ミュウがお世話になっている療育園の
保護者会研修会でお話しさせていただきました。
聞いてくださったのは保護者と職員の方々です。
おはようございます。今日はお集まりいただいて、ありがとうございます。親だけでなく、いろんな立場の方がおられますので、案内の葉書では敢えて「家族」という言葉を使っていただきましたが、これからお話している内には、言い慣れていることもあって、つい保護者・保護者会・子どもたちという言い方を(既に成人している人が多いんですけど)してしまうと思います。私の意図としては保護者の中に、おじいちゃん、おばあちゃんやご兄弟を含め、広く家族を含めて使っていますので、その点、ご理解ください。
いま保護者会の役員さんから、簡単に経緯をご説明いただきましたが、もう10年以上前から、私にはずっと保護者・家族の皆さんにご報告すべきことというのがありました。ずっと、お話ししなければと感じていながら、なかなか果たせずにきたものです。
去年9月に療育園の20周年記念行事が行われた際に、前園長であるS副所長が「20年の歩み」と題したお話の中で、保護者との間で起きた出来事を語られました。当日おられなかった方もあるかと思いますが、だいたいのお話は、医療を一生懸命にやるのが医師としての本文だと思って現場のことは現場に任せていたところ、保護者の不満が大きくなって対立が起こり、それを機に園長として奮起して多くの改善をした、対立が起きた時には針のむしろに座っているような辛い思いをしたけれど、あの時のことがあったから今の療育園がある、というお話でした。その最後を、S先生は「保護者とともに」という姿勢を忘れないように、と言われ、これからの療育園を担っていく次世代のスタッフへのメッセージとしてくださったわけです。
S先生が「針のむしろだった」と言われたように、私にとってもあの時の出来事は、リハセンターという県立の大きな組織を向こうに回して一人で闘わなければならないという、考えるだけでも身が竦むような恐ろしい体験でした。何ヶ月もの間、私たち親子は、本当につらい思いをしました。もちろん私たちだけではなく、多くの人が苦しみ、深く傷ついた大きな出来事でした。
本当に遅ればせになってしまいましたが、今日まず最初にお話しさせていただくのは、保護者の側から見た、その時の出来事です。ここでお話ししきれないことも沢山ありますので、それについては『海のいる風景』という本にあらまし書いていますので、10年前の旧版とその後のことを追加して去年出した新版とがあるんですが、読んでいただければと思います。
今の療育園からはまったく想像もできないことですが、療育園にはずっと昔、入園している子どもたちから笑顔が消えてしまった不幸な時代がありました。最初は、最近、園の中が静かになったなぁ、という漠然とした印象でした。いつのまにか子どもたちへの食事介助が無言で行われるようになっていました。着替えも無言です。子どもたちへの声掛けがなくなり、スタッフの方同士が冗談を言い合うようなこと場面も見なくなって、黙々と機械的に「業務をこなしておられる」というふうに見えました。
それから管理が強化されて、子どもたちの生活が制約されるということが増えました。例えば、学校から外出する予定の日の朝になって、定期の採血があるからこの人はダメです、といってストップがかかる、というようなことです。以前なら、学校からの外出はこの子たちにとって滅多にない機会だから、定期なら採血なら予定の方を融通してもらえていたのですが、なにかにつけ問答無用で「ダメです」「できません」とつっぱねられる。そういうことが増えてきた。園の姿勢がなにか、どんどん管理的、事務的、高圧的になり、それと同時に子どもたちに無関心になっていく感じがしました。
ウチの娘は自己主張が強くて、家に帰ってくると言葉はなくても音声と指差しと顔と全身を使って「ああしろ、こうしろ」と要求しまくり仕切りまくる子なんですけど、その頃、家に連れて帰ってもテレビの前でじっと指をくわえて、ぼ~っと寝ころんでいるようになりました。何も要求せず、何も言わず、ただ無表情にじっとしているんです。もう誰にも何も期待しなくなったみたいな、何もかも諦めてしまったみたいな、あの時の娘の姿を思い出すと私は今でも胸が締め付けられる思いになります。療育園に入所している人たちは重い障害があって思いや気持ちを表現することはできにくいけど、それだけに多くのことを鋭く見抜き、感じていますよね。異変が起きたのはうちの娘だけではなくて、落ち着きをなくした人、胃が痛くなった人、髪の毛が部分的に抜けてしまった人もありました。
