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前のエントリーに続いて、いただきもので
the Hastings Center Report, January-February 2009に掲載の論文
“Respecting Children with Disabilities – and their parents”
「障害のある子どもを尊重すること ――親も含めて」

著者はThe Hastings Centerの上級研究員Erik Parens

新興テクノロジーで身体を作り変えることや
新たな科学による自己理解の形成への影響などのテーマで研究している人のようです。

大まかな論旨としては、

医療技術を社会的な目的に用いることに対して
障害者自身がどのように発言してきたかを振り返ってみると、
障害の種別により、またその人の考え方や年齢によって多様であり、
十分な説明を受けた判断能力のある障害者は
そうした手術を拒否する場合もあれば自ら求める場合もある。

それならば、他に良い方法が見つからない以上、
十分なインフォームドコンセントを経たうえで
子どもと家族のことを一番把握している親に決めさせてあげればいい。

ただし、Parensは
親を尊重するということは何でも言いなりになることではない」と書き、
十分なインフォームドコンセントの必要を強調しています。

医療以外の問題解決の選択肢が本当に存在しないのかどうか。
医療を手段とする場合と、医療以外の手段を使う場合のコストはどうか。

そして、最も重要な問いとして、
親にとっては聞かれたくない、考えたくない問題であろうけれども、

あなたは子どもを1人の人として捉えるのではなく
 自分の延長・一部として捉えていませんか」と
問い、親に考えさせなければならない、と。

また、もう1つParensがこの論文で指摘しているのは、

「生後6ヶ月の赤ん坊の知的レベル」といった表現は
体の成長が本人にとっては微妙で予見不能な形で重要なものであることを
覆い隠してしまう可能性がある。
そのことも親にはきちんと認識させるべきである、と。

彼が挙げているのは
小さい頃には子どもの歌が好きだったのに、
体の成長に伴ってベートーベンのシンフォニーなどに趣味が変わった
Seshaという障害のある女の子の事例。

知的な成熟をもたらしたのが体の成長だとは限らないので
これをもって「だから体の成長が本人にとって大事」と主張することには
ちょっと無理があると思うのですが、

Seshaの事例の直後に
障害をもった人の生活がどのようなものか直接体験がある人は
このように本人にとっては体の成長が意味を持っていることを知っている、
という点を強調していることからしても、

Parensが言いたいのは
「生後6ヶ月の赤ん坊と同じ」と知的レベルを決め付けて
本来ならできたはずの(体の成長などの)体験を奪ってしまうのは感心しない、
その体験はその人の成熟に大事な意味を持っているかもしれないのだから、
ということではないかと思われます。


これらの2つは大事な指摘であり、
私もそのまま同意するのですが、

同時に、なぜ、
これらの指摘はAshleyケースにおける親と病院の判断への批判でありながら、
論文そのものの結論は「親に決めさせてあげよう」になるのかが分からない。

文脈としては上記2点はあくまでも
親へのインフォームドコンセントへの「ただし書き」といった扱いで、

結論は再び、
こうした点について、きちんとICした上であれば、
他に良い選択肢がない以上、
「社会的な目的で医療を使いたいという親の言い分は
額面どおりに受け取ってあげることが
障害のある子どもたちと親を尊重することになるだろう」と。


「他にいい選択肢がないから」と繰り返して
この人は自分の結論を正当化しているのですが、

そこを煮詰めて考えるのが、
生命倫理学の専門家である、あなたの仕事じゃないんですか──?

また「総論で賛成しておいて、あとで各論になると反対」というのは
巷によくある話ではありますが、

“Ashley療法”論争に出てくる専門家の歯切れの悪さにいつも感じるのは

先に各論を並べて反対しているくせに、
その後に平気で「でも総論は賛成」とまとめることができる不思議──。
2009.02.12 / Top↑
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