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2月にこちらのエントリーで紹介した
ロングフル・バース訴訟をテーマにしたJodi Picoultの新刊 Handle with Careを読みました。
(このリンクもPBですが、さらに安くなったPBが9月に出るみたいです。ちょっと悔しい……)

2月に引用した作家自身のサイトの梗概では

主人公夫婦に生まれた娘には骨が折れやすくなる病気があり、
生涯、次から次へと起こる骨折に苦しんで生きなければならない。

医療費がかかって生活が苦しい中、
母親は産人科医に対してロングフル・バース訴訟を起こし、
賠償金によって娘の一生の医療費を手に入れてやりたいと考える。

しかし、そのためには
妊娠中に障害を知らされていれば中絶したはずだったと
母親自身が裁判で証言しなければならない。

そんな証言を娘の耳に入れることを夫は絶対に許さない。
訴訟を起こせば夫との間は修復できなくなるだろう。

さらに彼女が訴えようとしている産科医は
ただ主治医であるだけでなく、彼女自身の親友でもあった。

実際に読んでみると、全体に、てだれの作家がなるほど面白い物語を作りました……という感じで
大部な作品である割に、薄っぺらい印象に終わってしまいました。

なぜ、そう感じるのか、どこが気に入らないのか、
まだ読んだばかりでピンときていないのですが、

母親の愛情が母性神話そのものの定型パターンであることや
主治医である女性産婦人科医と親友であったという設定の無理、
2人の友情があまりにもベタな紋切り型であることなどのほかにも、

たぶん、1つには
前に読んで、それなりに面白かった「わたしのなかのあなた」
兄弟の臓器提供者としてIVFで生まれてくる子ども“救済者兄弟”がテーマだったので、
私にとっては観念的な問題でしかなかったのに対して、

今回のロングフル・バース訴訟は私にとって、
もっと直接的に生々しい自分自身の問題でもあるので、
当事者ではない読者を満足させるべく作られた物語が
どうしても一面的に感じられて物足りないのは仕方ないのかもしれない。

ここには、たぶん、ある問題を考える時の、
当事者とそうでない人の温度差の問題とか、
両者の分かりあえなさの溝を越えることは可能なのか、
可能だとしたら、どういうふうに超えられるのか、といった問題とも繋がるのかも知れず、

そのあたりのことは改めて考えてみたいとは思うのですが、
この作品だけでそれを云々するのは大して意味がないので、

ここでは、この作品から見えてきた
米国のロングフル・バース訴訟に関連したことがらについてのみ。

まず、ロングフル・バース訴訟について、作品中に解説されている一節を以下に。
(仮訳はすべてspitzibaraですが、あまり吟味はしていません)

ロングフル・バース訴訟は、生まれてくる子どもに重大な損傷があることが妊娠中に分かっていたら、母親はその胎児を中絶することを選択していたとして、生まれた子どもに障害があったことの責任を産科医に負わせるものである。原告側からみれば医療過誤の訴訟であり、被告にとっては道徳上の問題となる。つまり、誰かの人生を、あまりに限定されていて生きるに値しないと決める権利が誰にあるのか、という問題に。(P.53)

ロングフル・バース訴訟について初めて聞いて即座に拒否反応を示した父親に
弁護士が言う言葉。

オキーフさん、なんて酷いことを言うんだと思われるでしょう。でも、ロングフル・バースというのはただの法律用語に過ぎません。おたくのお子さんが生まれなかったほうがよかったと我々が考えているわけではないんです。素晴らしいお子さんですからね。ただ、我々としては、患者が受けられたはずの標準的なケアを医師が行わなかったのだとしたら、誰かがその責任を取るべきだと考えるのです。…(中略)……これは医療過誤です。ウィロウのケアにどれだけの時間とお金がかかっているか、この先もどれだけの時間とお金がかかることか、考えてごらんなさい。誰かが犯したミスのツケを、どうしてあなた方が支払わなければならないのです?(p.64)

ウィロウは主人公一家の5歳の次女で
出生前後に生き延びられないほどではないけど非常に重症で、
生涯数え切れないほど骨折を繰り返すことが避けられないだけでなく、
様々な合併症の可能性もあり成人するまで生き延びることも危ぶまれる
タイプⅢの骨形成不全症と設定されています。