この不幸な時代に療育園で起こったことは他にもいろいろありましたが、問題なのはそうした一つひとつの具体レベルで何があったかということではなく、それらの背景にあった姿勢であり意識だったと思います。重い障害のある人のケアでは、医療と生活の間に常にせめぎあいがあります。私自身、ミュウは幼児期に3日と続けて元気だということのない子でしたから、この子を病気にしない配慮と、少しでも豊かな経験をさせてやりたいという思いとの間で、いつも葛藤していました。そこには「これが絶対に正解」というものはないし、その両者のどこで折り合いをつけるかというのは、いつもとても悩ましい。親はいつでも結果論で自分を責めなければならなかったりもしますが、でも、その悩ましさを私が引き受けなければ、この子の生活はどんどん失われていく、と私はずっと考えていました。
14年前に療育園で起こったことの内、最も重大だったことというのは、そういう葛藤を放棄されたことだったと思います。ただリスクを排除していくことを考えられて、その結果、医療と生活のバランスが大きく医療の側に傾き、当時の療育園は病院になってしまいました。もちろん、ここで暮らす子どもたちにとって医療はとても大事です。私は決して医療を軽視するつもりはありません。でも、ここは医療さえ行われればよい病院ではなくて、子どもたちが日々を暮らす生活の場なんです。無表情になったり髪が抜けるほど子どもたちを傷つけていたのは、子どもたちを医療の対象としか見ない意識でした。身体しか見ず、生活にも心にも心の痛みにも無関心な眼差しに、子どもたちは傷ついていました。
子どもたちへの無関心は保護者への無関心と地続きになっていきます。当時起こった重大なことのもう一つは、「保護者に説明する必要はない」と、保護者から隠されたことがあった、ということです。でも、隠すと、どうしてもつじつまが合わないことが出てくるんですね。それで今度は、隠したという事実を隠さなければならなくなる。つじつまが合わないことはさらに広がります。そうして、ついに保護者が声を上げた時には、もうつじつまなど合いませんから、これはどこの組織でも同じパターンなんじゃないかと思うんですけど、出てくるのは「子どもたちのためにやったことだ」という正当化と、専門職として判断したことだという専門性の強調ですね。
声を挙げた保護者に対して、当時の師長さんは「子どもたちの安全と健康のためにやったことです。間違った判断はしていません」とつっぱねられました。一方で、その同じ師長さんが園内では「業務がはかどるようになって職員は喜んでいます」と発言されていました。
専門性の名のもとに、本当は本人以外のためだったり、少なくとも本人のためだけではないことが、本人たちのためだと言い換えられる時、その姿勢は、都合が悪いことは隠すという姿勢と地続きです。そこにあるのは「保護者は余計なことを知らず黙っておいてくれればいい」という意識でしかなくて、保護者が何を心配しているのか、その心配と向き合って一緒に子どものことを考えようという気持ちがそこにはないからです。保護者は子どもたちに起きた異変が心配だと訴えたわけなんですけど、「子どもたちの安全と健康」を考えていると言われる師長さんが、その異変には全く関心を示されませんでした。
当時の師長さんは、子どもの一人がベッドから転落するという事故が起きた時に、その場でかん口令を敷かれました。この事故についてはその場にいた者以外には漏らさないように、とその場で口止めをされたわけです。これは本当に恐ろしいことです。保護者に説明する必要はない、という姿勢には、最初はどんなささいなことから始まるにせよ、いずれはここへ行きつく危うさが潜んでいると私は思います。
信頼関係とは結果ではなく、プロセスなんですね。事故が起きたから、その結果として信頼が壊れるのではなく、信頼関係を大切に築いていこうとするプロセスがなかったから、事故が起きた時に隠さなければならなくなった。それが、14年前に起きたことの本質であり、これは保護者として決して忘れてはならない、あの不幸な時代の教訓だと私は思っています。
(次のエントリーに続く)
保護者会研修会でお話しさせていただきました。
聞いてくださったのは保護者と職員の方々です。
