延命措置」を拒んで死ぬことが肯定されるものらしい。
そういう場合は、それは「延命措置」ですらないと著者自身が定義していたはずなのに――。
「不治かつ末期」は、いつのまに、一体どこへ――?
―――――
ちなみに、
167ページの「高齢で植物状態になってまで」という表現の個所で
もう一つ気になることがあるので、ついでに指摘しておくと、
長尾医師がこれまで人口栄養を中止した老衰ないし認知症終末期の患者さんは
これまで10名以上いるという。
そのうち、中止から1か月以内に亡くなった人が3名で
「残りは予想に反して食べられるようになりいったんは元気になられました」とあるので、
7人以上が、胃ろうを外してみたら口から食べられるようになった、ということになる。
それなのに著者は、この10人以上の患者さんについて
「高齢で植物状態になってまで」と家族が人口栄養の中止を依頼してきたのだ、と書く。
胃ろうを外したら口から食べられるようになりいったんは元気になった人のことを
「植物状態」という言葉を用いて形容することにためらいのない医師は、
「国際的に見て、日本の終末期医療は、世界から3周半遅れです」(p. 161)とも書き、
スイスのディグニタスを視察したことにも触れている。
誰であれ、本人が死にたいと望めばかまわない、と自殺幇助を行ってきた、
(さらに自殺者の遺骨を湖に投棄するほど生命の尊厳への意識が既に低下した)ディグニタスを、
「それなりのしっかりした考えを持った人」が運営する「看取りの家」として
肯定的に紹介した岩尾総一郎氏は日本尊厳死協会の理事長。
長尾氏は、その副理事長――。
日本よりも3周半先を行く、世界の終末期医療で実際に何が起こっているか、
昨年スイスの「死の権利・世界連合総会」でC&CやFENと語らってこられた
日本尊厳死協会の理事さんたちが、ご存じないとも思えないのだけれど。
そして、
「不治かつ末期」の議論だったはずのものが
巧妙な言葉の操作と何もかもズグズグの議論によってに
いつのまにか「どうせ治らないなら」へ、さらに「治っても重症障害になるなら」へと
対象者が拡大されていくスタンダードの変質・変容ぶりは、
「3周半先」の世界の安楽死・自殺幇助議論とも、
そればかりか「無益な治療」議論とも、
まるっきり、そっくりなのだけれど。
また長尾氏は、
「高齢で植物状態になってまで、なぜそれが必要なのか」(p. 167)とも書いているけれど、
この表現には、私は強烈な違和感がある。
ここで「高齢で植物状態になってまで」と表現されているのは
「高齢になってから、交通事故などの脳損傷から植物状態になった患者さん」ではない。
交通事故での脳損傷などによる意識喪失は、
いわば「脳不全症」の「症状」として起こっていることであり、
老衰の末期の意識喪失とは、まるで別物でありながら、
そこを敢えて混同することによって、
「植物状態」と診断された人を含め、まだ回復の可能性のある脳不全症の患者さんたちが
臓器目的で治療を中止されていくことへの懸念を、こちらのエントリーで紹介しているけれど ↓
脳損傷の昏睡は終末期の意識喪失とは別:臓器提供の勧誘は自制を(2012/7/20)
上記のように繰り返されている長尾氏の、
科学的厳密さを欠いた「植物状態」という言葉による形容も、これと同じく、
別のものを混同することによってダブル・スタンダードを同時に適用する、
あるいはスタンダードをなし崩し的に動かしていくマジックとして機能している。
「植物状態ともいえる様相」「植物状態に近い」表現のマジックによって
「不治かつ末期」というスタンダードが「植物状態と混同してもよい状態」へと
いつのまにかシフトしている。
そして、そのマジックの種は、以下の表現で、語るに落ちてしまう。
「私としては、意識がしっかりあり、人間の尊厳が保たれている人には、
胃ろうを造ってもっと生きてほしいのです」(p.146)
「もはや意思表示もできない状態ですが、胃ろう栄養で生きている」(p. 155)
「意識がしっかりあ」っても「意思表示」が「できない」ことは十分にあるし、
それらが誤って植物状態と診断されている可能性もたびたび指摘されているけれど、
「延命処置によって生きる」ことが肯定されるかどうかの長尾氏のスタンダードとは
とっくに「不治かつ末期」ではなく、意識の有無であり、意思表示の可否にある。
そして、このスタンダードは、あとがきで紹介される、
