それを受けて、カナダの重症児のお母さんのブログに、
とても良いエッセイが書かれています。
とても良いエッセイが書かれています。
脳卒中で重症障害を負った娘さんは15歳。
2日前に生理が始まったといいます。
そのことの感慨を背景に感じる記事です。
2日前に生理が始まったといいます。
そのことの感慨を背景に感じる記事です。
部分的に抜き出したり、要約しつつ以下に。
私の娘は一人の人です。
前は小さな女の子でしたが、今は女性になりました。
自転車に乗れるようになったとか、泳げるようになったというような
普通の子どもたちが刻んでいく成長の記録は我が家にはありませんでしたが、
それでも私は娘の成長と変化をしっかりと見てきました。
障害があっても娘の成長は優美です。
手足が長くなり、手が大きくなり(この子は、とてもきれいな手をしているのです!)
体のそこここが丸みを帯びて、顔つきが大人びてきて。
私は他の親と同じように、娘の成長を目の当たりにしてきました。
そして、なんて、きれいな子なんだろう、と
娘がありのままに何一つ欠けたものなく美しいこと(perfection)に息を呑むのです。
美術館でずらりと並んだ絵を見たことはありませんか?
絵はそれぞれに違っていて、それぞれの力で見る人に訴えかけてきます。
どの絵もみんな貴重な作品です。
どの絵もみんな、白紙のキャンバスの上に
一度に一筆の絵の具を塗り、その一筆一筆を重ねて描かれてきたものです。
私の娘は、そんなふうに一筆一筆成長し、変わっていく、
素晴らしいアーティストによる作品です。
私はただ、数歩引いたところに立って、そんな娘の姿を見ています。
前は小さな女の子でしたが、今は女性になりました。
自転車に乗れるようになったとか、泳げるようになったというような
普通の子どもたちが刻んでいく成長の記録は我が家にはありませんでしたが、
それでも私は娘の成長と変化をしっかりと見てきました。
障害があっても娘の成長は優美です。
手足が長くなり、手が大きくなり(この子は、とてもきれいな手をしているのです!)
体のそこここが丸みを帯びて、顔つきが大人びてきて。
私は他の親と同じように、娘の成長を目の当たりにしてきました。
そして、なんて、きれいな子なんだろう、と
娘がありのままに何一つ欠けたものなく美しいこと(perfection)に息を呑むのです。
美術館でずらりと並んだ絵を見たことはありませんか?
絵はそれぞれに違っていて、それぞれの力で見る人に訴えかけてきます。
どの絵もみんな貴重な作品です。
どの絵もみんな、白紙のキャンバスの上に
一度に一筆の絵の具を塗り、その一筆一筆を重ねて描かれてきたものです。
私の娘は、そんなふうに一筆一筆成長し、変わっていく、
素晴らしいアーティストによる作品です。
私はただ、数歩引いたところに立って、そんな娘の姿を見ています。
こう書いて、この人はAshley療法を批判しています。
おそらく、Diekema医師なら
「子宮を取っただけで卵巣はそのままなのだからホルモンは分泌されるし、
背が低い以外は普通に成長するのだから、この批判は当たらない」と反論するでしょう。
「子宮を取っただけで卵巣はそのままなのだからホルモンは分泌されるし、
背が低い以外は普通に成長するのだから、この批判は当たらない」と反論するでしょう。
でも、このお母さんはホルモンによる体の成長だけを言っているのではないのだと思う。
最後の1行は、I simply stand back and watch.
