"今日は個別活動(スタッフと1対1で好きなように過ごせる時間)でした。
最初、売店に行くのはどうする? と尋ねると、「行く~~!」という返事だったので、散歩がてら売店へ行きました。
雑誌売り場の前で眺めていると、TV雑誌(表紙がキムタク)に目が止まったようなので、買おうかどうか相談し、ミュウさんとしては「まぁ、買ってみようかねー」といった様子でしたが、せっかくでしたので購入しました。
その後、病棟に帰って、「ピコ or DVD or メロディ絵本」を提示したところ、「絶対 DVD!」との返事で、何枚か並べたDVDの中からお気に入りの「おかあさんといっしょ」(2002年の懐かしいもの)を選ばれ、職員と一緒に歌ったり踊ったりと楽しみ、昼食になり止めるのが非常にさみしい様子だったので、結局、PMの入浴後にも観て、上機嫌でした
療育園との連絡ノートより。
なお、以下の写真つきでした。
①車いすのテーブルの上に
手持ちのDVD(「おかあさんといっしょファミリーコンサート」と「氷川きよしコンサート」とか)を
ずらりと並べてもらって、迷いまくり、目移りしまくっているミュウ。
②その中の一枚を手に、まだ他のにも未練がありそうな目つき、
真剣な顔で悩んでいるミュウ。
③心を決めたらしく、「それでいいですか」「はーい!」と
片手をあげて、すっきりした顔で答えているミュウ。
この③の顔と、カメラの向こうの人に向けた目線が、すごく、いいんです。
とりたてて、大きな笑顔、というのじゃないんだけど、
カメラの向こうにいる人と日々の生活の中で普通につながった信頼関係があって、
ミュウが安心しきって、普通にくつろいで過ごしている日常――。
療育園のみなさん、ありがとうございます
きらら理事長、高谷清氏の連載「言葉に見る人間の心 ⑥」を読ませてもらう機会があり、
ああ、こういう深い眼差しを親子に向けることのできる医師もおられるのだ、と、
またそれが重心医療の医師であるということが、さらに嬉しかった。
協力
医療をおこなうには、いろいろの手技が必要となる。注射や導尿などの手技がある。心身の重い障害のある人は自分で食事を摂れないのはもちろん、食事介助しても流動食や水分もなかなか呑みこんでくれないし、無理をすると気管に入り肺炎をおこすことになる。
そこでやむをえず、チューブ栄養(経管栄養)になる。鼻から細いチューブを胃まで通す。一日に何回も栄養を入れるので、抜かずにばんそこうで留めておく。このチューブがなにかの拍子で抜ける。かんたんに挿入できる子もいるが、変形や筋緊張があってうまく入らず、このときお母さんにやってもらうと、かんたんに入ることがある。
医療者はいろんな人に、その行為をしなければならないが、お母さんは自分の子だけだから慣れているのだ、と思っていた。しかしお母さんが入れる様子をみているとどうも違うのである。チューブ栄養が必要なのは障害が重い子が多く、周囲のことは何もわかっていないと思われている。呼びかけても反応がないし、身体にふれるとその接触に対して反応しているだけのようにみえる。しかしお母さんが挿入しているときには、身体がそれほど緊張しないし、気持ちが安心しているように見える。チューブの挿入を受け入れているのである。医療者が一方的に挿入しているのとは異なり、母と子が協力しあって挿入が可能となっている、と感じた。
こうした手技やさまざまな医療処置は、「おこなう人」と「おこなわれている人」という関係のようにみえるが、実は双方が協力しあって、その目的が実現しているのであると実感した。
医療、教育、育児、福祉などは、医療者、教師、親、介助者が一方的に「する」行為ではなく、「されている」とみえる当事者との、「協力」で成り立っている。
「協」という字は、「力」が三つから成り立っているが、「力」は農具の「すき」からきており、「農耕に協力する」意味であり、また「」と「十」で「会意」とするようである。医療、教育、育児、福祉はする人の一方的な行為でなく、一見「される」とされている人との双方の協力の行為であることを肝に銘ずる必要があると感じた。
参考 白川静「字統」「字訓」平凡社
これと同じことを、私は母子入園で初めてボイタ法を習った時に娘に感じたことがある。
入園中、赤ん坊の頭を苦しい位置に押さえつけて本能的に暴れさせ、その試行錯誤のあがきの中から正しい寝返り動作を身に付けさせるというボイタ法の訓練には、私は精神的な影響の方が気になって、正直なところ、あまり信頼を持てなかった。母親との信頼関係を形作るうえで一番大切な時期にこんな訓練をさせて、取り返しのつかない傷を心に負わせてしまったら、いったい誰が責任をとってくれるんだ……?
