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一般化の動きとシアトル子ども病院の切り離しが図られている――?

07年5月の成長抑制シンポジウムを、この論文は
Benjamin WilfondとPaul Steven Millerとが開催したものだ、と整理する。
シアトルこども病院とワシントン大学は、それぞれの所属先として言及されているのみ。

しかし、
当該シンポのページを見てみると、
主催はUW障害学講座と子ども病院トルーマン・カッツ小児生命倫理センター。

それなら、この書き方はおかしい、と思う。

また別の個所では、この論文は病院の見解を代表するものではない、と断ってもいる。

彼らがやっている強引な一般化を、子ども病院から切り離そうとする意図が
この論文からは匂ってくる。

もう1つ、その同じ匂いを発しているのは
今回の論文がWPASと病院の合意の事実を認め言及していること。

08年1月にこのシンポが行われた際のWGの議論では
WPASとの合意は完全に無視されていたし

WGの議論が進行している最中にDiekemaはじめWGメンバー数人が書き
09年に小児科学会誌に発表された成長抑制論文はさらに踏み込んで
WPASとの合意そのものを「法的裏付けがない」と一蹴してみせたものだ。

ところが今回のWGの論文は一転して
病院とWPASとの合意を認めているのだ。

この転向は何によってもたらされたものなのだろう。

ちなみに、当ブログでは
Diekemaらの動きと病院の動きとの間にはズレがあるということは
07年5月の合同記者会見のあたりで指摘している。


これは証明できることではないけれど、私の感触としては、
子ども病院はとりあえずAshleyケースでの不正さえ無事に隠しおおせれば
成長抑制であれ”Ashley療法”であれ、それ以上に熱心に一般化するつもりはなかったのではないか、

現在の一般化のプロモは、病院の意図とは別に
FostとDiekemaとがAshley父と繋がってやっていることではないか、

ただ、ゲイツ財団とのつながりから病院も露骨な否定もできずにいるのではないか、
そんな感じを受けている。

確信があるとまでは言えないけれど。

それに、仮にそうだったとしても、
これは成長抑制の一般化に関してのみ言えることで、
同病院やワシントン大学が、IHMEやGAVI その他を通じてゲイツ財団とパートナーシップを組み、
DALYに見られるようなビジネスモデルの功利主義的切り捨て医療を推し進める一方で、
死産・早産撲滅運動、新生児遺伝子診断などでも連携しつつ優生思想を復活させつつあること、
また「ワクチンの10年」黄金時代の実現に向け、鋭意協力していることは事実――。
2011.01.30 / Top↑
この論文は

シアトルこども病院は裁判所の命令を取らないかぎり成長抑制はやらないとWPASと合意したが
その他の病院はこの合意に縛られるわけではなく、そのような医師や倫理委が
「親たちの成長抑制の要望を受けガイダンスを熱心(eager)に求めている」と述べて、

それを根拠に、「成長抑制の倫理を議論し、
医療職のための実務的なガイダンスを作るために」
このWGを組織したのだと説明する。


そう――。WGを組織した目的には
最初から「実務的ガイダンス」を作ることが含まれていたのだ――。

でも、ここで疑問が湧いて出てこないだろうか。


① 治療としての効果をまったく持たない成長抑制療法のガイドラインを
なぜ、それほど急いで作る必要があるのか。

これは、命を救うために、病気を治すために、
できたらなるべく早く医療現場に……といった類の療法ではない。

しかも、第1例では人権侵害が確認されており、
その第一例の決定がいまだに十分に説明されてもいなければ
議論が尽くされたわけでもない、したがって十分に正当化されたわけでもない段階で、
なぜ急いでガイダンスを作る必要があるのか。


② ガイダンスを望んでいるという医師や倫理委は、いったい、どこにいるのか。

私の目についた限りでは
慎重論を説く医師の方が圧倒的に多数。
論争の中で擁護論の論文を書いた医師も確かにいるけれど
親の要望があるからやりたいとか実際にやったと名乗り出た医師も病院も存在しない。

未だ多くの批判が出て論争が続いている成長抑制に
早急にガイダンスを作らなければならないほど多くの医師や病院が熱心だというなら、
論文著者らには、そのエビデンスをデータで示す責任があるはずだ。

しかし、仮に彼らが言うように、やりたい医師が沢山いるとしても、
一体、それが成長抑制を正当化するのだろうか?

そういう医師が何人いれば、
成長抑制の倫理的妥当性が証明されたことになるというのだろう?

