パーソン論というものを私はちゃんと勉強したわけではなく、
Ashley事件でPeter SingerがNY Timesで挑発的な口を挟んできたために
否応なしにSingerバージョンのパーソン論と出会ってしまったり、
Ashley事件でPeter SingerがNY Timesで挑発的な口を挟んできたために
否応なしにSingerバージョンのパーソン論と出会ってしまったり、
同じく“Ashley療法”論争で擁護に出てくるケッタイな人たちの中に、
トランスヒューマニストと名乗る、私には頭がいいだけのバカとしか思えない面々が含まれているので、
そのTHニズムてな、いったい何なんだ……と調べてみるうちに
トランスヒューマニストと名乗る、私には頭がいいだけのバカとしか思えない面々が含まれているので、
そのTHニズムてな、いったい何なんだ……と調べてみるうちに
「重症知的障害があるAshleyは赤ん坊または動物と変わらず、
したがって尊厳などとは無関係なので、体を侵襲してもかまわない」
という彼らの“Ashley療法”擁護論の背景にあるのは、どうやらパーソン論らしいと気づいたり、
したがって尊厳などとは無関係なので、体を侵襲してもかまわない」
という彼らの“Ashley療法”擁護論の背景にあるのは、どうやらパーソン論らしいと気づいたり、
ロクに内容も背景も知らないまま、パーソン論というものが気に障り続けている。
難解すぎてついていけない箇所もいっぱいあるのだけれど、
私は学者ではないので、そういうところは平気ですっ飛ばしておくとして、
私は学者ではないので、そういうところは平気ですっ飛ばしておくとして、
パーソン論の元祖トゥーリーの主張が
2つに分けて整理されているのが分かりやすかった。
2つに分けて整理されているのが分かりやすかった。
①パーソン論の原理
誕生や死の場面で、ある存在者を殺すあるいは死なせるというケースにおいては、その存在者が生物学的なヒトであるか否かという判断と、その存在者が私たちの一員として正当な道徳的配慮をすべきパーソンであるか否かという判断は、全くレベルの異なった判断である。(p. 216-217)
②この原理に具体的な内容をくっつけていくと、こうなるという話が
「具体的なパーソン論」と森岡氏が便宜上呼ぶもので、
「具体的なパーソン論」と森岡氏が便宜上呼ぶもので、
(1)パーソン (2)生存する権利 (3)自己意識要件の3つを重ねる。
「生命学への招待」では、これら3つの関係がさらに詳細に解説・分析された後に
「パーソン論の限界」という項目にたどり着く。
「パーソン論の限界」という項目にたどり着く。
そこでは具体的なパーソン論一般に共通した欠陥が3点指摘されていて、
①なぜ〈パーソン〉であることが〈生存する権利〉を持っていることと結びつくのか、
その必然性をパーソン論を説く論者は説明しなければならない。
その必然性をパーソン論を説く論者は説明しなければならない。
②自己意識があることをパーソンであることと規定する限り、
パーソン論のいうパーソンは生物学的ヒトの範囲の内側に不可避的に設定される。
パーソン論のいうパーソンは生物学的ヒトの範囲の内側に不可避的に設定される。
ここで言われていることは、もしかしたら、もうちょっと厳密な議論なのかも、とは思うけど、
無知な素人が自分なりに理解したままに私自身の言葉で、ごくざっかけなく、まとめてみると、
無知な素人が自分なりに理解したままに私自身の言葉で、ごくざっかけなく、まとめてみると、
キミたちの人間観はあまりにも浅薄で、
生物学上のヒト個体の範囲内だけで人間というものを捉えて、
関係性というもののなかにヒトも動物も生きて在るという射程を見逃している。
だから、キミたちの説によると、
誰かの愛する人や動物は、息を引き取って死体となった瞬間から
「私の大切なあなた」や「大好きなポチ」ではなくなってしまうことになる。
実際には、彼らを愛する人との関係性において、そんなことは起こらないし、
たとえ植物状態で意識がない患者さんでも、
見守る家族にとっては「その人」に他ならない……という
生物的な個体を超えた存在の意味やあり方には
何の顧慮もされないことになってしまう。
パーソン論の原理においては、
生物学的なヒトであることとレベルの異なった判断だと言いながら、その次の段階では、
最初から、その生物学的なヒトの範囲内にパーソンを限定されているとは、
それは一体どういうトンデモなのだ?