おはようございます。今日はお集まりいただいて、ありがとうございます。親だけでなく、いろんな立場の方がおられますので、案内の葉書では敢えて「家族」という言葉を使っていただきましたが、これからお話している内には、言い慣れていることもあって、つい保護者・保護者会・子どもたちという言い方を(既に成人している人が多いんですけど)してしまうと思います。私の意図としては保護者の中に、おじいちゃん、おばあちゃんやご兄弟を含め、広く家族を含めて使っていますので、その点、ご理解ください。
いま保護者会の役員さんから、簡単に経緯をご説明いただきましたが、もう10年以上前から、私にはずっと保護者・家族の皆さんにご報告すべきことというのがありました。ずっと、お話ししなければと感じていながら、なかなか果たせずにきたものです。
去年9月に療育園の20周年記念行事が行われた際に、前園長であるS副所長が「20年の歩み」と題したお話の中で、保護者との間で起きた出来事を語られました。当日おられなかった方もあるかと思いますが、だいたいのお話は、医療を一生懸命にやるのが医師としての本文だと思って現場のことは現場に任せていたところ、保護者の不満が大きくなって対立が起こり、それを機に園長として奮起して多くの改善をした、対立が起きた時には針のむしろに座っているような辛い思いをしたけれど、あの時のことがあったから今の療育園がある、というお話でした。その最後を、S先生は「保護者とともに」という姿勢を忘れないように、と言われ、これからの療育園を担っていく次世代のスタッフへのメッセージとしてくださったわけです。
S先生が「針のむしろだった」と言われたように、私にとってもあの時の出来事は、リハセンターという県立の大きな組織を向こうに回して一人で闘わなければならないという、考えるだけでも身が竦むような恐ろしい体験でした。何ヶ月もの間、私たち親子は、本当につらい思いをしました。もちろん私たちだけではなく、多くの人が苦しみ、深く傷ついた大きな出来事でした。
本当に遅ればせになってしまいましたが、今日まず最初にお話しさせていただくのは、保護者の側から見た、その時の出来事です。ここでお話ししきれないことも沢山ありますので、それについては『海のいる風景』という本にあらまし書いていますので、10年前の旧版とその後のことを追加して去年出した新版とがあるんですが、読んでいただければと思います。
今の療育園からはまったく想像もできないことですが、療育園にはずっと昔、入園している子どもたちから笑顔が消えてしまった不幸な時代がありました。最初は、最近、園の中が静かになったなぁ、という漠然とした印象でした。いつのまにか子どもたちへの食事介助が無言で行われるようになっていました。着替えも無言です。子どもたちへの声掛けがなくなり、スタッフの方同士が冗談を言い合うようなこと場面も見なくなって、黙々と機械的に「業務をこなしておられる」というふうに見えました。
それから管理が強化されて、子どもたちの生活が制約されるということが増えました。例えば、学校から外出する予定の日の朝になって、定期の採血があるからこの人はダメです、といってストップがかかる、というようなことです。以前なら、学校からの外出はこの子たちにとって滅多にない機会だから、定期なら採血なら予定の方を融通してもらえていたのですが、なにかにつけ問答無用で「ダメです」「できません」とつっぱねられる。そういうことが増えてきた。園の姿勢がなにか、どんどん管理的、事務的、高圧的になり、それと同時に子どもたちに無関心になっていく感じがしました。
ウチの娘は自己主張が強くて、家に帰ってくると言葉はなくても音声と指差しと顔と全身を使って「ああしろ、こうしろ」と要求しまくり仕切りまくる子なんですけど、その頃、家に連れて帰ってもテレビの前でじっと指をくわえて、ぼ~っと寝ころんでいるようになりました。何も要求せず、何も言わず、ただ無表情にじっとしているんです。もう誰にも何も期待しなくなったみたいな、何もかも諦めてしまったみたいな、あの時の娘の姿を思い出すと私は今でも胸が締め付けられる思いになります。療育園に入所している人たちは重い障害があって思いや気持ちを表現することはできにくいけど、それだけに多くのことを鋭く見抜き、感じていますよね。異変が起きたのはうちの娘だけではなくて、落ち着きをなくした人、胃が痛くなった人、髪の毛が部分的に抜けてしまった人もありました。