けれど、母親のそんな懸念をよそに、むしろ、ふんが、ふんが、と鼻を膨らませてがんばってみせたのは、当の本人だった。これには内心、度肝を抜かれた。最初の数回こそパニックしたものの、すぐに泣かなくなった海は、一歳足らずの分際で、ちゃんと意欲的にリハビリに取り組もうとしていたのである。人間が何かを本能的に察知するということはきっと、頭で納得する以上にすごいことなのだ。
「海のいる風景」P.75-76
実はこのエピソードの最初の段落と次の段落の間には、とっておきの裏話がある。
最初、私のボイタ法に対する不信はとても強くて、
途中で母子入園をやめて帰ろうかと本気で悩んだほどだった。
毎日、決まった時間にみんなと一緒に訓練室に行きはするものの、
生まれて以来ずっと病院暮らしみたいだった1歳にも満たないミュウは
初めて体験する多くの人間の気配という、外界からの強すぎる刺激を
シャットアウトして自分の中に閉じこもり身を守ろうとするかのように
訓練室に入るや、すとんと眠り込んでしまう。
まずは雰囲気に慣れるまで、ゆっくり様子を見ようと
私は訓練開始を急ごうとは思わなかった。
一方、当時のボイタ法というのは
「早期発見・早期療育」の掛け声のもと「奇跡の療法」だと信じられていて、
訓練室は「私が歩かせてみせる!」という母親たちの気迫で張り詰めている。
のんびりと隣の休憩室で子どもを寝かせている私には
「いったい何しに来た?」「訓練室の雰囲気がダレる」などの非難が飛び始める。
自分が我が子のリハビリに命をかけるのは勝手だけど、
他人が子どものペースを尊重する方針にまで口を出される筋合いはない。
そういう人には、ちょいと水を差してあげた。
「あのね、調べてみたら、リハビリテーションという学問そのものが、
日本に入ってきて、まだせいぜい20年とか30年とか、そういう話なんだよ。
いま私たちがやれと言われて素直にやっている、こういうのが
今から10年も経ってみたら実は間違いだった……なんてことだって
あり得ないわけじゃないと思うよ。そう簡単に奇跡なんか起きないよ」
(ボイタ法については実際、私の予言通りになった。
この辺りのことについては「現代思想」2010年3月号で
杉本健郎、立岩真也両氏の対談が取り上げている)
そんな鬱屈を抱えていた頃、
ミュウのバギーを押しての夕食後の散歩で
がらんとした外来のあたりをウロついていたら、
向こうから小児科医の一人がこっちに向かって歩いてきた。
まだ一度受診しただけで、ちゃんとお話ししたこともない。
いかにもセカセカと忙しそうでもある。でも、その時の私はたぶん
もう誰かに話さないではいられないだけ満杯になっていたのだと思う。
「先生、ちょっとご相談したいことがあるんですけど」
自分でもびっくりするくらい真っすぐに声をかけてしまった。
忙しそうに見えたS先生は「じゃぁ」と
そのまま小児科外来に招き入れてくれた。
さし向いに座るや、私はしばし、
母子関係を作るべき大切な時期に母への信頼が揺らがないかとか、
心はどうなる、本当にそれだけのリスクを侵すだけの効果があるのか、など
ボイタ法に迷い揺らぐ気持ちを堰が切れたようにぶちまけた。
先生は途中で遮ることなく(ぶちまける迫力に口を挟めなかったのかもしれないけど)
最後まで聞いてくれてから、思いがけないことを言った。
「この訓練をやって、本当に効果があるかどうか、
お母さん、正直なところ僕にも分からない」
は?
