A Life Worth Giving? The Threshold for Permissible Withdrawal of Life Support From Disabled Newborn Infants
Dominic James Wilkinson
Am J Bioeth, 2011 February; 11(2): 20-32
【関連エントリー】
「“生きるに値する命”でも死なせてもOK」と、Savlescuの相方が(2011/3/2)
この論文でウィルキンソンが立てる問いは、
親と医師が重症障害のある新生児を死なせることが許されるのはどのような場合か?
「その子どもの将来の利益が負担と同等である」点を「ゼロ地点」とし、
利益がそこを下回る場合にのみ生命維持の中止を認めるハリスの考え方を
「ゼロ・ライン論」と呼び、
それに対して、
Steinbockの「閾値論」を採用すべきだとし、
生きるに値する生を生きられそうな子どもでも親の選択で死なせてもよい閾値の設定を説くのが、
この論文の趣旨。
「閾値論」とは、
上記のゼロ地点ラインの上下に、それぞれ
「生きるに値する生を送る可能性はあるが、親の裁量を認めて親が決めるなら中止してもよい」上限と、
「負担が利益を上回るが、診断その他の不確実性をかんがみて親が希望するなら治療を継続してもよい」
下限を設けて、
上限を超えた治療は「やらなければならない」とされ
下限を下回る治療は「不適切」とされる、というもの。
従来の「グレー・ゾーン」と「閾値」の違いは
ゼロ地点よりも上の「生きるに値する生」を生きる可能性のある子どもでも中止を認めている点。
なぜなら
……it may be worse to allow an infant to live with an LNWL, than to allow a newborn to die who would have had a restricted life.
生きるに値しない生で新生児を生きさせるのは、
制約された生を生きたかもしれない新生児を死なせることよりも悪い可能性がある
ここまで説いて、ウィルキンソンは問いを今度は、
「では、生きるに値する生になることが確実な子どもではどうだろう?」と転じる。
例として、
重症の知的障害(知能レベルが3カ月の幼児に留まる)があるが
身体的には健康で医療を必要としない子どもを挙げる。
そして、親の、結婚生活の破たんにまで及びうる心身の負担、経済的な負担と、
子どもにかかる教育と医療の「大きなコスト」という社会の負担を挙げて、
さらに問いを
「では、他者の利益によって新生児を死ぬに任せることが認められるのは、
どのような場合か」と発展させる。
それに対して、
…… The level of impairment that a society is able to support will depend upon the resources available. In societies that are very impoverished, the threshold would potentially be higher than in societies that have ample resources.
社会がどの程度の障害までを支えるかは、利用可能な資源による。
非常に貧しい社会では、閾値は豊富な資源のある社会よりも高くなるだろう。
(資源は豊かで差別的な社会でも、閾値は高くなると思いますが)
また、
コストもかからず本人に害がないなら、続けてもよいが、
将来的に重度化してゼロ地点を下回るリスクはある、とも追加。
見込まれる反論として、ウィルキンソンが挙げているのは
① 新生児にだけ別基準を設けることになる。
② 障害のある新生児への差別である。
③ 閾値設定の恣意性。
④ 本人の最善の利益論と一致しない。
② への反論が象徴的で、
問題にしているのは将来のwell-beingであって障害ではないから差別ではない、と。
しかし、そんなふうに一定の障害像にはwell-beingの可能性を認めないことが差別なんでは?
それに、このように弁明しつつ、
Wilkinsonは、論文後半の「実際的な基準」では、
「生きるに値する生」として補助具を使えば歩ける身体障害と
IQ35-50で基本的なニーズに関する会話が可能であることを知的障害の基準とし、
知的障害が重度の場合には明らかに「生きるに値しない生」となると断定し、
身障のみが重度の場合でも将来的に重度化するリスクを挙げて、
さらにその後は具体的な損傷、障害、病気を列挙している。
その際に、ダウン症候群と軽度の二分脊椎は閾値論の対象にならないと書いているけど、
上記の親と社会の負担論が持ち出されている以上、そうとばかりは言えないでしょう、と思うし、
閾値論という他人のふんどしを持ち出して論じつつ、Wilkinsonの眼目は、
そこに、こうして親と社会の負担を持ち込んで基準化することにあったのか――??