この不幸な時代に療育園で起こったことは他にもいろいろありましたが、問題なのはそうした一つひとつの具体レベルで何があったかということではなく、それらの背景にあった姿勢であり意識だったと思います。重い障害のある人のケアでは、医療と生活の間に常にせめぎあいがあります。私自身、ミュウは幼児期に3日と続けて元気だということのない子でしたから、この子を病気にしない配慮と、少しでも豊かな経験をさせてやりたいという思いとの間で、いつも葛藤していました。そこには「これが絶対に正解」というものはないし、その両者のどこで折り合いをつけるかというのは、いつもとても悩ましい。親はいつでも結果論で自分を責めなければならなかったりもしますが、でも、その悩ましさを私が引き受けなければ、この子の生活はどんどん失われていく、と私はずっと考えていました。
14年前に療育園で起こったことの内、最も重大だったことというのは、そういう葛藤を放棄されたことだったと思います。ただリスクを排除していくことを考えられて、その結果、医療と生活のバランスが大きく医療の側に傾き、当時の療育園は病院になってしまいました。もちろん、ここで暮らす子どもたちにとって医療はとても大事です。私は決して医療を軽視するつもりはありません。でも、ここは医療さえ行われればよい病院ではなくて、子どもたちが日々を暮らす生活の場なんです。無表情になったり髪が抜けるほど子どもたちを傷つけていたのは、子どもたちを医療の対象としか見ない意識でした。身体しか見ず、生活にも心にも心の痛みにも無関心な眼差しに、子どもたちは傷ついていました。
子どもたちへの無関心は保護者への無関心と地続きになっていきます。当時起こった重大なことのもう一つは、「保護者に説明する必要はない」と、保護者から隠されたことがあった、ということです。でも、隠すと、どうしてもつじつまが合わないことが出てくるんですね。それで今度は、隠したという事実を隠さなければならなくなる。つじつまが合わないことはさらに広がります。そうして、ついに保護者が声を上げた時には、もうつじつまなど合いませんから、これはどこの組織でも同じパターンなんじゃないかと思うんですけど、出てくるのは「子どもたちのためにやったことだ」という正当化と、専門職として判断したことだという専門性の強調ですね。
声を挙げた保護者に対して、当時の師長さんは「子どもたちの安全と健康のためにやったことです。間違った判断はしていません」とつっぱねられました。一方で、その同じ師長さんが園内では「業務がはかどるようになって職員は喜んでいます」と発言されていました。
専門性の名のもとに、本当は本人以外のためだったり、少なくとも本人のためだけではないことが、本人たちのためだと言い換えられる時、その姿勢は、都合が悪いことは隠すという姿勢と地続きです。そこにあるのは「保護者は余計なことを知らず黙っておいてくれればいい」という意識でしかなくて、保護者が何を心配しているのか、その心配と向き合って一緒に子どものことを考えようという気持ちがそこにはないからです。保護者は子どもたちに起きた異変が心配だと訴えたわけなんですけど、「子どもたちの安全と健康」を考えていると言われる師長さんが、その異変には全く関心を示されませんでした。
当時の師長さんは、子どもの一人がベッドから転落するという事故が起きた時に、その場でかん口令を敷かれました。この事故についてはその場にいた者以外には漏らさないように、とその場で口止めをされたわけです。これは本当に恐ろしいことです。保護者に説明する必要はない、という姿勢には、最初はどんなささいなことから始まるにせよ、いずれはここへ行きつく危うさが潜んでいると私は思います。
信頼関係とは結果ではなく、プロセスなんですね。事故が起きたから、その結果として信頼が壊れるのではなく、信頼関係を大切に築いていこうとするプロセスがなかったから、事故が起きた時に隠さなければならなくなった。それが、14年前に起きたことの本質であり、これは保護者として決して忘れてはならない、あの不幸な時代の教訓だと私は思っています。
(次のエントリーに続く)
2013.02.12 / Top↑
生活書院のHPで毎月初めにアップされているWeb連載
福井公子さんの「障害のある子の親である私たち――その解き放ちのために」の
4回目、「勇気」「運動会」「ケイタイ」「虐待」の4編を読んだ。
http://www.seikatsushoin.com/web/fukui04.html
特に1編めの「勇気」から、
ずっと思ってきたことを、私も書きたくて収まらなくなったので。
「勇気」に書かれているのは、
障害のある子どもの親に対して