「たぶん本当のところ、誰にも分からないと思う。
今はこれしか他にやってあげられることがないから、とりあえず、
これをやってみようというのが実際のところかもしれない」
はぁ、やっぱり、そういう話で……。
「でもね、お母さん、僕は思うんだけどね、
お母さんが自分の辛い気持ちを抱えながら、
ミュウちゃんのために、と思って押さえつけて訓練をやる、
その思いはミュウちゃんにはきっと伝わるはずだって、
僕はそう信じたいと思うんだよ」
その後、私はS先生との間に、なかなか味のある信頼関係を築かせてもらうのだけれど、
本当の意味で私にとって先生との「出会い」となったこの時に、
先生がすぐに時間をとってくれたこと。
私の思いを正面から受け止めて聞いてくれたこと。
「正直わからない」と率直に本当のことを話してくれたこと。
この3つは私たち親子の運命を変えてくれたと、今でも私は思っている。
この3つがあったことの先に出てきた
「ミュウちゃんには伝わるはずだと信じたい」という先生の言葉は
私の迷いをすぱんと断ち切ってくれた。
先生が「伝わるはずだ」と思うなら
母親である私は「伝えてみようじゃないか」と――。
そろそろ娘も雰囲気に慣れてきていた。
「奇跡を起こしてみせる」オーラが張りつめ、誰も余計なことは一切しゃべらない訓練室で
私はいつも通りにミュウに話しかけ(これは常時2人分の会話を一人でしゃべっていることを意味する)、
訓練の間はミュウへのエールとして必ず「おかあさんといっしょ」の歌を歌った。
するとウチの隣の訓練台の人も息子のために家からカセットデッキを持ってきた。
そのうち少しずつ訓練の時間帯にも親同士が普通に会話を交わすようになり、
やがて和気あいあいと母親同士がジョークを飛ばしながら
それぞれの子の訓練に励む訓練室になった。
そんな中でミュウは
頭を苦しい位置に押さえつけられても泣かなくなり、
何を求められているのかを一歳児なりに探り始めていた。
それは押さえつけている手からも、娘のクソ真面目な顔つきや目つき、鼻息からも
私にはしっかりと伝わってくる手応えだった。
まさに高谷氏が書いている「協力」――。
私の思いはS先生が言った通りミュウに伝わり、
ミュウは見事にそれに応えようとした。
そして、
海が自力でひょっこりと初めての寝返りを打って見せたのは、母子入園を終えて家に帰った日の夕方のことだった。
それまでは、いいところまではいくものの、最後の一山を越えられずに元に戻っていたのが、何のはずみか、その時はひょいっと簡単にでんぐり返ってしまったのだ。突然、目の前の景色までくるりと向きを変えたのに自分で仰天して、「な、な、なぁ~にが、起こったんだぁ……?」と、海は頓狂な顔で辺りを見回していた。
「海のいる風景」P.75
その日、達成感の旨みというやつを生まれて初めて知ったミュウはしっかりと味をしめ、
その後は放っておいても一人でせっせと寝がえりにチャレンジしては"一人リハ"を繰り返していた。
当然ながら、寝返りはどんどん上手になっていった。
あの日もしもS先生が
高いところから母親を「指導」しにかかってくるような医師だったら、
私は不信感をふっきることができず、
ミュウにもあの日のとてもスペシャルな寝返りは
きっと起こらなかったのではないか、という気がする。
子と親と、
そこに「親の慣れ」ではなく、親子の「協力」を見ることのできる
深い人間理解のまなざしをもった医師が寄り沿うことによって初めて、
子と親と医師との「協力」によって起こすことのできる“奇跡”――。
重心施設に向かう廊下でスタッフの一人とばったり出くわした。
「この前、プールで遊んだんですよ」
「えっ?」
いきなり聞かされたものだから、心底、仰天した。
「夏にプール」で仰天するなんて、大げさな……と思われるかもしれないけど、
寝たきりの大人サイズの体がねじれていたり、ねじれたなりに硬直していたりする
重い障害のある人と介護者にとって、プールに入る(入れる)というのが、どれだけ大変なことか……。
ミュウが小さなうちは、我が家でも夏になれば海にも連れて行ったし、
