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このところ各国で動きが急になっているので
それにつれて自殺幇助合法化論議をあれこれと読み齧っていると、

私が頭をひねってしまい、同時にコワイなぁ……とも感じるのは、

対象者の像が非常に曖昧なまま、
時により人によって全く別の状態像が想定されつつ
「自殺幇助の合法化」や「死の自己決定権」が議論されていること。

医師による自殺幇助を合法化した国や州の法律の大半は、対象を
余命6ヶ月程度のターミナルな状態で耐えがたい苦痛がある患者に限定しているのだから、
その範囲にきっちりと対象者像を想定して議論されているのなら、まだ話が分かるのですが、

例えば昨日続報を取り上げたカリフォルニアのケースで自殺した男性Jimmy Hartleyさんは
脳卒中の発作を繰り返していくつもの障害が重なり耐えがたい苦痛が続いていたとはいえ、
決してターミナルな状態だったわけではありません。

ところがJimmyさんの自殺を幇助したとして起訴された妹のJuneさんの弁護士は
Jimmyさんの余命は誰にも分からなかったにせよ
彼は「容赦のない苦痛という特異な牢獄にあった」のだとして
Juneさんの幇助行為は「犯罪ではなく慈悲」だと主張しています。

しかし、仮にこれがOregonやWashington州で起こった事件であったとしても、
Jimmyさんがターミナルな状態でなかった以上
医師であっても合法的に自殺を幇助できないはずであり、
Jimmy さんの状態が対象外である点と、
Juneさんが医師でないことの2点によって
Juneさんの行為が犯罪であることは違わないはずなのです。

Final Exitのサイトから読み取れる“支援活動”のリーズニングも、
この弁護士のリーズニングと同じように思われますし、

合法化を進めよと主張する人たちが言っていることも
これと同じように、要するに
「どうせ死が避けられなかったり、
本人にとって耐え難い状態があるのなら、
いつ、どこで自殺するかということは“自己決定権”」ということのようなのです。

それならば、彼らが求めているのは
決してOregon州やWashington州で合法化されているような自殺幇助ではなく、
はるかにその範囲を超えた「死の自由」に他なりません。

「OregonやWashington州のように合法化せよ」と求めながら、
実は彼らが求めているのは、もっと大きな死の自由──。

それが私には非常に気がかりなことに感じられます。

対象者の状態像が厳密に定義されず、
時により場合によって都合よく対象者像が摩り替えられながら
「死の自己決定権」がこうして広く議論されていることに、

意思を表現することができなくなったというだけで
脳死でも植物状態ですらない人が「無益な治療」論の対象となり、
「どうせ治ることはないから無益」だと栄養と水分供給が停止されたり、

功利主義生命倫理を説くシンガーやトランスヒューマニストらが
脳死も植物状態も重症の認知障害も知的障害もロクに区別することなく、
時により場合によって自分たちの都合で軽度の障害像を引き合いに出しつつ
それがあたかも最重度の状態と同じであるかのような摩り替えを巧妙に行っていることや、

Ashley事件で
Ashleyの知的レベルがきちんとアセスメントされたわけでもないのに
重症重複障害があるというだけで「どうせ赤ん坊と同じ」だと決め付けられ、
成長抑制の対象児の基準がいつのまにか
「重症の知的障害」から「意思疎通が出来ない」へと
摩り替わってしまっていること

……などなどと重なり合います。


このような議論に出てくる対象者像のギャップこそが
いったん一部を認めれば対象者が事実上は広げられていき
「滑り坂」が起こってしまうということの何よりの証拠ではないのか、

そして、実はこのような議論が行われることそのものが
広く世の中に「重い障害を負うことそのものが耐えがたい苦痛」との根拠のない通念を植えつけ、

「だから自ら死んだ方がマシ」
「だから自分で意思表示出来なければ死なせてあげるのが本人の利益」

といった価値判断をジワジワと定着させていくのではないのか……と背筋が冷える。



(日本の終末期医療議論においても
「末期」という対象者条件からすると対象外ではずの植物状態の人が
いつのまにか議論に含まれてしまっていることの不可解が指摘されています。)
2009.03.01 / Top↑
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