作業所や施設を作るとか、障害のある子どものために地域で活動したり事業を起こすなど、
「社会的に行動する親であること」を求めるプレッシャーのこと。
福井さんは
「グループホームぐらい立ち上げたらどうなんだ」と
親仲間に言われたことがあるという。
私もミュウの幼児期に、行政の人から
「どうして親の会を立ち上げないんですか」と言われたことがある。
別の町の行政の人から、
「親が動かなかったら、施設もサービスもできませんよ」
「今すぐ運動を始めたって、形になるのは10年も先のことですよ」と
すぐにも活動を始めなさい、という趣旨のアドバイスをされたこともある。
そのたびに、私は困惑した。
当時の私は、3日と元気だということのない幼いミュウを抱え、
大学の専任講師の仕事をしながら、心身ともに限界との闘いのような日々を送っていたし、
その後もミュウを施設に入れざるを得なかったことで自責の思いや
そこに至るまでに積み重なった自分自身の気持ちの不安定とで、
自分が生き延びることだけで精いっぱいだった。
天職と思い決めていた職業をあきらめざるを得ないかと悩んでいるような
ぎりぎりの生活状況で、それでも、この上まだ
社会的に行動を起こせと求められるのか……。
私も福井さんのように、
「不平不満ばかり言っていないで、自分でやったら」と叱られているような気分になり、
しばらく気持ちが落ち込んだ。
直接的に「やったら?」と言われないまでも、
社会の矛盾や問題について自分なりの思いを語っていると、相手の人から
行動し何かを成し遂げた親として著名な人の名前や本のタイトルを挙げて
「この人のことを知っているか」と問われる、ということも少なくはなかった。
それもまた私には
「モンクばかり言っていないで行動を起こし何かを成した親だっている。
あなたも行動したらどうか」というメッセージとして届いた。
そのたびに、
「親の会を立ち上げたり、事業を興したりという社会的な活動をできない自分」のことを
私はあれこれと心でいじり回さないではいられなかった。
アドバイスしてくれた人は
それなりに「買って」くれたつもりの激励だったかもしれないし、
実際、熱心にその人と話をしている時には、私自身、
「そのくらい辞さない!」くらいのトーンで熱く語っていたのだろうと思うし、
できることならやりたい、実現できたらいいなぁ、と思い描く「夢」なら
正直、これまでに、いくつもいくつも数え切れないほど心に抱いてきた。
そして、その、どれひとつについても、
私は実現に向けた行動を起こせなかった。
私が「行動できなかった」のは、
本当はただミュウとの生活だけでも限界を超えていたから、というだけではなかった。
心身ともに余裕がなかったから、というだけでもなかった。
私自身に「人と一緒に何かをやる」ための協調性が欠けているから、というのが
たぶん一番大きな要因だったと思う。
そのことに、いつからか私は気付いていたし、
気付いてからは、ずっと「対人関係で能力がない」自分を情けなく感じてきた。
もちろん、言い訳すれば他にもいろいろあるのだけれど、それらをひっくるめて、
要するに「そういうことができた人ほどに人間が優れていないから、私にはできなかった」と
いつからか考えるようになった。
だから、人から「行動しないの?」メッセージを受けるたびに
自分の「人格的な欠陥」のことをぐずぐずと弄くりまわしてきた。
そして、そういう時、同時に、
障害のある子どもの親にだって、いろんな人がいるはずなのにな、
その中には人をまとめてリーダーとして引っ張るのが得意な人もいれば
人と一緒に何かをやることが苦手なタイプだっていて当たり前なのにな…と
小さな、本当に小さな、誰にも聞こえない声で、こっそりとつぶやいてきた。
ずいぶん長いこと、そうやってイジイジと生きてきて、
さすがに私も、ちょっとだけ強い人になった。
だから、最近の私は、思っている。
簡単に言えば、
私は、そういうことに向いていない、ということに過ぎないんだ……って。
いいじゃない。その代わりに
自分に向いていることは、私なりに懸命にやってきたんだから――。
そして今は、そこで、さらに
「ちょっと待ってよ」と考えるようになった。
ちょっと待ってよ。
障害のある子どもの親になったからといって、
何かに懸命になって生きなければならないと感じたり、
自分や誰かに対して、それを証明して見せられなければ
社会に対してものを言う「資格」がないと感じたりって、
それって、そもそもヘンじゃない――?
