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「成長抑制は障害児の尊厳を侵すものだ」との批判に対して、
Ashley事件の立役者であるDiekema、Fost両医師が今年6月に書いた成長抑制論文
「“尊厳”は定義なく使っても“無益な概念”だ」と一蹴していることから、

このところ“尊厳”が、ずっと気になっていて
大統領生命倫理評議会の「人間の尊厳と生命倫理」という報告書をめくってみたりしたところ、
(各章が長いのと難解なので、最初のところで止まってしまっていますが)

「これはあくまでも道徳的な議論なんですよ」というカムフラージュの陰で、
知的能力の低い人の“尊厳”や”道徳的地位”と見せかけて、否定されているのは実は“人権”なのではという
疑問が沸いてきていたのですが、

なんと、

“道徳的な”議論ではなく法律的な議論において、パーソン論を根拠に
憲法が万民に保障する基本的な権利から重度の知的障害者を除外する論文に出くわしてしまいました。

議論の流れとしては、十分に予測できたものなのだけど、
現実に出てくると、やはり大きな衝撃を受けます。

しかも、これが“Ashley療法”を法的に妥当とするために新たな基準を提言する論文だというのが、
また、なんというか、実に象徴的というか……。

問題の論文は以下のもので、去年9月の発表。

Revisiting the legal standards that govern requests to sterilize profoundly incompetent children:
in light of the “Ashley Treatment,” is a new standard appropriate?
Christine Ryan,
Fordham Law Review, September 26, 2008


タイトルは
はなはだしく自己決定能力を欠いた子どもの不妊手術の要望を規制する法的基準を再考する:
“Ashley療法”に照らして、新たな基準は妥当か?

40ページにも及ぶ、この長大な論文は
35ページまでの知的障害者の不妊手術に関する法的原理の検証と、
最後5ページの”Ashley療法”の考察に分かれており、

35ページまでの大まかな論旨は、

現在、重い知的障害のある子どもの不妊手術の要望を検討する際に
裁判所が用いている基準は「代理決定」原則と「本人の最善の利益」原則の2つで
この2つをミックスしたハイブリッドの判断がされるのが通例だが、
(確かに当ブログで詳細に読んだイリノイのK.E.J.ケースがそうでした)

実際には前者の原則で「本人が意思決定できたとしたら何を望んだか」を
推測することが誰にとっても不可能であるばかりか、
最初から一度も意思決定能力がなかった子どもには当てはまらない。

結局は「代理決定原則」といっても実際には「最善の利益原則」でしかなく、

判事の道徳観、価値観によって左右されているのが実情で、
これまでの諸々の判例を見ても一貫した判断が行われているとは言いがたい。

そこで、新たな基準として、Rebecca Dresserの「改定最善の利益」を採用してはどうか。

Dresserがいうように、もともと、重い知的障害のある人は”我々とは違う世界の住人”なのだから、
我々には極端な選択肢だとしても、彼らにとっては理にかなった選択肢、ということもありうる。

重い知的障害のある人の最善の利益を検討するに当たっては、
彼らが住んでいる小さな世界の内面をなるべく正確に探りつつ、
医療だけでなく心理的・社会的など外在的な要因を広く含めて検討してはどうか。
(例えば家族全体の利益とか、社会が受ける利益とか)

そこには子どもに保障された権利と、親に保障された権利の衝突が生じるが、
そもそも、親になるためには最低限の子育ての責任を担う能力が前提条件なのだから、
重症の知的障害のある人の生殖権は法的に認める必要がなく、
(Ryanは根拠として、Elizabeth Scottの「自律モデル」なるものを引っ張ってきています)

一定のセーフガードさえあれば、限られたケースでは、慎重な検討を経た上で
はなはだしく自己決定権を欠いた子どもへの不妊手術は認められて良い。


しかし、なんといっても、この論文がすごいのは、こうした本題に入る前の段階で
憲法が万人に保障している基本的権利から重症の知的障害者を除外してみせること。

また、その根拠がパーソン論だというのだから、ぶったまげてしまう。

問題の箇所は、ⅠのA「個人の権利の憲法による保障」で、

合衆国憲法は“いかなる州も
いかなるpersonからも生命、自由、財産をしかるべき法の手続きなしに奪ってはならない”と規定している、と述べた後で、

しかし、personとして道徳的な地位が認められるには一定の条件があり、
この規定ははなはだしく知的能力を欠いたnon-personには当てはまらない、と主張する。

さらに、

より包摂的な定義として、社会と最高裁は
全ての生きている人間に道徳的な地位が付与されると認めてきたし
国連障害者の権利条約は障害のある子どもにも障害のない子どもと同じ権利があるとし、
personには生まれた瞬間から憲法上の保護が付与されると規定する、と述べた後で、

”しかし、これらの定義では意識があることがパーソンであることの最低の条件となっており、
永続的植物状態やこん睡状態にある人は除外されている”、と主張。

ここで要注意点として指摘しておきたいのは、
当ブログが何度も指摘してきたパーソン論のマヤカシが起こっていること。

著者は、重症の知的障害と植物状態やこん睡状態とを(わざと?)混同しているように思われますが、

しかし、重症の知的障害児は“意識がない”わけではないので、著者の論法では、
国連障害者人権条約が保障する健常児と同じ権利の対象から
重症の知的障害者が除外されることにはなりません。

そもそも、憲法が万人に保障する基本的な人権を否定する論拠になるほどに
パーソン論がいつから世の中のスタンダードとして受け入れられたというのだろう。


次のエントリーに続きます)
2009.10.08 / Top↑
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