Ashley事件4周年を迎えた今年は、07年の思い出話をひとつ――。
成長抑制の一般化が狙われる……と私が直感したのは07年5月16日。
シアトルこども病院とワシントン大学での成長抑制シンポを
Webcastを通じてリアルタイムで聴いていた真夜中のことでした。
倫理委のメンバー数を巡るAlice Dregerさんの発言の際の医師らの反応に
当時すでに頭にあった「仮説」が、半信半疑からほぼ確信に変わった瞬間、
ノートパソコンの前で戦慄と共に凍りつきました。
Ashleyの個別ケースにはなるべく触れず、触れさせず、
話を成長抑制という療法に向けて一般化して論じようとする医師らの姿勢に、
この人たちにとって最も有効な隠ぺい手段は、急いで第2例目、第3例目を作り
成長抑制療法を一般化してしまうことなのだ……と直感し、
凍りついたままモニターを凝視し続けたのを覚えています。
シンポが休憩に入るや、
当時この事件をブログで追いかけてくださっていて、
このシンポをアナウンスしてくださった筑波大学の名川勝先生に
メールを入れないではいられませんでした。
先生は真夜中にもかかわらず大学でお仕事中で、
同時進行でシンポを聞いておられ、すぐにお返事いただいたことなど、
このエントリーを書きながら、懐かしく思い出されます。
先生のブログのこちらのエントリーのコメント欄にその時の記述があり、
ここで名川先生が私の「推論」と書いておられるのが現在のspitzibara仮説のこと。
事件があの時の切迫した危機感と懸念の通りに展開しているだけに、
いま先生のコメントで当時のやりとりを読むと、奇妙な生々しさを覚えます。
シンポが終わった後、間違った理由で重大なことが起ころうとしているのに、
事件のウラに気付いているのが、もしかしたら自分だけなのだとしたら……と考えると
その事態が恐ろしくてならず、かといって私には発言するすべもなく、
唯一自分にできることとして始めたのが、このブログでした。
そして08年1月のDiekema講演で、
いよいよ彼らは一般化に本気なのだと確信しました。
Ashleyの父親とDiekemaらは、それぞれ別の理由から
一般化を推進したい点では利益が見事に一致している――。
前者は、自分が考案したAshley療法を世に広めるために、
後者はAshleyケースの裏に潜む特殊な事情を隠蔽するために――。
そう勝手に確信すると、
またしても居ても立っても居られない気分になり、その危機感に追い詰められるように、
私にはどう考えても分不相応な英語ブログまで、とうとう始めることになりました。
そうして私が懸念してきた通り、
去年、2010年は、成長抑制療法の一般化への動きが一気に加速してしまいました。
07年当初は、いかにも利益関係のない部外者を装い、
その後の数年も、事件の動きに加わりつつ目立たないところに隠れていたFostが
俄かに表舞台に浮上し、今やDiekemaすら押しのける勢いで
成長抑制の提唱者として活躍しています。
このNorman Fostこそ、Ashley事件の陰の立役者だと
ずっと前から当ブログが睨んでいた人物――。
極めてラディカルな功利主義的倫理学者です。
彼の主張で目立っているのは障害児への「無益な治療」論と
医療決定を巡る司法介入への嫌悪。
特に後者では
病院内倫理委員会をもって司法介入に代用させるのが彼の狙いであり、
去年11月にHCRに発表された
成長抑制WGの「妥協点」もFostの意向に沿って
病院内倫理委の検討で認めることを可とするものとなっています。
もしかしたら、
対象者の少ない、医学的にもさほど画期的な療法とも思えない成長抑制の一般化に、
小児科医療界の大物医師であるFostがここまで執拗にこだわり続けるのには、
権力者につながるAshley父の歓心を買うこととか
Ashleyの個別ケースの真実の隠ぺいだけではなく、
もっと重大な狙いがある――?