ところで、Wilkinsonがこの論文で考察事例として挙げているのは
ヘンリー。
妊娠42週で、緊急帝王切開で生まれ、
状態が悪かったため人工呼吸器を付けて集中治療へ。
生後72時間でまだ呼吸器が外れず、脳波には異常がみられる。
集中治療を続ければ命は救えるだろうが、
重篤な四肢マヒを伴う脳性マヒと中等度以上の認知障害を追うことになる
確率が高い、と親には説明。
マイケル。
7歳。重症の四肢マヒの脳性まひ、小頭症、てんかんがある。
視覚障害と重症の知的障害もある。
親や教師の声ににっこりし、馴染んだ音楽を聞くと笑う。
苦痛や不快を感じてはいない時が多いが、言葉や補助具を使っても会話はできない。
本人仕様の車いすを利用するものの、自分では操作不能。胃ろう。
重症の出生時低酸素脳症で、生後1カ月はICUで過ごした。
その後も、けいれん発作が長引いたり、肺炎で何度も入院。
周囲とのやり取りの能力はいずれ変わる可能性はあるが、寿命は予測不能。
成人して、数十年生きる可能性もある。
たぶん、ヘンリーの数年後をマイケルで想像せよということなんだろうから、
早産と帝王切開と胃ろう以外はこの2人とそっくりだった25歳を、ちょいと追加してみる。
ミュウ。
25歳。出生時に重症の低酸素脳症で、生後2カ月近くNICUで過ごした。
最初の1か月、人工呼吸器を装着し、保育器に入る。
生後3日目に胃穿孔の手術。生後6カ月から1か月、けいれん発作で入院。
その後も頻繁に肺炎や気管支炎で入院。
重症のアテトーゼ型脳性マヒと重症の知的障害がある。
本人仕様の車いすを利用するものの、自分では操作不能。寝たきりの全介助。
今のところ滑らか食を口から食べられているけど、いずれは胃ろうになる可能性も。
言葉での会話もエイドを使った会話もできないが、音声のバリエーションと
顔の表情、指差し、全身のありとあらゆるところを使って、言いたいことは分からせる。
自己主張は非常に強い。目だけで誰かを徹底的にバカにして見せることができる。
こっちの言っていることはだいたい理解しているが、
時に都合が悪いと、分からないフリをするチャッカリした面も。
言葉はなくても、けっこう理屈っぽい。
都合が悪い話題が出てくると、いきなり別のことに話を持っていったりもする。
現在、療育園の若手男性職員に熱烈な恋をしているところ。楽しそうである。
その他、ミュウの日常については
ぱんぷきん・すうぷ(2010/8/29)
お茶(2011/1/25)
ポテト(2012/3/4)
オトナの女(2012/5/26)
ミュウの試行錯誤(2012/6/25)
Dominic James Wilkinson
Am J Bioeth, 2011 February; 11(2): 20-32
【関連エントリー】
「“生きるに値する命”でも死なせてもOK」と、Savlescuの相方が(2011/3/2)
この論文でウィルキンソンが立てる問いは、
親と医師が重症障害のある新生児を死なせることが許されるのはどのような場合か?
「その子どもの将来の利益が負担と同等である」点を「ゼロ地点」とし、
利益がそこを下回る場合にのみ生命維持の中止を認めるハリスの考え方を
「ゼロ・ライン論」と呼び、
それに対して、
Steinbockの「閾値論」を採用すべきだとし、
生きるに値する生を生きられそうな子どもでも親の選択で死なせてもよい閾値の設定を説くのが、
この論文の趣旨。
「閾値論」とは、
上記のゼロ地点ラインの上下に、それぞれ
「生きるに値する生を送る可能性はあるが、親の裁量を認めて親が決めるなら中止してもよい」上限と、
「負担が利益を上回るが、診断その他の不確実性をかんがみて親が希望するなら治療を継続してもよい」
下限を設けて、
上限を超えた治療は「やらなければならない」とされ
下限を下回る治療は「不適切」とされる、というもの。
従来の「グレー・ゾーン」と「閾値」の違いは
ゼロ地点よりも上の「生きるに値する生」を生きる可能性のある子どもでも中止を認めている点。
なぜなら
……it may be worse to allow an infant to live with an LNWL, than to allow a newborn to die who would have had a restricted life.
生きるに値しない生で新生児を生きさせるのは、
制約された生を生きたかもしれない新生児を死なせることよりも悪い可能性がある
ここまで説いて、ウィルキンソンは問いを今度は、
「では、生きるに値する生になることが確実な子どもではどうだろう?」と転じる。
例として、
重症の知的障害(知能レベルが3カ月の幼児に留まる)があるが
身体的には健康で医療を必要としない子どもを挙げる。
そして、親の、結婚生活の破たんにまで及びうる心身の負担、経済的な負担と、
子どもにかかる教育と医療の「大きなコスト」という社会の負担を挙げて、
さらに問いを
「では、他者の利益によって新生児を死ぬに任せることが認められるのは、
どのような場合か」と発展させる。
それに対して、
…… The level of impairment that a society is able to support will depend upon the resources available. In societies that are very impoverished, the threshold would potentially be higher than in societies that have ample resources.