福井公子さんの「勇気」から。
たとえば、若い親たちが「保育所が少ない、子育て支援が不十分だ」と訴えた時、社会の人は「不平ばかり言ってないで、自分たちで保育所を創ったらどうなんだ」と言うでしょうか。……(中略)……
「それであなたの息子さんに良い支援が届かなかったら、どうなんだ」と言われるかもしれません。そうだとしても、「それは私の責任ではない」と言いたい。つまり、私たち親が「それは社会の役割だ」。そう言い切きる勇気がなかったのではないか。……(以下略)
―――――
ずっと前に初めて『私は私らしい障害児の親でいい』という本を書いた時に、
「あなたは、モノは言えても行動は起こせない人なのではないか」と
ある人に言われたことがあった。
それ以来、
障害のある子どもの親として社会で行動したり何事かを成したわけでもない私には
障害のある子どもの親という立場でものを書く「資格」などないのでは……という
心もとなさのようなものが、どこかに居座っている。
その心もとなさに対しては
「いや、まだまだ親について語られていないこと、語られるべきことは沢山ある。
それなら、誰にだって、それを語る『資格』はあるはずだ」と
きっぱりと反論する声を、最近ようやく獲得できてきたところ。
福井公子さんは私から見れば、親の会のリーダーとして活躍してこられて、
「行動し、多くを成し遂げた」人、立派に「資格」をお持ちの方でもあるけれど、
福井さんの「勇気」という文章と出会ったおかげで、
私も自分の中にくすぶり続けていた思いをやっと
思い切って表現することができ、このエントリーになった。
それは、福井さんの「資格」とは無関係に、
福井さんが書かれた文章そのものの力が起こしてくれたことだ。
やはり表現することは、それ自体が「行動」なのだと、
改めて確認させてもらった気がする。
それに、表現することだって、
本当は相当な「勇気」を奮い起さなければできないことだったりもする。
福井さん、いつも
表現する「勇気」を、ありがとうございます。
福井公子さんの「障害のある子の親である私たち――その解き放ちのために」の
4回目、「勇気」「運動会」「ケイタイ」「虐待」の4編を読んだ。
http://www.seikatsushoin.com/web/fukui04.html
特に1編めの「勇気」から、
ずっと思ってきたことを、私も書きたくて収まらなくなったので。
「勇気」に書かれているのは、
障害のある子どもの親に対して
作業所や施設を作るとか、障害のある子どものために地域で活動したり事業を起こすなど、
「社会的に行動する親であること」を求めるプレッシャーのこと。
福井さんは
「グループホームぐらい立ち上げたらどうなんだ」と
親仲間に言われたことがあるという。
私もミュウの幼児期に、行政の人から
「どうして親の会を立ち上げないんですか」と言われたことがある。
別の町の行政の人から、
「親が動かなかったら、施設もサービスもできませんよ」
「今すぐ運動を始めたって、形になるのは10年も先のことですよ」と
すぐにも活動を始めなさい、という趣旨のアドバイスをされたこともある。
そのたびに、私は困惑した。
当時の私は、3日と元気だということのない幼いミュウを抱え、
大学の専任講師の仕事をしながら、心身ともに限界との闘いのような日々を送っていたし、
その後もミュウを施設に入れざるを得なかったことで自責の思いや
そこに至るまでに積み重なった自分自身の気持ちの不安定とで、
自分が生き延びることだけで精いっぱいだった。
天職と思い決めていた職業をあきらめざるを得ないかと悩んでいるような
ぎりぎりの生活状況で、それでも、この上まだ
社会的に行動を起こせと求められるのか……。
私も福井さんのように、
「不平不満ばかり言っていないで、自分でやったら」と叱られているような気分になり、
しばらく気持ちが落ち込んだ。
直接的に「やったら?」と言われないまでも、
社会の矛盾や問題について自分なりの思いを語っていると、相手の人から
行動し何かを成し遂げた親として著名な人の名前や本のタイトルを挙げて
「この人のことを知っているか」と問われる、ということも少なくはなかった。