患者の自殺を幇助したいと明言する医師なら、そこらじゅうにいる。
そういう医師が一定の人数いれば、PASの倫理性、道徳性が証明されたことになる
とでもいうのだろうか。

誠実なリーズニングに基づいてものを考えるならば、
ガイダンスが必要とされる前に、成長抑制の一般化が
倫理的に妥当であると広く認められる必要があるはずだ。

それが認められるためには、
成長抑制療法の倫理性について誠実、公平かつ徹底的な議論が必要なはずだ。

成長抑制療法一般化の倫理性が公平かつ徹底的に議論されるためには、
アシュリーの個別ケースで行われた成長抑制だけでなく子宮摘出や乳房摘出を
なぜシアトルこども病院の倫理委が了承したのか、その議論の詳細が
きちんと説明され、誠実、公平かつ徹底的な議論において
しかるべく正当化される必要があるはずだ。

そのためには、アシュリー事件で起こったことについて、
あの中途半端なWPASの調査ではなく、もっと徹底した調査が改めて行われ
事実関係が明らかにされる必要があるはずだ。


③ そして、万が一にも、
それらが順次(今のWGの論理と逆の順番に)十分に行われた上で、
なおかつガイダンスが必要だという段階に、仮に至ったとしても、
このWGは、その任ではないはずだ。

半数がAshley事件を起こしたシアトルこども病院かワシントン大学の職員。
メンバーのうち3人は2009年に小児科学会誌に書いた論文で
自分たちの勝手なガイダンスをすでに提示し、3歳で親に提案すべきだと主張している。

Diekemaは第一例の担当医だし、
Fostも既に世界中に名の知れた成長抑制アドボケイトではないか。

仮にガイダンスが必要とされる段階がやってきたとしても、
その時には、関係者を排除し、まったくAshley事件と利害関係のない、
公平で徹底的な議論が担保される検討メカニズムが
第三者によって用意される必要があるはずだ。


これらの論理的な検証段階をすべて経るまで、
ガイダンスなど必要ない。

こんな段階で、わざわざ手前ミソのWGがガイダンスを作る必要は、さらさら、ない。

WG論文が前提しているガイダンスのニーズは、実際は
この論文がいう「親の要望を受け熱心にガイダンスを求める」医師や倫理委よりも
議論をAshleyの個別ケースから成長抑制一般へと摩り替えていきたいDiekemaらや
自分の考案した療法を早く広めようとジリジリしているAshley父のニーズではないのか。
2011.01.27 / Top↑
シアトルこども病院が組織した成長抑制WGの論文については
去年の11月、12月と既に非常に多くのエントリーを書いています。

その中から、論文そのものに対する疑問や、本文の内容について書いた主なものとしては

まだ論文を読む前のものとして
成長抑制WGの論文がHastings Center Reportに(2010/11/7)

アブストラクトのみを読んだ段階のものとして
成長抑制の対象はIQ25以下の重症重複障害児、とWG(2010/12/1)

論文を読んだ段階のものとして、
成長抑制WGのHCR論文:とりあえず冒頭のウソ3つについて(2010/12/8)
子ども病院成長抑制WGメンバーの正体(2010/12/8)


あまりにも露骨な作為に不快ばかりが募って
1度読んだ後は2度と手に取る気にもならなかったのですが、
もう一度読みこんでみようとチャレンジ。

すると、思った通り、ツッコミどころは、ほぼ数行置きに見つかる。
その腹立たしいことといったら……。

これは当初からDiekemaらの書いたものを読むたびに痛感することですが、

事実関係の把握が中途半端な人が、この事件の関連文書を読む際に、
うっかりDiekemaらの倫理学者としての誠実を信頼して読むと
もわぁ~っとした曖昧模糊の中で鼻づら引き回されて、
何となく納得したような気持ちにさせられてしまう。

逆に、
彼らは1つの作為を持ってこの事件を展開させてきているのだとの仮説に立って読むと、
この事件の膨大な資料にあまた存在する矛盾には、むしろ一貫性が見えてくるし
そこに彼らの作為が、くっきりと浮かび上がってくる――。


これより、いくつかのエントリに分けて、
WG論文の不実を指摘するシリーズを書いてみることにしました。

かなりの期間に渡って、
間に他の記事をはさみながら、断続的に書いていくことになると思います。

以下、前に書いた内容と重複しますが、重要なことなので、その1。


          ――――――

冒頭部分で、著者らはまず06年のGunther & Diekema論文とそれに対する批判について
論争の取りまとめのようなことを行っています。

そこの個所に既に3つの重大なウソがあり、それは
上記12月8日のエントリーで書いたように

① 主治医論文が成長抑制の倫理的正当性をきちんと論じてみせた、とのウソ。
② 主治医論文にアシュリーの最終身長の予測データが示されている、とのウソ。
③ 親のブログに対して批判が出たのは障害当事者とその支援者たちからだった、とのウソ。