家の前に親子3人が余裕で遊べるほど大きなプールを組み立てもした。
おむすびをいっぱい作っておいて、プールで遊んだ後は
濡れたままの身体で、ビーチパラソルの下で、おむすびを頬張る。
そういうのが我が家の夏の定番だった。
6歳の頃だったか、
どうしても上がらないと言い張るので、ついつい遊ばせていたら
唇が青ざめてきたので、ついに強制退去に及び、
プールから引きあげて玄関のタオルの上に下ろしたとたんに、
近所中に響き渡るどでかい抗議の泣き声を放ち、
そのまま長い間盛大に泣き続けた年があった。
言葉を持たない子が
「まだ、やるんだぁぁぁぁ!!!」
「なんで、勝手にやめるんだぁぁぁぁ!!」
「こんなの許せないぃぃぃぃぃ!!!」と
仰向けで空中に地団太踏みながら猛烈に怒りまくっていた。
本人に聞くと「覚えていない」フリをしているけど
夏になると父と母の間で必ず出てくる思い出話だ。
学校に上がってからは、
毎年、授業で何回かスポーツセンターの温水プールに入れてもらって、
そのたびにミュウはホンモノのプールでごきげんだった。
小学校時代には、夏休みに家でプールを出す時に、
担任が水着を持ってきて一緒に遊んだこともあった。
でも、中学校、高校と体が大きくなるにつれ、
家の前にプールを出すことは少なくなっていった。
準備もそれなりに大変なのだけれど、これは元気なうちにルンルンとやるからいい。
水に入った後、どっと重たく疲れた体での後片付けが、実はものすごくしんどい。
それから、ここは実際に障害のある子どもと生活している人でなければ
なかなか分かってもらえないところだろうけど、
プール遊びの後にも、子どもの介護は常と同じく続くので、
着替え、オムツ交換、車イスへのトランスファー、食事作り、食事介助、
食事の後片付けと並行して薬を飲ませて、歯を磨いて顔を拭いて、
トランスファー、オムツ交換、着替えて、トランスファー、本を読んで、寝かせて、
一緒に寝て、夜の間、何度か寝がえりをさせて、喉が乾いたと言えば
夜中に起きだして冷蔵庫に取りに行って飲ませて、またオムツを替えて、
寝てくれるかと思ったら2時や3時にキャピキャピされて
虐待に及びそうな自分を必死で抑制し、そのことにさらにぐったりとし……と
非日常的なことをやって非日常的な疲れ方をしてしまったからといって
省略できることはないし(さすがにプールに入った日はシャワーだけはパス)
誰か替わってくれる人がいるわけでもなく、
重く疲れた体を娘の幸せそうな笑顔で励ましながら
父と母とでいつもと同じようにこなしていくしかない。
で、学校でホンモノのプールに入れてもらうのをいいことに、
だんだんと我が家のプールには出番がなくなっていった。
高等部を卒業するころには、
親の方も通常の介護で腰やひざをやられることが増えて来て、
もうプールなんて考えられなかった。
高等部を卒業した次の年だったか、その次だったか、
施設の方で何人かずつ順番に室内プールへ連れて行ってくださったけれど、
コイズミ政権の露骨な福祉切り捨てからこっち
年々ジリジリと職員の数は減り、残った職員の半数以上がいつのまにか非正規となって、
どうかすると、みんな、目の下にクマを作って働いておられる。
そんな姿を見ていると、
ミュウの人生で、夏にプール遊びができる季節そのものが
もう終わったんだなぁ……と、なんとなく思っていた。
2年前に
「たぶん親も本人も体力的に最後のチャンスだから」とUSJ旅行を敢行したのと同じような意味合いで、
「夏にプールで遊ぶ」という時間も、もうミュウにはないのだろうな、と漠然と思っていた。
そして、そんなことを思うたびに、
大事な宝物を手のひらで転がしていとおしむみたいに
玄関で抗議の爆泣きを続けた、あのミュウの姿を思い出しては夫婦で懐かしんでみたりする。
だから、この夏のはじめに、
園の駐車場の一角に、真新しい大きな組み立て式プールが出現した時にも、
療育園の隣にある肢体不自由児施設が設置したプールだというのはすぐに分かったし、
それは我が子とは無関係なものとして、特に意識して目を止めることもなかった。