それは、Fostの狙う、
倫理委員会を隠れ蓑に司法を排除した重症障害児への「無益な治療」論適用への
地ならしとしての、成長抑制一般化であり、
それによる「重症児は話が別」という線引きなのでは――?
そして、去年のHCRの論文を巡るメディアの扱いを見ても、
7年当初、すべてのメディアが2つの事実から一斉に目をそむけたように、
また米国のすべてのメディアが英国のKatie事件を丸無視したように、
メディアがある1つの意思に操作されているとしか思えない節がある。
それが示唆しているのは、
Ashley父が強大な権力につながる人であるというだけにとどまらない、
それ以上に恐ろしい事態なのか……?
一部の人が批判しているように
“Ashley療法”が実験的な医療だというだけではなく、まさかAshley事件そのものが
世論を操作するために仕組まれた実験だった……なんてことは……?
それを思うと、
EP誌の批判声明が07年当初に書いていた
「意識的な試み conscious attempt」という言葉が不気味にリフレインする。
Ashley事件4周年の当ブログのもの思いは、なにやら底なしに恐ろしい――。
【これまでの周年記事】
個人的“Ashley事件”一周年(2008/1/5)
個人的“Ashley事件”2周年 Part 1(2009/1/5)
個人的“Ashley事件”2周年 Part 2(2009/1/5)
個人的“Ashley事件”2周年 Part 3(2009/1/5)
個人的“Ashley事件”3周年(2010/1/25)
成長抑制療法の一般化に向けてDiekemaやFostらが周到に張り巡らせてきた仕掛けが
一気に表面化した1年間となりました。
それらの動きを追いかけながら、
07年の論争当時に読んだ時にはさほど印象に残らなかった、ある批判声明が
改めて妙に生々しく思い出されてきました。
障害児の親向けの雑誌Exceptional Parent誌の批判声明です。
Ashley事件4周年を機に、この声明を再読してみました。
Exceptional Parent(EP) Magazine Makes Position Statement – when the Slippery Slope Becomes a Mudslide
日付はありませんが、07年の論争当初(たぶん2月?)に出されたもの。
EP誌は36年の歴史の中で、わずかな例外を除き、ジャーナリズムの精神にのっとって
論争のどちらかの側に立つことを極力控えてきたといいます。
しかし、“Ashley療法”は人間の命のまさに本質と尊厳を脅かすものであり、
我々の良心が命じるところによって、批判の立場を明らかにする、と冒頭で宣言。
そして、その後に書かれていることは今にして振り返ると、まさしく慧眼で、
当時の批判言説の多くが欠いていた視点が、このEPのステートメントにはあるのです。
それは「なぜ2年も前に行われた医療介入の話が
今になって突然こんな形で表に出てくるのか」という疑問。
というか、むしろ、
「その背景には、なんらかの意図が働いているのではないか」との疑惑。
EP誌は、Ashley事件を、
このニュースがブレイクする前後にあった
2つの出来事の間に位置づけてみることによって、その疑惑をあぶり出しています。
Ashley療法のニュースの1年と3カ月前には
オランダで重症の障害を持って生まれた新生児を安楽死させる5つの条件、
グローニンゲン・プロトコルが作られています。
Ashley療法のニュースがメディアで報じられた3週間後の出来事とは、
スイスの最高裁がターミナルでなくとも重症の精神障害者に自殺幇助を認めたこと。
グローニンゲン・プロトコルを作った医師らは、
プロトコルを発表した時点で既に4人の乳児を安楽死させたことを認めている。
(その中の1人はダウン症児)
Ashleyに行われたことも、実施から2年以上も経ってから明かされた。
グローニンゲン・プロトコルもスイス最高裁の判断も米国でもその他の国々でも
大きく報道されることはなく、大きな批判の声も起こらず、誰もが黙している一方で、
なぜ2年以上の前のAshleyの症例が、今この時に、わざわざ大々的に報じられるのか、と。
These dramatic news stories do not represent isolated instances of hard choices in hard times. Each story represents a conscious attempt to expand the number of life-ending or life-altering procedures available to physicians and parents who would choose to use them and, in so doing, rob the child of her of his human dignity. The creators of these procedures want them to be adopted and used by physicians and families throughout the world. The utilitarianism they promote in the name of compassion is nothing other than new language and new ideas designed to encourage the systematic denigration of those with disabilities, stripping them of the basic human right to life and dignity. Over sixty years ago, millions died to rid the world of people who perpetrated these same shameful acts in the name of bogus science. Have we now ignored that sacrifice and the lessons they taught us?