それは、つまり、パーソンの定義の問題という小手先で片付けてしまおうとする
キミたちの議論の枠組み自体が最初から間違っているのだよ。
生物学上のヒト個体の範囲内だけで人間というものを捉えて、
関係性というもののなかにヒトも動物も生きて在るという射程を見逃している。
だから、キミたちの説によると、
誰かの愛する人や動物は、息を引き取って死体となった瞬間から
「私の大切なあなた」や「大好きなポチ」ではなくなってしまうことになる。
実際には、彼らを愛する人との関係性において、そんなことは起こらないし、
たとえ植物状態で意識がない患者さんでも、
見守る家族にとっては「その人」に他ならない……という
生物的な個体を超えた存在の意味やあり方には
何の顧慮もされないことになってしまう。
パーソン論の原理においては、
生物学的なヒトであることとレベルの異なった判断だと言いながら、その次の段階では、
最初から、その生物学的なヒトの範囲内にパーソンを限定されているとは、
それは一体どういうトンデモなのだ?
それは、つまり、パーソンの定義の問題という小手先で片付けてしまおうとする
キミたちの議論の枠組み自体が最初から間違っているのだよ。
③胎児はパーソンではないから殺してもよい、という主張は論理的に成立していない。
胎児はパーソンでないから生存する権利を持っていないと
仮に100歩譲って、認めたとしても、だからといって、
ただちに「殺してもよい」ことにはならない。
仮に100歩譲って、認めたとしても、だからといって、
ただちに「殺してもよい」ことにはならない。
ここは著者の言葉を以下に。
私たちはむしろパーソン論者に対して、「生存する権利を持たない存在者は殺してもよい」となぜ無条件に言明できるのかを、改めて問う必要がある。(P.229)
この③を読んだ時に、まず、
あ、これは“Ashley療法”と重症児への成長抑制正当化論の陥穽と同じだ……と思った。
あ、これは“Ashley療法”と重症児への成長抑制正当化論の陥穽と同じだ……と思った。
例えばDiekema医師の当初の正当化の中に
「Ashleyには、なにが尊厳であるか分からないのだから、
Ashleyの体の尊厳を他の人の体の尊厳と同じに考える必要はない」
という論法があるのだけれど、
「Ashleyには、なにが尊厳であるか分からないのだから、
Ashleyの体の尊厳を他の人の体の尊厳と同じに考える必要はない」
という論法があるのだけれど、
仮に尊厳を理解することができる知的機能がないとしても、
(私は、多くの重症児は、それを理屈で理解できなくても
尊厳のある扱いと、ない扱いの違いを感じとる感受性があることを疑わないけど)
(私は、多くの重症児は、それを理屈で理解できなくても
尊厳のある扱いと、ない扱いの違いを感じとる感受性があることを疑わないけど)
だからといって、ただちに「だから尊厳を踏みにじる扱いをしてもかまわない」ことに
なるわけではない。
なるわけではない。
重症児への成長抑制は倫理的に許されると主張する人たちは
誰かに重症の知的・認知障害があることが、
なぜ、その人の体の尊厳や統合性を踏みにじってもよい理由になるのかを
いまだに説明していない。
誰かに重症の知的・認知障害があることが、
なぜ、その人の体の尊厳や統合性を踏みにじってもよい理由になるのかを
いまだに説明していない。
これについては、ちょっと前から考えている「尊厳」の問題として、また。
また、重症児の母親として私自身がパーソン論のマヤカシだと感じる点については次のエントリーで。
2009.08.22 / Top↑
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