なので、廊下で出会いがしらに「プールで遊びました」と聞かされて、
本当に、心底、仰天してしまった、というわけなのです。
「もう何年も、園ではそういうことをしていないし、
こういう言い方もナンですけど、もうちょっと年をとってくると
入りたくても体力的に入れなくなったりもするから、
若い人たちだけでも、今の内に入れてあげたいということになって……」
思わず、じん、と涙ぐんでしまった。
この人たちだって、過酷な労働環境で、
日常の普通の仕事をこなすだけでも疲れ果てているのに、
こんな猛暑の夏に、そこに追加して、そんなハードな計画を……と
思うと、心の底からありがたくて、
そして、そのおかげで、
もう二度とプールに入ることなどないだろうと諦めていたウチの子が
また、そういう経験ができたんだ、楽しかったんだ、と思うと
じん……と嬉しさが心に沁みてきて。
「ミュウさん、大喜びで、キャーキャー言ってました。
金魚すくいのポイが気に入って、頑として放さないんですよ」
そこで、また我々夫婦は「あれは、たしか6歳の夏に……」
例の抗議の大号泣の思い出話をひとくさり。
大笑いしつつ、喋りながらまた涙ぐみつつ、
ひょいっと抱き上げれば、どこへでも行け
何でもさせてやれた昔のヒトコマを披露する。
療育園に行くと、いつもの連絡ノートにプール遊びの写真が3枚はさんであった。
オシャレな水着を着せてもらい、浮き輪に入って職員さんに支えられているミュウ。
口をとがらせて、ポイでプラスチックの金魚を掬いにいくのに熱中している。
水をバシャバシャさせながら顔全体で「ギャッハー」と喜ぶミュウと、
ミュウの隣で大きな浮き輪に入ってくつろぐ、40代のヨーコさん。
その向こうで、何が気に入らないのか、ぶすっとふくれ面になっている、みっちゃん。
そして、最後の写真は、
和やかな表情で、ゆらゆら水を楽しんでいるミュウ。
そこにいるウチの娘は、親にはあまり見せることのない23歳の「女性」の顔をしていた。
穏やかな時間、ゆらぐ水面に夏の陽がキラキラして……。
もちろん目の前にいるミュウの笑顔は
いつだって母を一番ハッピーにしてくれるマジックなのだけれど、
いつからか、親の知らないミュウの時間の中で、この子が見せる笑顔やくつろいだ表情に
何よりもかけがえのない嬉しいものを母は感じるようになった。
その写真を何度も繰り返し眺めながら、つくづく思う。
QOLを決めるのは、その人の障害の種類や程度じゃない。
QOLは、周りにいる人たちの、その人への思いが決める――。
そして、たぶん、その思いを実現可能にする社会資源とが――。
その後、父と母はお盆休みに向けて、町に家庭用のプールを探しに行きました。
ミュウが体を伸ばして入れるサイズでは売れ残りの最後の一つだったため、
ラッキーなことに半額でゲット。
昨夜も腰に湿布を貼って寝たことを思えば、
あはは。もう、ほとんど「決死の覚悟」です。
加えて、これだけ酷暑だと、
本当に外で遊べるかどうかも分からない。
でもね。
昔のようにプールを用意して、
梅干しと昆布と海苔と沢庵もそろえて、
お盆にいつもよりちょっとだけゆっくり家に帰ってくるミュウを待ちたかったんだ。今年は――。
大きな県立の複合施設(ここではセンター)の一組織という位置づけ。
その療育園で、もう10年ほども前になるだろうか、私は
「師長&園長のタグ・チーム 」vs「保護者一人」というバトルを闘ったことがある。
もうほとんど思い出すこともなくなった、遠い昔のことだ。
昨日、古くからの友人(ここではAさん)と何年振りかで会ってランチをした際に、
当時のことについて、思いがけないエピソードを聞かせてもらった。
Aさんの御夫君は、当時センターの医療に外部から関わりのあった医師。
その関わりの関係で、センター所長と会った時のことだそうだ。
「いま療育園で、とても頑張っている保護者がいる」と所長が言ったのだという。
「ワシはこの人の言っていることは正しいと思う。だから、
ワシはその保護者の味方になろうと考えているんだ」と。
え? ……所長が、そんなことを……?
