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シアトル子ども病院のBenjamin Wilfond医師は
Hastings Center Report, 1―2月号に発表した論文で
医療上の必要やメリットが明らかでない重症児への手術を
親が社会心理的な理由で、または自分たちへのメリットのために望んだ場合には
親の選択権を尊重して親に決めさせてあげよう、と主張しています。


もっとも、これまで上記エントリーで読んできたように
この論文でWilfond医師が取り上げているのは、いずれも
医療上の本人利益が明らかに「ある」にも関わらず
障害の重さによって著者が勝手に「ない」と決め付けている……という事例ばかりなのですが、

既に親の決定権にゆだねられている手術の例として
Wilfondが引っ張り出してくるのは、なんと、胃ろう。

Wilfond医師の実にトンデモな「胃ろう観」に話を進める前に
まず「胃ろう」について、一般的なところを簡単にまとめておくと、

「胃ろう」とは
口から食事が摂りにくかったり、口からの食事に危険が伴う場合に、
胃に小さな穴をあけてチューブを常設し、直接胃に栄養分を入れる、
その穴のことであり、また、その技術のことです。

詳細な日本語の解説はこちらに。

しかし、あまりに安易な胃ろう使用には様々な問題も指摘されており、
日本では、なるべくチューブに頼らず口から食べることを続ける取り組みが
行われ始めています。

そのあたりの考え方については、
田園調布学園大学のDCU Weekly Vol.23から
同大・人間福祉学科の遠藤慶子先生の記事の一部を以下に。

医学の目覚しい進歩で脳血管障害などで口から食べることが困難になっても、胃や腸に管を通して栄養を補給することが出来るようになりました。しかし"口"は単に栄養を補給するだけではなく、口から食べることで唾液や胃液を分泌し体内の消化器官を呼び起こし、脳も刺激され、「おいしい」、「うれしい」という人間らしい感情も沸いてきます。つまり"口から食べる"ことで五感が働き、体も脳も活性化されるのです。

食事の介護「口からおいしく食べるということ」

みずほ情報総研のコラムからも
経口摂取に障害をもつ高齢者が、無理に口から食べ物や水分を摂取しようとすれば誤嚥性(ごえんせい)肺炎になり、生命に関わる深刻な問題を抱えることにもなる。そのため医学的判断に基づいて、鼻や胃に挿管し栄養成分等を注入したり、中心静脈から高カロリー輸液を点滴する方法などの経管栄養法を用いるといった栄養・水分摂取の代替・併用手段を講じることも必要となる。しかしながら、食べる楽しみを失ったうえに、栄養摂取量の調整が難しいために低栄養状態となって、全身機能が低下し介護状態に陥るリスクが高くなることを考えると、経口摂取の障害については十分に配慮されなくてはならない。また、経管栄養法を長期間導入するとカテーテル感染症率が高まること、長期間絶食が続くことにより体の消化吸収機能が低下することといった問題も指摘されている。

口から食べる楽しみ ~介護予防の取り組み事例~
医療・福祉室 山本真理 2005年8月23日  


このような胃ろうをWilfond医師は
親が自分への社会的メリットで決めることを許されている重症児への手術の事例として
持ち出してきて、

その選択を、こともあろうに、
ただ単純に食事介助にかかる時間によってのみ説明するのです。

胃ろう造設とは親にとって
ゆっくりと一さじずつ口に運んで食べさせる長い時間のかかる食事介助からの解放であり、

胃ろうを決断できない親というのは、ただひとえに
周囲に、ラクをしたい愛情の薄い親だと思われるのを恐れて決断できないだけだ、と。

なんという浅薄な親の心理の捉え方でしょうか。

これはWilfond医師個人またはシアトル子ども病院特有の文化なのか、
それとも米国の医療ではこれが標準的な理解なのか、
非常に興味があるところですが、

現に今この選択に直面しつつ何ヶ月も答えを出せずにいるカナダ人の親を、
私は知っています。

その人の思春期の息子さんは重症重複障害があり、
ちょっと体調を崩すと、すぐに食べられなくなって寝込んでしまいます。

うちの娘もまったく同じ状態なので、よく分かるのですが、
こういう子どもたちは動きが少ないので、もともと血管が細い上に
脱水状態になると血管の状態も常より良くないために
点滴の針がなかなか入らなくて医師・看護師泣かせです。
何度も針を刺されて本人も辛い思いをします。

