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ミュウがお世話になっている療育園の
保護者会研修会でお話しさせていただきました。

聞いてくださったのは保護者と職員の方々です。


おはようございます。今日はお集まりいただいて、ありがとうございます。親だけでなく、いろんな立場の方がおられますので、案内の葉書では敢えて「家族」という言葉を使っていただきましたが、これからお話している内には、言い慣れていることもあって、つい保護者・保護者会・子どもたちという言い方を(既に成人している人が多いんですけど)してしまうと思います。私の意図としては保護者の中に、おじいちゃん、おばあちゃんやご兄弟を含め、広く家族を含めて使っていますので、その点、ご理解ください。

いま保護者会の役員さんから、簡単に経緯をご説明いただきましたが、もう10年以上前から、私にはずっと保護者・家族の皆さんにご報告すべきことというのがありました。ずっと、お話ししなければと感じていながら、なかなか果たせずにきたものです。

去年9月に療育園の20周年記念行事が行われた際に、前園長であるS副所長が「20年の歩み」と題したお話の中で、保護者との間で起きた出来事を語られました。当日おられなかった方もあるかと思いますが、だいたいのお話は、医療を一生懸命にやるのが医師としての本文だと思って現場のことは現場に任せていたところ、保護者の不満が大きくなって対立が起こり、それを機に園長として奮起して多くの改善をした、対立が起きた時には針のむしろに座っているような辛い思いをしたけれど、あの時のことがあったから今の療育園がある、というお話でした。その最後を、S先生は「保護者とともに」という姿勢を忘れないように、と言われ、これからの療育園を担っていく次世代のスタッフへのメッセージとしてくださったわけです。

S先生が「針のむしろだった」と言われたように、私にとってもあの時の出来事は、リハセンターという県立の大きな組織を向こうに回して一人で闘わなければならないという、考えるだけでも身が竦むような恐ろしい体験でした。何ヶ月もの間、私たち親子は、本当につらい思いをしました。もちろん私たちだけではなく、多くの人が苦しみ、深く傷ついた大きな出来事でした。

本当に遅ればせになってしまいましたが、今日まず最初にお話しさせていただくのは、保護者の側から見た、その時の出来事です。ここでお話ししきれないことも沢山ありますので、それについては『海のいる風景』という本にあらまし書いていますので、10年前の旧版とその後のことを追加して去年出した新版とがあるんですが、読んでいただければと思います。

今の療育園からはまったく想像もできないことですが、療育園にはずっと昔、入園している子どもたちから笑顔が消えてしまった不幸な時代がありました。最初は、最近、園の中が静かになったなぁ、という漠然とした印象でした。いつのまにか子どもたちへの食事介助が無言で行われるようになっていました。着替えも無言です。子どもたちへの声掛けがなくなり、スタッフの方同士が冗談を言い合うようなこと場面も見なくなって、黙々と機械的に「業務をこなしておられる」というふうに見えました。

それから管理が強化されて、子どもたちの生活が制約されるということが増えました。例えば、学校から外出する予定の日の朝になって、定期の採血があるからこの人はダメです、といってストップがかかる、というようなことです。以前なら、学校からの外出はこの子たちにとって滅多にない機会だから、定期なら採血なら予定の方を融通してもらえていたのですが、なにかにつけ問答無用で「ダメです」「できません」とつっぱねられる。そういうことが増えてきた。園の姿勢がなにか、どんどん管理的、事務的、高圧的になり、それと同時に子どもたちに無関心になっていく感じがしました。

ウチの娘は自己主張が強くて、家に帰ってくると言葉はなくても音声と指差しと顔と全身を使って「ああしろ、こうしろ」と要求しまくり仕切りまくる子なんですけど、その頃、家に連れて帰ってもテレビの前でじっと指をくわえて、ぼ~っと寝ころんでいるようになりました。何も要求せず、何も言わず、ただ無表情にじっとしているんです。もう誰にも何も期待しなくなったみたいな、何もかも諦めてしまったみたいな、あの時の娘の姿を思い出すと私は今でも胸が締め付けられる思いになります。療育園に入所している人たちは重い障害があって思いや気持ちを表現することはできにくいけど、それだけに多くのことを鋭く見抜き、感じていますよね。異変が起きたのはうちの娘だけではなくて、落ち着きをなくした人、胃が痛くなった人、髪の毛が部分的に抜けてしまった人もありました。

