【3日追記】
昨日このエントリーを書いた時には
「涙活」を使ったプロモが、私が行った映画館単体の作戦だったのか、
それとも全国規模の作戦なのかということが判断できず、
以下のような書き方をしましたが、
その後のツイッターでのコメントなどからすると、
どうやら全国的に「涙活」とつなげたプロモが行われているように思われます。
----------
この映画については、何も言うまいと心に決めていたのだけれど、
今日やっとこういう声が出てきてくれたと知ると、
(声)映画「くちづけ」強い違和感 (朝日新聞Dignital, 2013年6月30日)
http://www.asahi.com/opinion/articles/OSK201306290018.html
心の歯止めが効かなくなってしまった……ので。
ひと月ほど前、
映画館のトイレに入ったら、
個室ドアの裏側、ちょうど便器に座った目の高さに、
映画「くちづけ」の
その映画館が独自に作成したと思しきチラシが貼られていた。
そこに書いてあったのは、
女性の皆さま 必見!!
「涙活」をご存知ですか?
涙を流すとストレス解消になるんです。
泣きたくても泣けない
あなたにおススメの映画はこちら。
「くちづけ」については
この時に予告編を見ただけなのだけれど、
公式サイトはこちら ↓
http://www.kuchizuke-movie.com/sp/
これ、癌になった父親が
知的障害のある娘を残してはゆけないと思い詰めた挙句に、
自分の手で殺す、という話ですよね。
障害のある人が親の手で殺されることが、お手軽に「泣ける」娯楽ですか?
人がひとり殺されることが、「可哀そう」と泣いてすっきりするための消費材ですか?
人が人を殺す話を
実話だからこそ切なくて泣けますなどと言って、
「泣きたくても泣けない」人はいらっしゃい、
「ストレス解消」や「涙活」にもってこいですよ、
だから「必見」「おススメ」ですよ、と売り込むことには、
なにか根本的なところに、とてもおかしいものがありはしませんか?
私は障害のある子どもを持つ親として、ずっと、
「障害や介護の問題を語る時に、そこに美意識を持ちこまないで」と訴え続けてきました。
なぜなら、その無責任な美意識は親や介護者から助けを求める声を奪い、
自分と子ども(介護される人)だけの狭く閉塞した「自己責任」の世界へと
親や介護者を追い詰めていくからです。
そして、例えば以下のエントリーで書いたように、
「美意識とは所詮、
相手の苦悩とは無関係な場所にたたずむ傍観者の贅沢に過ぎない」からです。
介護を巡るダブルスタンダード・美意識(2008/10/27)
そうして、さらに、
例えば「くちづけ」の公式サイトのどこかに、
ほんの“付け足し”のように書かれている
「ひたすらにマコを愛し、彼女の幸せを望んだいっぽんが、
なぜ、こんな選択をしなくてはならなかったのか?」という
本当は問われるべき問いが、涙と共に簡単に流し去られて、
「こういうことが起こらないために、社会はどうあるべきか」という問題としては
誰も考えなくなるからです。
子どもに障害があろうとなかろうと、
我が子を我が手で殺したいと望む親などいません。
それなのに
他にどうしようもないと思いこむほどのところに追い詰められた親が
その挙句に子どもを殺すという愚かな決断をしてしまった時に、
世間からそれを賛美され、涙ながらに称賛の手を叩かれてしまうなら、
親は、いったい、どうすればいいのでしょう?
【その他、できたら読んでもらいたいエントリー】
「総体として人間を信頼できるか」という問い(2008/8/29)
「どうぞ安心して先に行ってください」(2009/3/17)
「Gilderdale事件はダブル・スタンダードの1例」とME患者(2010/1/29)
ケアラー連盟設立1周年記念フォーラムに参加しました(2011/7/1)
――――――
もう一つ、
以下の公式サイトの内容紹介のページを見て、愕然としたこと。
http://www.kuchizuke-movie.com/sp/about/introduction.html
そこには以下のような、古色蒼然としたステレオタイプな記述が並んでおり、
これは、アシュリー事件の擁護論の世界そのものだ……と。
「カラダは大人、精神は子供のままの人たち」
「30歳のカラダに7歳の心をもった、天使のように無垢な娘マコ」
「そこの住人たちもマコも、天使のように無邪気で陽気」
「そんな彼女の命が、なぜ、この世から消えなくてはならなかったのか?」
そこには、父娘の悲しい愛情の物語がありました」
アシュリーは生後3カ月の赤ちゃんと同じだから。
アシュリーは6歳の身体に赤ちゃんの精神。
そんなアシュリーが、なぜ子宮と乳房を摘出され、
ホルモン大量療法で身長の伸びを抑制されなくてはならなかったのか?
