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英国での事件。

慢性疲労症候群(ME:myalgic encephalopathy, 筋痛性脳症)で17年間寝たきりだった
31歳のLynn Gilderdaleさんが自室のベッドで死んでいるのが見つかった去年12月
母親で元看護師のKathleen Gilderdaleが逮捕されていましたが
このたび殺人未遂で起訴された、とのこと。

殺人未遂(attempted murder)といっても結果的に娘さんは死んでいるので、
直接それが死因となったことは立証できないものの「殺害しようとした」行為を罪に問う
ということではないかと思います。

Lynnさんの死因はモルヒネの過剰摂取。

母親は付きっきりで献身的に介護しており、
医療職にすら誤解の多いMEについて理解を広めるべく、
熱心に啓発活動を行っていた。

逮捕後に親族がその献身ぶりを訴える声明文を発表。

検察サービスの弁護士は
事件の証拠を検証する過程で検討した罪状を
殺人と、殺人未遂(企図?)と自殺幇助の3つだったと語り、

殺人で起訴してLynnさんの死が母親の行為によるものだと立証するには証拠が足りない、
自殺幇助も考えたが、母親の行動と意図から考えると、
それよりも殺害を試みた(attempted murder)と捉える方がより正確だと考えた、と。


去年12月の母親逮捕時の記事はこちら。



事件そのものは、さほど複雑とは思えないのですが、
母親の発言や意識、事件を伝えるメディアの論調に
ものすごく薄気味の悪いものを感じてしまう。

それは、この記事のあちこちで目に付く不可解な曖昧さ、矛盾。

しかも、それは、
自殺幇助の合法化議論で頻繁に目に付く“ぐずぐず状態”の曖昧さであり、
その中で相矛盾するダブルスタンダードが通用していく不可解。

不可解 その1

強引に話が自殺幇助にこじつけられていること。

母親の起訴を受けて、記事は
「Mrs Gilderdaleの起訴の決定は、
彼女がMEをもっと理解してほしいと活動していただけに、
“死ぬ権利”または(すなわち)“慈悲殺”論議を再燃させると見られている」と書いています。

しかし検察官が、事件の状況や母親の行動・意図は
「自殺幇助」と捉えるよりも「殺人未遂(殺害企図)」とする方がより正確だと言っているのに
どうして敢えて話を「死ぬ権利」にこじつけなければならないのか。


不可解 その2

Lynnさんの状態が、記事の場所によって矛盾していること。

例えば、Timeの記事のある場所では
「彼女はコンスタントな苦痛を耐えており、話をするのが非常に困難で、
人を見分けることができず、チューブ栄養で、24時間介護を必要とした」と
書かれています。

これだけでは、
「話をするのが非常に困難」だったとは
果たして意思疎通そのものが不可能だったのか、
それとも困難ながら意思の疎通はできたのか、不明。

また、「話をするのが非常に困難」だった原因が
あまりに苦痛が激しかったためなのか
それとも何らかの身体機能の障害があったのか、
それとも認知機能に問題があったのかも不明です。

しかし「人を見分けることができ」ないという部分だけは
認知機能が低下していたようにも思えます。

一方、別の場所には
Lynnさんが2度も「自殺を試みた」とも書かれているのです。

人を見分けることができないほど認知機能が低下している人は
自殺しようと考えることも、まして試みることもできないはずでしょう。

また、去年のTelegraphの記事には
「症状が改善するとは私は思わなかったし、Lynnも思わなかった」との母親の言葉があります。
意思表示が可能な人だったことになります。

検索でヒットした慢性疲労症候群の解説を読んでみたところ、
どちらかというと身体症状が中心と思われ、
うつ状態があるにしても、この病気の症状として
人が見分けられないほど認知機能が低下するとは思えません。

つまり、Lynnさんが具体的にどういう状態にあったのかが曖昧かつ矛盾しており、
この記事では、まったく客観的・具体的に説明されていないのです。

本人の状態が明確に説明されないまま、
なんとなく「寝たきりの全介助で何もできず何もわからなかったのだな」という印象と
「あまりに悲惨だから自分でも死のうとしたのだな」という印象を
同時に与える記事の書き方になっている。

その2つは、現実には両立しないものであるにもかかわらず。


不可解 その3

周囲の人間の主観によって決定付けられてしまう「悲惨な状態」。

上記の解説からすると、
この母親の言葉から受ける印象とは違ってMEは不治の病などではないし、
この病気でターミナルになることも、まずなさそうです。

記事の書き方は最初から「何も分からない重症者」という前提のようですが、
その点に気をつけて読み込んでみると、
実は本人の知的機能はしっかりとしていたのではないかと思われるのに、
「治るとは本人も思っていなかった」という以外に
本人の意思や気持ちというものが言及されることは一切ありません。

意識的なのか無意識的なのかは別にして母親とメディアは、
母親の頭の中だけにある主観的・観念的な「悲惨な状態」をもって
それが実際のLynnさんの状態であったかのように現実を置き換えてしまうという
とんでもない離れ業をやってのけているのではないでしょうか。

つまり、客観的な事実は問われず、
周囲が本人の状態をどのように捉えるかということだけによって
その人の「悲惨さ」が決定付けられているのでは?

2006年7月に母親のGilderdaleさんが新聞のインタビューで語っていることが
非常に象徴的と思われるのですが、

「誰かが死んだ時、人は悲しみに暮れますが、やがて
その人がいなくなったことを受け入れ、気持ちを切り替えて生きていきます。

しかし、Lynnはそのどちらでもないのです。
Lynnはあの部屋に閉じ込められて、死んでもいないけれど
まともに生きている(alive properly)わけでもないんです」

母親はLynnさんの状態を「永遠に“宙ぶらりん”の状態」とも呼んでおり
「死んでいないけど生きているともいえない」状態だと捉えていたわけですね。

本人が客観的にどういう状態であろうと
(知的機能は冒されていなくとも、困難があるなりに意思の疎通が可能であろうとも
自分で自殺を企てられるほどの身体・知的機能があろうとも、さらに不治の病でなかろうと)

誰か、周りの人の主観的な捉え方の中で
「この人は、まともに生きていると言えない状態」と受け止められてしまえば、
もはや実際の本人の状態など問題ではないかのように……。

この記事から感じる薄気味の悪さは、そこのところにあるような気がする。


すなわち、この母親や、この事件を描くメディアの意識・無意識から見えてくるのは

「慈悲殺」とは
耐え難い苦痛を感じて死にたいと望んでいるのに
自力で死ぬことができない本人の気持ちを周囲の人間が慮って、
その人が望んでいるはずの「自殺幇助」を代理決定してあげることだ―─という論理。

そして自殺幇助希望を代理決定した同じ人が、ついでに、そのまま幇助もしてしまいました、とね。

だから、これは本人の「死の権利」の代理行使なのです、とね。

こんな理屈が通るなら
重い病気や障害のある人の殺人が、いくらでも免罪されてしまう。

自殺幇助合法化の”すべり坂”は、既に始まっている――。
2009.04.18 / Top↑
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