(障害児本人がリアルな肉体の苦痛を生涯繰り返し味わわなければならない設定に、
その妙と同時に、ちょっっとしたズルさも感じてしまいました)

作中、地元新聞がウィロウを巡る訴訟を報じた記事の中から、
米国のロングフル・バース訴訟の実態についての言及箇所を、飛び飛びに以下に。

米国の半数以上の州でロングフル・バース訴訟が確認されており、その多くは法定外で、陪審員が決める場合よりも少ない金額で和解に至っている。医療過誤を扱う保険会社がウィロウのような子どもを陪審員の前に連れ出すことを望まないためだ。しかし、このような訴訟は複雑な倫理問題という虫が詰まった缶を開けることになる。例えば、このような訴訟が障害者に対する社会の捉え方にどのような影響を及ぼすのか。日々障害のある我が子が苦しむのを見ている親を批判することが、いったい誰にできるのか。もしも障害によっては中絶すべきだとするなら、それを決める権利は誰にあるのか。そして、ウィロウのように親の証言を聞いて分かる年齢の子どもへの影響は?

(記事に引用された障害者アドボケイトの言葉として)
「しかし、一番の問題は、その子どもに送られるメッセージです。障害のある人は豊かな十全な人生を送ることができない、完全でなければ生きていてはいけない、とね」

最近のニューハンプシャー州(物語の舞台)では2004年のロングフル・バース訴訟での320万ドルの和解金が、2006年に最高裁によって覆されている。(P.214-215)


主人公一家の父親は警察官(しかも既にベテランの巡査部長)なのですが
作中には何度も生活の苦しさが描かれる場面があります。
裁判でも、ウィロウの病気治療費と、装具や車や家の改装費などにお金がかかって、
破産状態だという母親の証言もあります。

もちろん、小説1つからは何ともいえませんが、
米国特有の高額な医療費負担の問題が1つの背景としてあって、
そのために訴訟を起こさざるを得ないという側面もあるかも……。

また医師の方は医師の方で、患者からの訴訟に備えて保険に入っていて
訴訟になっても、その保険会社の雇った弁護士が万端引き受けてくれるわけだから、
保険会社の論理で制されているような米国の医療の実態がまずあって、
それでロングフル・バース訴訟なのかも……と、ちょっと思いました。

さらに物語の中で、とても印象的だったのは、
訴えた母親の弁護士である若い女性が
生まれるなり養子に出されて実の親を知らないまま成長した人だということ。

育ての親との関係は良好で幸せな人生を送ってきたのに、
なぜ自分は親に捨てられたのか、
もしかしてこういう自分でなかったら
母親は自分を捨てなかったのだろうか……という苦しい問いを抱えて、
この訴訟を手がけながら、実の親を必死で探しています。

この弁護士の親探しの物語がバイ・ストーリーとして
やがてメイン・ストーリーと絡まりあうのですが、

もう1つの恐ろしいバイ・ストーリーは
誰にも気付かれないまま進んでいくウィロウの姉の過食症とリストカット。


子も親も夫婦も友人同士も、
みんな、自分が愛されているかどうかが不安で、
自分が愛されていることを確かめられずに、もがいている──。

裁判の最後の辺りで母親が言う言葉。

All any of us wanted, really, was to know that we counted. That someone else’s life would not have been as rich without us here.

誰もが求めているのは、本当のところ、
自分が大切な存在だと確かめたいということだけ。

自分がここにいなかったなら、
誰かの人生が今ほど豊かなものではなかったのだということを。


ちょっと驚いたことに、こちらの論文によれば、
日本でも風疹とダウン症候群とでロングフル・バース訴訟の事例はあるのだとか。

また、去年読んで、私自身はもう何回か読まないと消化できそうもないと感じている本ですが、
社会学者の加藤秀一氏が「〈個〉からはじめる生命論」という本で、
ロングフル・バースとかロングフル・ライフという概念を批判しておられます。


【8月11日追記】
上に引用した作中新聞記事で言及されているケースについて
当時の記事を見つけ、こちらにまとめてみました。



2009.08.10 / Top↑
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