胸を突かれ、ジンと目に涙がにじんだ。
確かに、10年前のバトルの時、
あの大きな県立施設全体の長であった所長が、私の最強の理解者だった――。
さんざん療育園内部ですったもんだした末に、所長が会いたいと言っていると聞いた時、
私は「ついに所長が出てきたか。厄介な親を丸めこみにかかるつもりだな」と思った。
その日、私の予想の通りに、所長は妙にソフトな低姿勢でやってきた。
でも、社会的バカである私は、どんな時でも「まっすぐ」しか知らない。
その日も、やっぱり、ひたすら「まっすぐ」にしゃべった。
すると途中で、それまでテキトーに聞き流していた所長の顔が少しずつ変わり、やがて黙り込んだ。
押し黙ったまま、最後まで話を聞くと、「あんたの言うとることは、
ただのモンクじゃないのぉ。もっと本質的な問題じゃ……」と唸った。
「ワシは今日あんたをなんとか丸めこもうと思うてきたんじゃが、わかりました。
センターとして対処します。ただ、その方法を考えなければならない。時間をください」
職員への事情聴取が始まった。私も事務局長に呼ばれ、育成課長とも総看護師長とも会って話をした。
まもなく所長から電話があり、「書きものにされると、ワシは立場上さらに事情聴取をせねばならない。
これから先は、手紙やファックスは止めてくれんか。
あんたが会いたいと言えば、ワシはあんたとはいくらでも会う」
情報が操作された現場では、看護課職員からミュウへの報復もあった。
「ミュウちゃんは我々育成課が絶対に守ります」と育成課長が約束してくれた。
ミュウを連れて園に帰ったら、看護職員が誰ひとり出て来てくれない日があった。
その日、ミュウの主治医は、我々親子がいつも帰園する時間に療育園の入り口で、
他に用がありげに装っていることがミエミエの不器用さで、待っていてくれた。
私たちは、先生のその姿によって、その日を耐える力を与えられた。
別の施設に異動になっていた昔馴染みの看護師さんが、
突然、家まで訪ねて来てくれた週末もあった。
「噂でいろいろ聞いて、お母さんが心配でたまらなかったから」といって。
本当にたくさんの、いろんなことがあった。
ミュウの主治医と育成課長に支えてもらいながら、総看護師長と情報交換をし、
事務局長とも会い時に激しく渡り合いもしたけれど、私から所長に連絡はとらなかった。
そんなある日、渡り廊下の外の喫煙所でタバコを吸っていたら偶然に所長が通りかかった。
ついぞ見たこともないような柔和な笑顔を振り向けると
「そこは寒かろうが。……ワシの部屋にも灰皿はあるぞ」。
それから、また、さらに沢山の、いろんなことがあり、
誰にとっても長かった時間の終わりに、私は所長から呼ばれた。
あの日以来、所長室で向かい合うと、この間の経緯を本当に率直に、
私がこの先、絶対に人に言えないようなことも含めて、所長はありのままに語ってくれた。
当時ヘビースモーカーだった私は、私の倍くらいヘビーだった所長と2人で、
大きな灰皿に吸い殻を盛り上げ、広い所長室の空気を灰色にした。
「今後に向けた具体的な改善策を、これとこれと考えている」と提示して、
「他に何か、あんたから提案したいことがあるか」と聞いてくれた。
年に一度の個別カンファに親を含めてほしいという点を含めて
たしか3つほど提案させてもらったように記憶している。
2つはすぐに了解してもらい「カンファだけは考える時間をくれ」と言われた。
翌週、電話がかかってきて、「今はまだ職員の意識がそこまでいっていない。
将来的な実現を念頭に努力はするが、今の段階では無理だと判断した。
その代わり、カンファの前に必ず保護者の意見を聞いて会議に反映させるよう
現場を指導した。現段階では、それで了解してほしい」
次の春、園では師長が変わった。
新体制スタート直前に、私は事務局長から呼ばれ、思いがけない依頼を受けた。
新年度の職員研修の一環として、親としての思いを
直接自分の言葉で語りかけてほしい、と機会を与えられたのだった。
「所長も承知しています。内容については、何を言ってもらっても、一切構いません」
(この時、話した内容を含め、このバトルの時のことはこちらに書いています。
宣伝めいて恐縮ですが、読んでいただけると嬉しいです)
――もう何年も何年も前の出来事だ。
所長も、事務局長も、総看護師長も、育成課長も、その後一人ずついなくなった。
ミュウの主治医は別施設の園長になっていった。
療育園の園長も副センター長になり現場を去った。
園長が替わる時に会えなかったので、挨拶のメールを入れたら、
「あの時には地獄の苦しみを味わったけれど、
あの時に自分は一人の小児科医から園長になれたと思う。
だから、あなたのことは恩人だと思っている」と、返事をもらった――。
昨日、10年の年月の向こうから、ふいに聞こえてきた所長の言葉に、