これらドラマチックなニュースは、
困難な状況で困難な選択が行われた個別のケースの話ではなく、
それぞれのニュースの背景にあるのは、
生命を断ったり生命に手を加える手段を増やそうとする意識的な試みである。
医師と親とが使うことのできる選択肢を増やし、
子どもから人としての尊厳を奪おうとするのだ。
これらの手段を創り出す人たちは、
それらが世界中の医師や家族に使われるようになることを望んでいる。
彼らが思いやりという名のものに推進する功利主義とは、
障害のある人々を組織的に貶め、障害のある人たちから
命と尊厳を保障する人権をはぎ取ってしまうために作られた
新たな言語と新たな思想である。
60年以上の前の何百万人もの人々の犠牲の上に立ち、
エセ科学の名のもとにこうした恥ずべき行為を行った人間は
世の中から駆逐されてきたというのに、
彼らの犠牲と、そこから学んだ教訓を
我々はここにきて無にしてしまったというのだろうか。
It is a shame and an affront to the human dignity of every one of us to permit these procedures on even one child. We need to make it right and make sure it never happens again.
こうした手段が例え一人の子どもにでも行われることを許すのは
我々一人ひとりの人間としての尊厳に対する恥辱であり侮蔑である。
我々はその誤りを正し、
二度と同じことを繰り返さぬようにしなければならない。
We see “Ashley Treatment,” the “Groningen Protocol,” and the Swiss assisted suicide decision as thinly veiled attempts to objectify and desensitize the value of human dignity.
“Ashley療法“、”グローニンゲン・プロトコル“
そしてスイスの精神障害による自殺幇助に関する決定は、
表面だけをわずかに取り繕ってあるものの、
人間の尊厳の価値を対象化し貶めようとの企みだと
我々は考える。
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ちなみに、EP誌は、実は私は個人的にずいぶんお世話になった雑誌です。
娘が生まれてすぐにその存在を知り、何年も定期購読しました。
日本の障害児の親向けの雑誌もいくつかは読んだけれど、
いずれも医師ら専門家が高いところから親を指導するというスタンスのもので
EP誌の、親と専門家とが「共に」考えるという姿勢がとても新鮮だった。
米国の障害児の親たちは子どもの障害名についてもその詳細についても
きちんと専門用語で知らされ、把握・理解しているばかりでなく
知識をしっかり身につけていることにもびっくりしました。
専門家の導きにただ“お任せ”して“ついて行く”のではなく、
主体的に情報を集め、学び、考えていこうとする米国の親たちの姿勢にも、
子どもの医療に関する判断の主体として専門職と向かい合うスタンスにも
障害のある子どもを、ただ守ってやるべき存在としてではなく、
また「できないこと」にだけではなく「できる」ことにも目を向けて
まず一人の子どもとして捉える眼差しにも、大いに目を開かされました。
20年以上前の当時、米国ではすでに障害児の親が疑似患者となって
医学部学生への教育に参加する試みが行われていることを教えてくれたのもEP誌でした。
娘が生まれてから最初の1年間に私のバイブルだった
Leo Buscagliaのthe Disabled and Their Familiesと共に
私はEP誌から、当時の日本の専門家が誰も教えてくれなかった多くのことを学びました。
私がBuscagliaやEP誌から学んだ大切なことを
子どもの障害を知ったばかりの若い親たちに教えてくれることのできる専門家が
20年以上たった今、日本にも沢山増えていますように……。