成長抑制療法の一般化に向けてDiekemaやFostらが周到に張り巡らせてきた仕掛けが
一気に表面化した1年間となりました。
それらの動きを追いかけながら、
07年の論争当時に読んだ時にはさほど印象に残らなかった、ある批判声明が
改めて妙に生々しく思い出されてきました。
障害児の親向けの雑誌Exceptional Parent誌の批判声明です。
Ashley事件4周年を機に、この声明を再読してみました。
Exceptional Parent(EP) Magazine Makes Position Statement – when the Slippery Slope Becomes a Mudslide
日付はありませんが、07年の論争当初(たぶん2月?)に出されたもの。
EP誌は36年の歴史の中で、わずかな例外を除き、ジャーナリズムの精神にのっとって
論争のどちらかの側に立つことを極力控えてきたといいます。
しかし、“Ashley療法”は人間の命のまさに本質と尊厳を脅かすものであり、
我々の良心が命じるところによって、批判の立場を明らかにする、と冒頭で宣言。
そして、その後に書かれていることは今にして振り返ると、まさしく慧眼で、
当時の批判言説の多くが欠いていた視点が、このEPのステートメントにはあるのです。
それは「なぜ2年も前に行われた医療介入の話が
今になって突然こんな形で表に出てくるのか」という疑問。
というか、むしろ、
「その背景には、なんらかの意図が働いているのではないか」との疑惑。
EP誌は、Ashley事件を、
このニュースがブレイクする前後にあった
2つの出来事の間に位置づけてみることによって、その疑惑をあぶり出しています。
Ashley療法のニュースの1年と3カ月前には
オランダで重症の障害を持って生まれた新生児を安楽死させる5つの条件、
グローニンゲン・プロトコルが作られています。
Ashley療法のニュースがメディアで報じられた3週間後の出来事とは、
スイスの最高裁がターミナルでなくとも重症の精神障害者に自殺幇助を認めたこと。
グローニンゲン・プロトコルを作った医師らは、
プロトコルを発表した時点で既に4人の乳児を安楽死させたことを認めている。
(その中の1人はダウン症児)
Ashleyに行われたことも、実施から2年以上も経ってから明かされた。
グローニンゲン・プロトコルもスイス最高裁の判断も米国でもその他の国々でも
大きく報道されることはなく、大きな批判の声も起こらず、誰もが黙している一方で、
なぜ2年以上の前のAshleyの症例が、今この時に、わざわざ大々的に報じられるのか、と。
These dramatic news stories do not represent isolated instances of hard choices in hard times. Each story represents a conscious attempt to expand the number of life-ending or life-altering procedures available to physicians and parents who would choose to use them and, in so doing, rob the child of her of his human dignity. The creators of these procedures want them to be adopted and used by physicians and families throughout the world. The utilitarianism they promote in the name of compassion is nothing other than new language and new ideas designed to encourage the systematic denigration of those with disabilities, stripping them of the basic human right to life and dignity. Over sixty years ago, millions died to rid the world of people who perpetrated these same shameful acts in the name of bogus science. Have we now ignored that sacrifice and the lessons they taught us?
これらドラマチックなニュースは、
困難な状況で困難な選択が行われた個別のケースの話ではなく、
それぞれのニュースの背景にあるのは、
生命を断ったり生命に手を加える手段を増やそうとする意識的な試みである。
医師と親とが使うことのできる選択肢を増やし、
子どもから人としての尊厳を奪おうとするのだ。
これらの手段を創り出す人たちは、
それらが世界中の医師や家族に使われるようになることを望んでいる。
彼らが思いやりという名のものに推進する功利主義とは、
障害のある人々を組織的に貶め、障害のある人たちから
命と尊厳を保障する人権をはぎ取ってしまうために作られた
新たな言語と新たな思想である。
60年以上の前の何百万人もの人々の犠牲の上に立ち、
エセ科学の名のもとにこうした恥ずべき行為を行った人間は
世の中から駆逐されてきたというのに、
彼らの犠牲と、そこから学んだ教訓を
我々はここにきて無にしてしまったというのだろうか。
It is a shame and an affront to the human dignity of every one of us to permit these procedures on even one child. We need to make it right and make sure it never happens again.
こうした手段が例え一人の子どもにでも行われることを許すのは
我々一人ひとりの人間としての尊厳に対する恥辱であり侮蔑である。
我々はその誤りを正し、
二度と同じことを繰り返さぬようにしなければならない。
We see “Ashley Treatment,” the “Groningen Protocol,” and the Swiss assisted suicide decision as thinly veiled attempts to objectify and desensitize the value of human dignity.
“Ashley療法“、”グローニンゲン・プロトコル“
そしてスイスの精神障害による自殺幇助に関する決定は、
表面だけをわずかに取り繕ってあるものの、
人間の尊厳の価値を対象化し貶めようとの企みだと
我々は考える。
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ちなみに、EP誌は、実は私は個人的にずいぶんお世話になった雑誌です。
娘が生まれてすぐにその存在を知り、何年も定期購読しました。
日本の障害児の親向けの雑誌もいくつかは読んだけれど、
いずれも医師ら専門家が高いところから親を指導するというスタンスのもので
EP誌の、親と専門家とが「共に」考えるという姿勢がとても新鮮だった。
米国の障害児の親たちは子どもの障害名についてもその詳細についても
きちんと専門用語で知らされ、把握・理解しているばかりでなく
知識をしっかり身につけていることにもびっくりしました。
専門家の導きにただ“お任せ”して“ついて行く”のではなく、
主体的に情報を集め、学び、考えていこうとする米国の親たちの姿勢にも、
子どもの医療に関する判断の主体として専門職と向かい合うスタンスにも
障害のある子どもを、ただ守ってやるべき存在としてではなく、
また「できないこと」にだけではなく「できる」ことにも目を向けて
まず一人の子どもとして捉える眼差しにも、大いに目を開かされました。
20年以上前の当時、米国ではすでに障害児の親が疑似患者となって
医学部学生への教育に参加する試みが行われていることを教えてくれたのもEP誌でした。
娘が生まれてから最初の1年間に私のバイブルだった
Leo Buscagliaのthe Disabled and Their Familiesと共に
私はEP誌から、当時の日本の専門家が誰も教えてくれなかった多くのことを学びました。
私がBuscagliaやEP誌から学んだ大切なことを
子どもの障害を知ったばかりの若い親たちに教えてくれることのできる専門家が
20年以上たった今、日本にも沢山増えていますように……。