息子さんは最近そういうことを頻繁に繰り返すので
医師から胃ろうを薦められたのですが、両親とも迷い続けて答えが出せていません。

脱水になったり栄養状態が悪くなるのは体にとってよくないし、
点滴のたびに何度も針を刺されるのは本人にも辛い、
胃ろうで栄養状態が改善して体力もつくのなら、いっそ……と
息子さんが食べられなくなるたびに考えるのだそうです。

しかし、その一方で、
食べることは彼の生活の中で数少ない楽しみの一つであり、
お気に入りのレストランに家族で出かけるのも楽しみにしている、
そういう喜びを息子から奪ってしまっていいのか、と抵抗感がある、といいます。

他にも手術のリスク、障害に対するスティグマが増えることも気になるそうです。

医師は簡単に「いつでも取り外して元に戻せる」とは言うが
親だって生身の人間なのだから、チューブで簡単に栄養確保ができることになれば
親がその簡単さに慣れてしまって、また手のかかる介助に戻そうとは思えなかも……とまで
考えるといいます。

だから夫婦のどちらかが「もう胃ろうを」と決断するたびに
夫婦のもう一方がためらいを振り切れない……ということを
まるで交代のように繰り返しては決断ができないでいる、と。

私にとっても、食は娘が小さい頃からずっと大きな問題だったし、
娘の障害がこれから年齢とともに重度化していくにつれて
胃ろうも他人事ではなく、いずれ直面しなければならない問題であるだけに、
この夫婦の葛藤はとても切実に分かります。

それだけに、Wilfond医師は
なぜ、これほど複雑で繊細な胃ろう造設の選択を、ただ単純に
「食事介助の時間が短縮できる」vs「短縮したら世間から悪い親だとみなされる」
という選択として捉えられるのか、

小児科医であり、生命倫理学者であるWilfond医師のこのような感覚そのものが
私にはまったく理解できないのです。

ここでもWilfond医師は、
前に指摘した頭部外傷の男の子の手術の事例と同じく、
はじめから狙っている結論に向けて都合のいい論理展開を推し進めるために、
医療上の問題の複雑さをまったく無視し、強引な単純化を意図的に行っているのでしょうか。

それとも、Wilfond医師や
この論文の下書き段階でアドバイスを行ったというDiekema医師にとって
「どうせ何も分からない重症児」には「味覚すら分からない」はずだから
口から食事をしようが胃に直接栄養分を入れようが
本人にとっては何の違いもないとしか考えず、
したがって胃ろうは単純に親の手間の問題に過ぎないと
本気で考えているのでしょうか。

しかし、この感覚の一体どこにQOLへの配慮があるというのか。

重症児に大量のホルモンを投与して成長を抑制することは
家族との行動をたやすくしてQOLの維持向上に役立つ……というのが
一貫してシアトル子ども病院の成長抑制療法正当化の論理でした。

これは明らかにダブル・スタンダードでしょう。

Ashleyが病気をしない限り、実は口から食べられるにもかかわらず
父親の合理的な判断で不必要な胃ろうを造設されてしまったらしいことが思い返されます。

幼児期に早々に胃ろうにされてしまった結果、
今のAshleyは口からものを食べる機能がもはや低下したり
失われていたとしても決して不思議ではありませんが、
因果関係が逆なので、それは決してAshleyの胃ろう造設を正当化しません。

しかし Ashley療法論争では
Ashleyが経管栄養であることは障害の重さの論拠として利用されました。

科学とテクノロジーの簡単解決によって
重症児の体に侵襲することの正当化に利用できる時にはQOLが持ち出されるけれども、

その侵襲がQOLを低下させて、本人以外の利益を優先させる場合には
「どうせ何も分からない重症児だからQOLなど無意味」という論理に摩り替わります。

そうして、科学とテクノロジーによる侵襲でQOLを低下させておいて、
そのQOLの低さこそが障害の重症度を裏付ける材料として利用される。

こうしたご都合主義のダブルスタンダードの使い分けと詭弁によって
「重症児の医療については親の決定権で」という医療倫理スタンダードが広められていく──。

シアトル子ども病院は
Ashleyケースでの倫理上の大失態をカバーアップするために
「重症児の医療における親の決定権」のアドボケイトとなるつもりなのでしょうか。


2009.04.27 / Top↑
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