そんな遠い記憶が一つずつ掘り起こされ、昨日から蘇り続けている。
園長が地獄の苦しみだったと言ったように、私の中にも大きなトラウマが残っている。
そのせいもあって、なるべく思い出さないようにしてきた辛い記憶のはずなのに、
こうして記憶をたどりなおしてみると、私はなんと稀有な体験に恵まれたことだろう。
なんと大きな人たちに巡り合えていたことだろう。
私はなんと幸福な人だったことだろう。
昨日話を聞かせてもらった時にもジンと涙ぐんでしまったけれども、
懐かしい人たちの記憶が一つよみがえるたびに今日は何度も涙をボロボロこぼしている。
所長に、もう何度、心の中で頭を下げたかわからない。
あの稀有な体験ができた幸福に、もう何度、感謝したかわからない。
そんな稀有な体験をもたらしてくれた人たちを一人一人思い出しながら
もう何度、心で語り掛けたかわからない。
あの時、一人の保護者の思いを受け止めてくれた懐の大きなセンターは、
もうなくなってしまいました。所長のような人は、もう、どこにもいません。
でも、人がいないというだけでは、たぶん、ないのだと思います。
ああいう懐の深さを許さない、厳しい時代になってしまったのだろうと思います。
あの時、私は最後には「辛かったけど、あれだけ頑張って訴えたら
受け止めてくれる人、分かってくれる人が出てきてくれた」と思わせてもらいました。
その一部始終を見ていたミュウの父親は、懲りない妻を案じて、
「お母さんは、あれだけ頑張らなければ分かってもらえなかった、というふうには捉えないよね。
少し、そういう方向にも考えた方がいいと思うけど」と言います。
でも、私はやっぱりどこかで
心から訴え続ければ分かってくれる人が出てきてくれると思っているみたいなのです。そして
理不尽なことは何一つ言っていないのに、また「厄介なモンスター」にされそうなのです。
信頼していない人はゼッタイに言わない。信頼しているから言えるのだと思うのに、
言った瞬間に信頼していないことにされてしまう。それが、とても悲しい。
でも、また一生懸命に訴えたら、やっと、少しだけ分かってもらうことが出来ました。
だから、私はたぶん、もう少し分かってもらおうと「まっすぐ」をするのだろうと思います。
でも、言われのない敵意や憎しみのターゲットにされることは、本当は、私にも、とても恐ろしい。
所長、私はいつまで、分かってくれる人に出会い続けることができるんでしょう?
この時代の空気を、所長も感じてくれていますか?
心ある人が、頑張ろうとしても頑張ることを封じられてしまうような。
心ある人が、頑張ることの虚しさに耐えきれずに、燃え尽きていくしかないような。
心あったはずの人が、いつのまにか口を閉じ、目をそむけ、
うつむいて、子どもたちを見ず、「業務」をこなしていくしかなくなるような。
心あったはずの人が、いつのまにか「できません」しか言えなくなり、言わなくなるような。
そんな自分を振り返る余裕すら奪われていくような――。
所長、保護者と対峙するのではなく横に並んで共に考えてください、という訴えを
受け止めてくれる人と、私はいつまで出会うことができるのでしょうか。
これから私たち親子が生きていく世界でも、
そんな人に出会うことができるでしょうか。
これから重い障害のある子どもたちが生きていかなければならない時代は、
そんな人を少しは残していてくれるでしょうか。
「厄介な保護者」のための灰皿が、まだその世界には残されているでしょうか。
私はもう何年も前にタバコと縁を切ってしまいましたが、
あの時の所長室は、今はどこに行けばありますか、所長?
ぽかぽかと暖かい日が続いている。
お昼ご飯を食べた後で、
あれこれヤボ用を兼ねた近所のお散歩へ出掛ける。
背中を照らす日差しは、ほとんど暑いくらいで
寒い間ちぢこまっていた身体がのびのびと広がって、喜んでいる。
ぬわっし、ぬわっし、と大きなストライドで歩く。
今年はなかなか咲きあぐねていた桜も
ここ数日で一気につぼみがほぐれて、この調子なら
週末にはミュウの大好きなおむすびを(父親が)作って(おかずは母の担当ですっ)
お花見に行けるなー、昨日おとーさんとスーパーに行って花ソーセージ買ったし……
……と、ずっと向こうに電動車イスらしい人が見えた。
遠いので、やたらずんぐりと大きな白い塊のように見えるのだけど、
その白い塊が頭を載せて、くる、くる、と向きを変えながら移動する動きは
ミュウの周辺で見慣れた電動車イスのものだった。
信号をこちら側に渡ってこようとしている。
信号を渡った先(それは、ちょうど私のいる歩道の入り口にあたる)には
ちょっと傾斜のきつい個所があり、そこは路面が痛んで凸凹になっている。
いつもミュウの車イスを押して通る際の要注意箇所なので
大丈夫かなぁ、電動車イスってどのくらいの馬力があるんだったっけ?