社会がどの程度の障害までを支えるかは、利用可能な資源による。
非常に貧しい社会では、閾値は豊富な資源のある社会よりも高くなるだろう。
(資源は豊かで差別的な社会でも、閾値は高くなると思いますが)
また、
コストもかからず本人に害がないなら、続けてもよいが、
将来的に重度化してゼロ地点を下回るリスクはある、とも追加。
見込まれる反論として、ウィルキンソンが挙げているのは
① 新生児にだけ別基準を設けることになる。
② 障害のある新生児への差別である。
③ 閾値設定の恣意性。
④ 本人の最善の利益論と一致しない。
② への反論が象徴的で、
問題にしているのは将来のwell-beingであって障害ではないから差別ではない、と。
しかし、そんなふうに一定の障害像にはwell-beingの可能性を認めないことが差別なんでは?
それに、このように弁明しつつ、
Wilkinsonは、論文後半の「実際的な基準」では、
「生きるに値する生」として補助具を使えば歩ける身体障害と
IQ35-50で基本的なニーズに関する会話が可能であることを知的障害の基準とし、
知的障害が重度の場合には明らかに「生きるに値しない生」となると断定し、
身障のみが重度の場合でも将来的に重度化するリスクを挙げて、
さらにその後は具体的な損傷、障害、病気を列挙している。
その際に、ダウン症候群と軽度の二分脊椎は閾値論の対象にならないと書いているけど、
上記の親と社会の負担論が持ち出されている以上、そうとばかりは言えないでしょう、と思うし、
閾値論という他人のふんどしを持ち出して論じつつ、Wilkinsonの眼目は、
そこに、こうして親と社会の負担を持ち込んで基準化することにあったのか――??
ところで、Wilkinsonがこの論文で考察事例として挙げているのは
ヘンリー。
妊娠42週で、緊急帝王切開で生まれ、
状態が悪かったため人工呼吸器を付けて集中治療へ。
生後72時間でまだ呼吸器が外れず、脳波には異常がみられる。
集中治療を続ければ命は救えるだろうが、
重篤な四肢マヒを伴う脳性マヒと中等度以上の認知障害を追うことになる
確率が高い、と親には説明。
マイケル。
7歳。重症の四肢マヒの脳性まひ、小頭症、てんかんがある。
視覚障害と重症の知的障害もある。
親や教師の声ににっこりし、馴染んだ音楽を聞くと笑う。
苦痛や不快を感じてはいない時が多いが、言葉や補助具を使っても会話はできない。
本人仕様の車いすを利用するものの、自分では操作不能。胃ろう。
重症の出生時低酸素脳症で、生後1カ月はICUで過ごした。
その後も、けいれん発作が長引いたり、肺炎で何度も入院。
周囲とのやり取りの能力はいずれ変わる可能性はあるが、寿命は予測不能。
成人して、数十年生きる可能性もある。
たぶん、ヘンリーの数年後をマイケルで想像せよということなんだろうから、
早産と帝王切開と胃ろう以外はこの2人とそっくりだった25歳を、ちょいと追加してみる。
ミュウ。
25歳。出生時に重症の低酸素脳症で、生後2カ月近くNICUで過ごした。
最初の1か月、人工呼吸器を装着し、保育器に入る。
生後3日目に胃穿孔の手術。生後6カ月から1か月、けいれん発作で入院。
その後も頻繁に肺炎や気管支炎で入院。
重症のアテトーゼ型脳性マヒと重症の知的障害がある。
本人仕様の車いすを利用するものの、自分では操作不能。寝たきりの全介助。
今のところ滑らか食を口から食べられているけど、いずれは胃ろうになる可能性も。
言葉での会話もエイドを使った会話もできないが、音声のバリエーションと
顔の表情、指差し、全身のありとあらゆるところを使って、言いたいことは分からせる。
自己主張は非常に強い。目だけで誰かを徹底的にバカにして見せることができる。
こっちの言っていることはだいたい理解しているが、
時に都合が悪いと、分からないフリをするチャッカリした面も。
言葉はなくても、けっこう理屈っぽい。
都合が悪い話題が出てくると、いきなり別のことに話を持っていったりもする。
現在、療育園の若手男性職員に熱烈な恋をしているところ。楽しそうである。
その他、ミュウの日常については
ぱんぷきん・すうぷ(2010/8/29)
お茶(2011/1/25)
ポテト(2012/3/4)
オトナの女(2012/5/26)
ミュウの試行錯誤(2012/6/25)
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