それもまた私には
「モンクばかり言っていないで行動を起こし何かを成した親だっている。
あなたも行動したらどうか」というメッセージとして届いた。
そのたびに、
「親の会を立ち上げたり、事業を興したりという社会的な活動をできない自分」のことを
私はあれこれと心でいじり回さないではいられなかった。
アドバイスしてくれた人は
それなりに「買って」くれたつもりの激励だったかもしれないし、
実際、熱心にその人と話をしている時には、私自身、
「そのくらい辞さない!」くらいのトーンで熱く語っていたのだろうと思うし、
できることならやりたい、実現できたらいいなぁ、と思い描く「夢」なら
正直、これまでに、いくつもいくつも数え切れないほど心に抱いてきた。
そして、その、どれひとつについても、
私は実現に向けた行動を起こせなかった。
私が「行動できなかった」のは、
本当はただミュウとの生活だけでも限界を超えていたから、というだけではなかった。
心身ともに余裕がなかったから、というだけでもなかった。
私自身に「人と一緒に何かをやる」ための協調性が欠けているから、というのが
たぶん一番大きな要因だったと思う。
そのことに、いつからか私は気付いていたし、
気付いてからは、ずっと「対人関係で能力がない」自分を情けなく感じてきた。
もちろん、言い訳すれば他にもいろいろあるのだけれど、それらをひっくるめて、
要するに「そういうことができた人ほどに人間が優れていないから、私にはできなかった」と
いつからか考えるようになった。
だから、人から「行動しないの?」メッセージを受けるたびに
自分の「人格的な欠陥」のことをぐずぐずと弄くりまわしてきた。
そして、そういう時、同時に、
障害のある子どもの親にだって、いろんな人がいるはずなのにな、
その中には人をまとめてリーダーとして引っ張るのが得意な人もいれば
人と一緒に何かをやることが苦手なタイプだっていて当たり前なのにな…と
小さな、本当に小さな、誰にも聞こえない声で、こっそりとつぶやいてきた。
ずいぶん長いこと、そうやってイジイジと生きてきて、
さすがに私も、ちょっとだけ強い人になった。
だから、最近の私は、思っている。
簡単に言えば、
私は、そういうことに向いていない、ということに過ぎないんだ……って。
いいじゃない。その代わりに
自分に向いていることは、私なりに懸命にやってきたんだから――。
そして今は、そこで、さらに
「ちょっと待ってよ」と考えるようになった。
ちょっと待ってよ。
障害のある子どもの親になったからといって、
何かに懸命になって生きなければならないと感じたり、
自分や誰かに対して、それを証明して見せられなければ
社会に対してものを言う「資格」がないと感じたりって、
それって、そもそもヘンじゃない――?
福井公子さんの「勇気」から。
たとえば、若い親たちが「保育所が少ない、子育て支援が不十分だ」と訴えた時、社会の人は「不平ばかり言ってないで、自分たちで保育所を創ったらどうなんだ」と言うでしょうか。……(中略)……
「それであなたの息子さんに良い支援が届かなかったら、どうなんだ」と言われるかもしれません。そうだとしても、「それは私の責任ではない」と言いたい。つまり、私たち親が「それは社会の役割だ」。そう言い切きる勇気がなかったのではないか。……(以下略)
―――――
ずっと前に初めて『私は私らしい障害児の親でいい』という本を書いた時に、
「あなたは、モノは言えても行動は起こせない人なのではないか」と
ある人に言われたことがあった。
それ以来、
障害のある子どもの親として社会で行動したり何事かを成したわけでもない私には
障害のある子どもの親という立場でものを書く「資格」などないのでは……という
心もとなさのようなものが、どこかに居座っている。
その心もとなさに対しては
「いや、まだまだ親について語られていないこと、語られるべきことは沢山ある。
それなら、誰にだって、それを語る『資格』はあるはずだ」と
きっぱりと反論する声を、最近ようやく獲得できてきたところ。
福井公子さんは私から見れば、親の会のリーダーとして活躍してこられて、
「行動し、多くを成し遂げた」人、立派に「資格」をお持ちの方でもあるけれど、
