先日、以下の2つのエントリーで紹介したChristine Ryan の論文について
憲法が保障する“基本的権利”をパーソン論で否定する“Ashley療法”論文(前半)(20009/10/8)
憲法が保障する“基本的権利”をパーソン論で否定する“Ashley療法”論文(後半)(2009/10/8)
憲法が保障する“基本的権利”をパーソン論で否定する“Ashley療法”論文(後半)(2009/10/8)
米国でAshleyケースを批判してきた障害児の母親ブロガーの間で話題になっているので、
一応メモとして、以下に。
一応メモとして、以下に。
The Burden of Parental Decision Making and the Negative Impact on Disability Rights
LIFE WITH A SEVERELY DISABLED CHILD, October 14, 2009/10/16
LIFE WITH A SEVERELY DISABLED CHILD, October 14, 2009/10/16
これらの記事に寄せられたコメントの憤りが激しい。
世の中の誰もがパーソン論を知っているわけではないし、
誰だって初めて non-person という言葉に出会うと、
本当に金槌で頭をぶん殴られたくらいの衝撃を受ける。
誰だって初めて non-person という言葉に出会うと、
本当に金槌で頭をぶん殴られたくらいの衝撃を受ける。
言葉が「赤ん坊と同じ」と違っていただけで、
もともとAshley事件から多くの人が受けた衝撃とは、そういう種類のものだったのだということが
Ryan論文を読むと、とてもよく分かる。
もともとAshley事件から多くの人が受けた衝撃とは、そういう種類のものだったのだということが
Ryan論文を読むと、とてもよく分かる。
(私は、この衝撃が、論理的な定義を超えた”尊厳”に関係していると感じているのだけど、
まだ、そこのところを、うまく表現することができない。たしかフランシス・フクヤマだったかが
テクノの過剰な介入に人が受ける”生理的な嫌悪感”を重視していたような、ああいうこと?)
まだ、そこのところを、うまく表現することができない。たしかフランシス・フクヤマだったかが
テクノの過剰な介入に人が受ける”生理的な嫌悪感”を重視していたような、ああいうこと?)
Ashley事件のそんな衝撃から、いろいろ調べ始めたことを通じて、
私は思いがけない多くのことを発見してきた。
私は思いがけない多くのことを発見してきた。
今でも、知れば知るほど、世の中には自分の知らないことだらけだということを思い知らされている。
私がこれまで見ようともしてこなかったところ、私の知識がはるかに及ばないところでは
一体どんな事態が進行しているのか……と考えると、空恐ろしい。
一体どんな事態が進行しているのか……と考えると、空恐ろしい。
私にとってAshley事件は、いつのまにか、
そんな不気味で大きな世界に向けて開かれた小さな窓のようなものになった。
そんな不気味で大きな世界に向けて開かれた小さな窓のようなものになった。
この小さな窓を得たことで、
私は世界で起こっていることのあれこれを、わずかながら覗き見ることができるようになったと同時に、
私は世界で起こっていることのあれこれを、わずかながら覗き見ることができるようになったと同時に、
Ashleyの小さな事件で次々に起こることの中にも、
その大きな世界で進行している事態の大きな図が象徴・凝縮されているとも感じるようになった。
その大きな世界で進行している事態の大きな図が象徴・凝縮されているとも感じるようになった。
Ashley事件も「無益な治療」も自殺幇助合法化も製薬会社のスキャンダルもトランスヒューマニズムも
”救済者兄弟”もパーソン論もDALYもQALYもヘイト・クライムの増加も
それぞれは繋がりを持たない別々の議論や出来事のように見えるけれど、
”救済者兄弟”もパーソン論もDALYもQALYもヘイト・クライムの増加も
それぞれは繋がりを持たない別々の議論や出来事のように見えるけれど、
実はいずれも、世界で進行していること全体の大きな図の中の1つの必然として起こり、
その大きな図の一部として互いに繋がりあって、時代の力動みたいなものを作り出している──。
その大きな図の一部として互いに繋がりあって、時代の力動みたいなものを作り出している──。
ずっと、そんな気がしている。
2009.10.17 / Top↑
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