昨年の「死の権利・世界連合総会」での松尾幸朗氏の発表のエピソードによって
なおも拡大する。
松尾さんの奥さんは不運な交通事故に遭われ、全身まひとなってしまいました。もはや言葉も発せられなくなった奥さんが、献身的に介護を続ける夫に瞼を使って伝えた言葉は、「ころしてください」。このご夫婦の暮らしの中に、尊厳死、老々介護、医療制度など、今、日本が抱えている生死の問題がすべて凝縮されているように感じます。
(p. 216)
瞼を使ってコミュニケーションが図れるのだから、
この女性はもちろん植物状態ではないし、「意識がしっかりある」。
これまでに書かれてきた「いわゆる植物状態ともいえる様相」などでもない。
それでも、このエピソードが書かれている肯定的なトーンからすれば、
ここにきて長尾氏のスタンダードは、もはや意識の有無とも意思表示の可否とも無関係な
重症の身体障害にまで広げられている。
また、212ページでは
25年間ずっと寝たきりだった息子を見送った人の言葉が紹介され
「「平穏死」という言葉は、高齢者だけのものではないのです」と書いている。
一方、慢性腎不全の90歳の患者さんが
「こんなことで無駄な医療費を使うのは若い人に申し訳ない。
老兵、静かに去るのみだな」(p. 72)と人工透析を拒否する決断を肯定的に描き、
日本尊厳死協会のリヴィング・ウィルへと話を接続していく。
ここでは
「不治かつ末期」でも
「意識」の有無でも「意思表示」の可否でもなく「重症身体障害」でもなく
年齢だけがスタンダードにされてしまっている。
胃ろう問題は、「尊厳ある生」という観点からはもちろん、「医療経済」の観点からも論じられる時期に来ているのではないでしょうか。
(p. 164)
「尊厳ある生」と「医療経済」という2つの観点から考えるなら、
「不治かつ末期」では全然なく、意識があって意思表示ができても、重症身体障害があれば、
あるいは「不治かつ末期」では全然なく、意識があって意思表示ができても、高齢であれば、
「延命措置」を拒んで死ぬことが肯定されるものらしい。
そういう場合は、それは「延命措置」ですらないと著者自身が定義していたはずなのに――。
「不治かつ末期」は、いつのまに、一体どこへ――?
―――――
ちなみに、
167ページの「高齢で植物状態になってまで」という表現の個所で
もう一つ気になることがあるので、ついでに指摘しておくと、
長尾医師がこれまで人口栄養を中止した老衰ないし認知症終末期の患者さんは
これまで10名以上いるという。
そのうち、中止から1か月以内に亡くなった人が3名で
「残りは予想に反して食べられるようになりいったんは元気になられました」とあるので、
7人以上が、胃ろうを外してみたら口から食べられるようになった、ということになる。
それなのに著者は、この10人以上の患者さんについて
「高齢で植物状態になってまで」と家族が人口栄養の中止を依頼してきたのだ、と書く。
胃ろうを外したら口から食べられるようになりいったんは元気になった人のことを
「植物状態」という言葉を用いて形容することにためらいのない医師は、
「国際的に見て、日本の終末期医療は、世界から3周半遅れです」(p. 161)とも書き、
スイスのディグニタスを視察したことにも触れている。
誰であれ、本人が死にたいと望めばかまわない、と自殺幇助を行ってきた、
(さらに自殺者の遺骨を湖に投棄するほど生命の尊厳への意識が既に低下した)ディグニタスを、
「それなりのしっかりした考えを持った人」が運営する「看取りの家」として
肯定的に紹介した岩尾総一郎氏は日本尊厳死協会の理事長。
長尾氏は、その副理事長――。
日本よりも3周半先を行く、世界の終末期医療で実際に何が起こっているか、
昨年スイスの「死の権利・世界連合総会」でC&CやFENと語らってこられた
日本尊厳死協会の理事さんたちが、ご存じないとも思えないのだけれど。
そして、
「不治かつ末期」の議論だったはずのものが
巧妙な言葉の操作と何もかもズグズグの議論によってに
いつのまにか「どうせ治らないなら」へ、さらに「治っても重症障害になるなら」へと
対象者が拡大されていくスタンダードの変質・変容ぶりは、
「3周半先」の世界の安楽死・自殺幇助議論とも、
そればかりか「無益な治療」議論とも、
まるっきり、そっくりなのだけれど。
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