この stand back には「手を出さずに」という意味がこめられている。
この stand back には「手を出さずに」という意味がこめられている。
その子なりに子どもから大人へと少しずつ脱皮していくプロセスにこそ
その子にしかない一筆一筆の積み重なりがあり、
どんな子どもであっても、そんなふうに重ねられていく成長にこそ、
何一つ欠けるところのない完璧な美しさがあるのだ、ということ。
その子にしかない一筆一筆の積み重なりがあり、
どんな子どもであっても、そんなふうに重ねられていく成長にこそ、
何一つ欠けるところのない完璧な美しさがあるのだ、ということ。
だからこそ、その子なりの成長という、その子だけにしか描けない作品に
親であっても手を加えてはならないと、彼女は主張しているのだと思う。
親であっても手を加えてはならないと、彼女は主張しているのだと思う。
これこそ、論争当初からCaplanはじめ多くの人が
「どの子どもにも成長する権利がある」と主張していたことなのではないでしょうか。
「どの子どもにも成長する権利がある」と主張していたことなのではないでしょうか。
――――――――
私もまた、思春期の娘を前に、その美しさに息を呑んだことがあります。やはり15歳、16歳の頃だったように思います。
「子ども」から「女の子」になり、「女の子」が「少女」になって、
「少女」から大人の「女性」に向かって脱皮を始めようとする、その、ほんの束の間、
女の子には、えもいわれぬ美しさに包まれる時がある──。
「少女」から大人の「女性」に向かって脱皮を始めようとする、その、ほんの束の間、
女の子には、えもいわれぬ美しさに包まれる時がある──。
その透明な輝きを知っておられる方は多いのではないでしょうか。
ウチの娘でいえば、
それまでは「デッヘェ」とか「ギャッハー」みたいな騒がしい笑顔ばかり見せていた子が
ある日ふと気がつくと、静かな微笑をたたえている。
それまでは「デッヘェ」とか「ギャッハー」みたいな騒がしい笑顔ばかり見せていた子が
ある日ふと気がつくと、静かな微笑をたたえている。
え? と、改めて娘を眺めやってみれば、
いつのまにか伸びやかになった手足の線は優しい丸みを帯び、
肌はすっきりと透き通って内側から輝いていて。
肌はすっきりと透き通って内側から輝いていて。
穏やかに微笑んでいる姿は
まるで、うす桃色の砂糖菓子でできた、透明な繭にでも包まれているかのようで。
まるで、うす桃色の砂糖菓子でできた、透明な繭にでも包まれているかのようで。
いままで原色の存在だった子が
いつのまにか、存在まるごと、パステルカラーになった……という感じ。
いつのまにか、存在まるごと、パステルカラーになった……という感じ。
ただ、静かにそこに座っている、そのたたずまいは、満ち足りて、
ふうわりと優しく柔らかで。そして、どこか、はかなげで。
ふうわりと優しく柔らかで。そして、どこか、はかなげで。
それは、このカナダのお母さんが言うように、本当に
1つとして欠けるもののない優美、完璧な美しさでした。
1つとして欠けるもののない優美、完璧な美しさでした。
どこか、はかなく、もろい感じが漂っていたのは
やはり、生涯で、ほん1度だけ、ほんの束の間にだけ訪れる美しさだったからでしょう。
やはり、生涯で、ほん1度だけ、ほんの束の間にだけ訪れる美しさだったからでしょう。
17歳、18歳と成長するにつれ、
肩や腰の線の丸みは、やがて、たくましい厚みとなり全身がずっしりと質感を増して、
小さい頃から汗をかかないはずの子の髪が汚れるようになり
肌には、にきびができて……大人の体へと変貌を始めました。
肩や腰の線の丸みは、やがて、たくましい厚みとなり全身がずっしりと質感を増して、
小さい頃から汗をかかないはずの子の髪が汚れるようになり
肌には、にきびができて……大人の体へと変貌を始めました。
透明感も、はかなさも、どこかへ消えて、
私は大人になった娘のために小さな制汗スプレーを買いました。
私は大人になった娘のために小さな制汗スプレーを買いました。
そして、子どもの頃には3日と続けて元気だったことのない娘は
その頃を境に、めったなことでは風邪も引かない人になりました。
その頃を境に、めったなことでは風邪も引かない人になりました。
生や死が、呼吸や脳機能だけで云々して捉えきれるような大きさのものでないのと同じように、
子どもの成長もまた、ホルモンや知能だけで測りきれるようなケチなものじゃない──。
子どもの成長もまた、ホルモンや知能だけで測りきれるようなケチなものじゃない──。
そんな気がします。
2009.07.23 / Top↑
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