そこには父と母の深い愛情とデジタル思考の物語がありました。
だって、ほら、
このまま成熟した女性の身体に赤ちゃんの精神が宿ったのではグロテスクで、
アシュリーが周りの人たちから愛してもらえなくなるから――。
中身が赤ちゃんのアシュリーには
小さな体の方が似つかわしいから――。
アシュリーは、寝たきりの
無垢な心の「枕の天使」なんだもの――。
昨日このエントリーを書いた時には
「涙活」を使ったプロモが、私が行った映画館単体の作戦だったのか、
それとも全国規模の作戦なのかということが判断できず、
以下のような書き方をしましたが、
その後のツイッターでのコメントなどからすると、
どうやら全国的に「涙活」とつなげたプロモが行われているように思われます。
----------
この映画については、何も言うまいと心に決めていたのだけれど、
今日やっとこういう声が出てきてくれたと知ると、
(声)映画「くちづけ」強い違和感 (朝日新聞Dignital, 2013年6月30日)
http://www.asahi.com/opinion/articles/OSK201306290018.html
心の歯止めが効かなくなってしまった……ので。
ひと月ほど前、
映画館のトイレに入ったら、
個室ドアの裏側、ちょうど便器に座った目の高さに、
映画「くちづけ」の
その映画館が独自に作成したと思しきチラシが貼られていた。
そこに書いてあったのは、
女性の皆さま 必見!!
「涙活」をご存知ですか?
涙を流すとストレス解消になるんです。
泣きたくても泣けない
あなたにおススメの映画はこちら。
「くちづけ」については
この時に予告編を見ただけなのだけれど、
公式サイトはこちら ↓
http://www.kuchizuke-movie.com/sp/
これ、癌になった父親が
知的障害のある娘を残してはゆけないと思い詰めた挙句に、
自分の手で殺す、という話ですよね。
障害のある人が親の手で殺されることが、お手軽に「泣ける」娯楽ですか?
人がひとり殺されることが、「可哀そう」と泣いてすっきりするための消費材ですか?
人が人を殺す話を
実話だからこそ切なくて泣けますなどと言って、
「泣きたくても泣けない」人はいらっしゃい、
「ストレス解消」や「涙活」にもってこいですよ、
だから「必見」「おススメ」ですよ、と売り込むことには、
なにか根本的なところに、とてもおかしいものがありはしませんか?
私は障害のある子どもを持つ親として、ずっと、
「障害や介護の問題を語る時に、そこに美意識を持ちこまないで」と訴え続けてきました。
なぜなら、その無責任な美意識は親や介護者から助けを求める声を奪い、
自分と子ども(介護される人)だけの狭く閉塞した「自己責任」の世界へと
親や介護者を追い詰めていくからです。
そして、例えば以下のエントリーで書いたように、
「美意識とは所詮、
相手の苦悩とは無関係な場所にたたずむ傍観者の贅沢に過ぎない」からです。
介護を巡るダブルスタンダード・美意識(2008/10/27)
そうして、さらに、
例えば「くちづけ」の公式サイトのどこかに、
ほんの“付け足し”のように書かれている
「ひたすらにマコを愛し、彼女の幸せを望んだいっぽんが、
なぜ、こんな選択をしなくてはならなかったのか?」という
本当は問われるべき問いが、涙と共に簡単に流し去られて、
「こういうことが起こらないために、社会はどうあるべきか」という問題としては
誰も考えなくなるからです。
子どもに障害があろうとなかろうと、
我が子を我が手で殺したいと望む親などいません。
それなのに
他にどうしようもないと思いこむほどのところに追い詰められた親が
その挙句に子どもを殺すという愚かな決断をしてしまった時に、
世間からそれを賛美され、涙ながらに称賛の手を叩かれてしまうなら、
親は、いったい、どうすればいいのでしょう?
【その他、できたら読んでもらいたいエントリー】
「総体として人間を信頼できるか」という問い(2008/8/29)
「どうぞ安心して先に行ってください」(2009/3/17)
「Gilderdale事件はダブル・スタンダードの1例」とME患者(2010/1/29)
ケアラー連盟設立1周年記念フォーラムに参加しました(2011/7/1)
――――――
もう一つ、
以下の公式サイトの内容紹介のページを見て、愕然としたこと。
http://www.kuchizuke-movie.com/sp/about/introduction.html
そこには以下のような、古色蒼然としたステレオタイプな記述が並んでおり、
これは、アシュリー事件の擁護論の世界そのものだ……と。
「カラダは大人、精神は子供のままの人たち」
「30歳のカラダに7歳の心をもった、天使のように無垢な娘マコ」
「そこの住人たちもマコも、天使のように無邪気で陽気」
「そんな彼女の命が、なぜ、この世から消えなくてはならなかったのか?」
そこには、父娘の悲しい愛情の物語がありました」
アシュリーは生後3カ月の赤ちゃんと同じだから。
アシュリーは6歳の身体に赤ちゃんの精神。
そんなアシュリーが、なぜ子宮と乳房を摘出され、
ホルモン大量療法で身長の伸びを抑制されなくてはならなかったのか?
そこには父と母の深い愛情とデジタル思考の物語がありました。
だって、ほら、
このまま成熟した女性の身体に赤ちゃんの精神が宿ったのではグロテスクで、
アシュリーが周りの人たちから愛してもらえなくなるから――。
中身が赤ちゃんのアシュリーには
小さな体の方が似つかわしいから――。
アシュリーは、寝たきりの
無垢な心の「枕の天使」なんだもの――。
2013.07.11 / Top↑
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