福井さんの「勇気」という文章と出会ったおかげで、
私も自分の中にくすぶり続けていた思いをやっと
思い切って表現することができ、このエントリーになった。
それは、福井さんの「資格」とは無関係に、
福井さんが書かれた文章そのものの力が起こしてくれたことだ。
やはり表現することは、それ自体が「行動」なのだと、
改めて確認させてもらった気がする。
それに、表現することだって、
本当は相当な「勇気」を奮い起さなければできないことだったりもする。
福井さん、いつも
表現する「勇気」を、ありがとうございます。
2013.01.14 / Top↑
園との連絡ノートから。
あはは。まぁね。
自分の写真を見るのはヤなもんだよね。
今日、(隣接の養護学校での)文化祭の展示見学に行ってきました。
始めは学齢児さんの教室へ。
「どこ? 何?」という表情で少し緊張気味。
(一応しっかりお伝えして行ったつもりだったのですが……)
次に、保育&成人グル―プの部屋へ。
すると表情が明るくなり、声もしっかり出始めました。
利用者さんの写真を次々に指差して見ていました。
しかし、いよいよミュウさんの成人グループの紹介のところへ来ると、
急に照れくさそうな表情をし、見ようとしません。
幼児さんのコーナーの方に顔を向け、声を出し、
「あっちを見ようよ」と言っているような感じでした。
その後も、他の利用者さんの写真、作品を
しっかり見て帰りました。
あはは。まぁね。
自分の写真を見るのはヤなもんだよね。
2012.11.13 / Top↑
昨日、園に行かれた保護者の方が、以下のように
昼食時のミュウの様子を知らせてくださった。
今日、ミュウちゃんが昼食時に、ほかの人をしっかり拒否して、
ちょっとハンサムな H大の男子実習生を大きな声で呼んでいる光景を
すごく楽しくみせていただきました。
そして、その学生が食事介助すると、
すごく上手に食べられるのですよね!?
楽しい楽しいひとときでした。
テーブルのみんなが和んでいました。
今日、迎えに行った時に
「昨日、イケメンを呼んで食事介助してもらったんだって?」と
ツッコミ入れてみたら、まー嬉しそうな顔して「ハ―」。
「実習生が来てると楽しい?」
「ハ!」 即答。
昼食時のミュウの様子を知らせてくださった。
今日、ミュウちゃんが昼食時に、ほかの人をしっかり拒否して、
ちょっとハンサムな H大の男子実習生を大きな声で呼んでいる光景を
すごく楽しくみせていただきました。
そして、その学生が食事介助すると、
すごく上手に食べられるのですよね!?
楽しい楽しいひとときでした。
テーブルのみんなが和んでいました。
今日、迎えに行った時に
「昨日、イケメンを呼んで食事介助してもらったんだって?」と
ツッコミ入れてみたら、まー嬉しそうな顔して「ハ―」。
「実習生が来てると楽しい?」
「ハ!」 即答。
2012.11.04 / Top↑
園との連絡ノートより
今日の昼食後、更衣し、
ミュウさんとゴロゴロ(添い寝)しました。
TVをつけると右頬が下になり、
(塗ったばかりの)軟膏がとれるかと思ったので。
ミュウさ―ん!
「は―――い」
口パク&右手挙上。
ミュウちゃん
「は―――い」
口パクのみ。
コダマ ミュウさーん。
「は……」
もう、いいよ。何回も……。
ちゃんと返事してくれるのが嬉しくて、
何度も呼んでしまいました。
すごくニコニコされていて、
声掛けにすごく反応してくれて……。
嬉しかったです。
ありがとう!!
元気な週末をお過ごしください。
今日の昼食後、更衣し、
ミュウさんとゴロゴロ(添い寝)しました。
TVをつけると右頬が下になり、
(塗ったばかりの)軟膏がとれるかと思ったので。
ミュウさ―ん!
「は―――い」
口パク&右手挙上。
ミュウちゃん
「は―――い」
口パクのみ。
コダマ ミュウさーん。
「は……」
もう、いいよ。何回も……。
ちゃんと返事してくれるのが嬉しくて、
何度も呼んでしまいました。
すごくニコニコされていて、
声掛けにすごく反応してくれて……。
嬉しかったです。
ありがとう!!
元気な週末をお過ごしください。
2012.09.29 / Top↑