この不幸な時代に療育園で起こったことは他にもいろいろありましたが、問題なのはそうした一つひとつの具体レベルで何があったかということではなく、それらの背景にあった姿勢であり意識だったと思います。重い障害のある人のケアでは、医療と生活の間に常にせめぎあいがあります。私自身、ミュウは幼児期に3日と続けて元気だということのない子でしたから、この子を病気にしない配慮と、少しでも豊かな経験をさせてやりたいという思いとの間で、いつも葛藤していました。そこには「これが絶対に正解」というものはないし、その両者のどこで折り合いをつけるかというのは、いつもとても悩ましい。親はいつでも結果論で自分を責めなければならなかったりもしますが、でも、その悩ましさを私が引き受けなければ、この子の生活はどんどん失われていく、と私はずっと考えていました。

14年前に療育園で起こったことの内、最も重大だったことというのは、そういう葛藤を放棄されたことだったと思います。ただリスクを排除していくことを考えられて、その結果、医療と生活のバランスが大きく医療の側に傾き、当時の療育園は病院になってしまいました。もちろん、ここで暮らす子どもたちにとって医療はとても大事です。私は決して医療を軽視するつもりはありません。でも、ここは医療さえ行われればよい病院ではなくて、子どもたちが日々を暮らす生活の場なんです。無表情になったり髪が抜けるほど子どもたちを傷つけていたのは、子どもたちを医療の対象としか見ない意識でした。身体しか見ず、生活にも心にも心の痛みにも無関心な眼差しに、子どもたちは傷ついていました。

子どもたちへの無関心は保護者への無関心と地続きになっていきます。当時起こった重大なことのもう一つは、「保護者に説明する必要はない」と、保護者から隠されたことがあった、ということです。でも、隠すと、どうしてもつじつまが合わないことが出てくるんですね。それで今度は、隠したという事実を隠さなければならなくなる。つじつまが合わないことはさらに広がります。そうして、ついに保護者が声を上げた時には、もうつじつまなど合いませんから、これはどこの組織でも同じパターンなんじゃないかと思うんですけど、出てくるのは「子どもたちのためにやったことだ」という正当化と、専門職として判断したことだという専門性の強調ですね。

声を挙げた保護者に対して、当時の師長さんは「子どもたちの安全と健康のためにやったことです。間違った判断はしていません」とつっぱねられました。一方で、その同じ師長さんが園内では「業務がはかどるようになって職員は喜んでいます」と発言されていました。

専門性の名のもとに、本当は本人以外のためだったり、少なくとも本人のためだけではないことが、本人たちのためだと言い換えられる時、その姿勢は、都合が悪いことは隠すという姿勢と地続きです。そこにあるのは「保護者は余計なことを知らず黙っておいてくれればいい」という意識でしかなくて、保護者が何を心配しているのか、その心配と向き合って一緒に子どものことを考えようという気持ちがそこにはないからです。保護者は子どもたちに起きた異変が心配だと訴えたわけなんですけど、「子どもたちの安全と健康」を考えていると言われる師長さんが、その異変には全く関心を示されませんでした。

当時の師長さんは、子どもの一人がベッドから転落するという事故が起きた時に、その場でかん口令を敷かれました。この事故についてはその場にいた者以外には漏らさないように、とその場で口止めをされたわけです。これは本当に恐ろしいことです。保護者に説明する必要はない、という姿勢には、最初はどんなささいなことから始まるにせよ、いずれはここへ行きつく危うさが潜んでいると私は思います。

信頼関係とは結果ではなく、プロセスなんですね。事故が起きたから、その結果として信頼が壊れるのではなく、信頼関係を大切に築いていこうとするプロセスがなかったから、事故が起きた時に隠さなければならなくなった。それが、14年前に起きたことの本質であり、これは保護者として決して忘れてはならない、あの不幸な時代の教訓だと私は思っています。

(次のエントリーに続く)
2013.02.12 / Top↑
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