などと思いながら見ていると、
いたってスムーズな動きで信号を渡ると、
くいっと一旦車道に逸れて(ちゃんと難所だと知っていて避けたのね)
改めてこっちの歩道に入ってきた。
さすがー。やるなぁ……。
なんにせよミュウが基準になっている私は、
電動であれ手動であれ、車イスを自分の体の一部のように操る人たちの
鮮やかな手さばきには、いつも見惚れてしまう。
それに、電動って馬力あるんだなぁ……。
最近はいつも父親が押してくれるけど、
ミュウが小さい頃に散歩に来た時だって、
あそこの凸凹坂を押して上がるのはキツかったよ……
……てなことを思っている場合では、実はなくて、
電動車イスというのはデカいんである。
そして私が歩いている歩道は狭い。
私から見て右手はヨソ様の家やらなんやらゴチャついている。
左手はつつじ(さつき?)の植え込み。
まだ距離はあるけど、向こうからやってくる白い人の幅を目測すると、
この歩道の幅の3分の2以上を占めているように見える。どうする?
どちらかというと右寄りを歩いていた私は、
歩きながら、とっさに右に寄ってみる。……あ、でも、
車イスが左に寄ると植え込みにひっかかるか……?
じゃあ……と今度は私が左に避けようとするのを見て、
その人が車イスを私から見て右に寄せるような動きをした。
あ、でも、そっちには、どこかの庭への大きな段差があるじゃんっ。
どうする??
これ全部、ほんの数秒間の出来事なんだけれど、私はたぶん、その数秒間の間、
頭で考えることがイチイチそのまま「吹き出し」になるような
単純な身体の動きをしていたんじゃないかと思う。
ちょうど、道で出会いがしらにぶつかりそうになった人同士が
互いに避けようとしては同じ方向に避けて、またぶつかりそうになって
思わず苦笑いしながら、互いに相手の出方を図ってみる時のような
独特の“間”みたいなものが、距離を隔てているものの、その人と私の間に生じた。
……と、この辺りですれ違おうとすると狭いけど、
私がもうちょっと先に行ってしまえば、右手に小さな出っ張りがあるのに気付き、
左に避けかけた地点から、右手の出っ張りに向けて、とっとっとっと数歩ホップ。
我ながら、ちょっと滑稽な身体の動きになって、
ついテレ笑いが出る。
そこへ、その人がスイスイと進んできた。
なんだか福々しい顔をしたオッサンだった。
全身を車イスごと大きな白いタオルでくるまれているので
まるで大きな柔らかい大福モチみたいに見える。
テレて笑ったままの顔を向けたのを
大福モチは恵比寿さんみたいな大きな笑顔で受けて、
「えらい、すんませんなぁ」
「いえいえー。こちらこそ、すみませーん」
頭でもぼりぼり掻きそうな気分で、返した。
そのまま、また背中に日差しを受けて、歩く。
いましがたの自分の口調が「開けて」いたことに、
自分でちょっとびっくりしていた。
私は見知らぬ人に対してあんまり「開けている」という人じゃなく、
どちらかというと腕組みして自分を固く閉ざしているみたいな万年思春期オバサンなので。
大きなストライドで、ぬわっし、ぬわっし、と歩きながら、
なんていうか、間って、あるんだよね……と考える。
たまたま互いに相手の動きを読もうとした“間”があったこととか、
そこで私の動きがいかにも滑稽になったことだとか、
その人の全身がたまたまタオルで覆われて大福みたいに見えたこととか、
その人の福々しい顔とか、その顔が笑うと恵比寿さんみたいになったこととか、
そういう場面で挨拶し慣れている人の軽やかで柔らかい口調とか、
なんでこの辺で関西弁なんだか知らないけどオッサンの思いがけない関西弁だとか、
それから、たぶん、
たまたま今日の空がみごとに晴れ渡っていたこととか、ポカポカ暖かかったこととか、
長く寒かった冬が終わって、その人もミュウも気軽に外に出られる季節がきたことだとか、
たまたま前の日に花ソーセージを買ってたこととか
たぶん、そういう、“たまたま”があれこれみんな寄って集まって、
その瞬間にしかありえない、不思議な“間”……みたいなもの……?
――いや、理屈はいいんだ、そんなの。どうでも。
だって今日は、ほ~んと、あったかい。
春がきたよ、ミュウ。