この部分に続いて、その後の事件の展開に沿って
このWGがなぜ作られ、なぜこの論文が書かれるのかが説明されている。

その部分が、これまたマヤカシに満ちている。

それについて、「成長抑制WGの論文を読む 2」で。
2011.01.27 / Top↑
スコットランドの国際劇場が春に“Girl X”というタイトルで
Ashley事件を題材にした演劇を上演する。

どういう立場の人か確認していないのだけど(脚本家?)
国立スコットランド劇場のブログ担当者のRobert Softley氏が
2007年の論争時にこれで演劇をとのアイディアを思いつき、
劇場に持ち込んでOKをとり、脚本にも参加。
この4年間の準備期間を経て、今回リハーサル中とのこと。

この問題を世の中に広く知らしめるべきだと思いついたことだったけれど、
もちろん演劇として楽しめるものにする必要もあるし、
その2つを両立させながら、基本的には論争の背後にある情熱を描く……

……って、ワケのわからない説明になっているので、
実際にどのような描き方になるのか、ちょっと不安。


Robert Softley’s Girl X blog – Part 1
National Theatre of Scotland
2011.01.24 / Top↑
“Ashley療法”および成長抑制療法の一般化について
Ashley父やDiekemaやFostらは「親の愛」vs「政治利用のため邪魔立てする障害者運動」という
対立の構図で議論を単純化し、世論を誘導しようとしているけれど、実際には
重症児の親がすべて「愛情から成長抑制をやりたい」といっているわけではなく、
多くの重症児の親がブログで批判を展開している。

中でも、当ブログでも何度か紹介したClair Royさんが去年、
もともとのブログの他に成長抑制反対に焦点化して立ち上げたブログ
No More Ashley X’s:Say NO to Growth Attenuationは
批判的な立場に立つ重症児の親たちが集う場となっている。

そのClairさんのずっと前からのブログ友Erikaさんが、この度、
自身のブログで初めて長い成長抑制批判のエントリーを書いた。

A long post in which I don’t discuss mucus but talk about Izzy and growth attenuation
The flight of our Hummingbird, January 5, 2011


特に印象的だった後半の一部を、以下に。

Ashleyの両親が娘の体にこんなに思い切った決断をするに至った
懸念や不安は理解できる。けれど、気持ちはわかるにしても、
自分が我が娘に同じ決断をすることなんて想像もできない。考えただけでゾッとする。

Izzyの背がどこまで伸びるのかを考えると、ちょっと不安にはなるけれど、
同時に大人として芽吹いていく彼女の美しさを目のあたりにすることは、
私を誇りと喜びで満たしてもくれる。

細長い身体や、桃色がかった乳白色の肌や、きらきらとした青い目を見ると、
ああ、父親のPhilそのものだ、と私は思う。
Izzyを見ると、娘が父親の一部を受け継ぎ、母親の一部を受け継ぎつつ、
彼女はIzzyという一人の人なのだと思う。

私の娘だけれど、私の所有物ではない。

私は恐らく生きている限り、
娘に代わって意思決定をし続けるだろうけれど、
私の意思決定はいつも娘を尊重し、
自分の身体に対する娘の権利を尊重するものであり続けるだろう。

成長抑制に対する私の反対は、
基本的な人権の侵害に対する知的レベルの反対であると同時に、
もっと深く本能的なレベルで間違っていると感じてもいる。

私が決して娘に成長抑制をやらないのは、
経管栄養に完全依存している娘は使うことがないからといって、
歯を抜いてしまわないのと同じだし、
絶対に娘の子宮を摘出しないのは、
歩けるようにはならないからといって脚を切ってしまわないのと同じ。

娘の髪を短く刈り込んだほうが私自身の毎日が楽になるからといって、
その愛らしくカールした髪を切り落そうとは思わないように、
娘の乳房を摘出することも決してない。

成長抑制が
介護に付き物の汚物(エントリーの前半で触れられている)をなくしてくれるわけでも、
娘のけいれん発作や身体機能を改善してくれるわけでもない。、
いったい娘にとってどういう利益になるというのだろう。

重症障害のある女児の性的成熟を阻害することが
直接的にQOLの向上に結び付くとは私には思えない。

本人のQOLのためというよりも、むしろ
身体的にも知的にも遅れのある人に第二次性徴が起こることを
不釣り合いだと感じる人たちの不快感を軽減するもの。

Ashleyの両親の決断にも、この不快感が関係したのでは?
重症障害のある子どもの親としての役割は喜んで引き受けたけれども、
障害のある成人の親にはなりたくなかったのでは? 

ピロウ・エンジェルたちには乳房も生理もない。

我が子の障害を心から受け入れることはたやすくはないけれど、
私は娘の体に手を加えるよりは、私自身の頭や心を変容させていくことを選ぶ。
(ゴチックはspitzibara)




女性へと芽吹いていく時の我が娘の美しさについては、
09年にClairさんが書いた優れたエントリーがあり、
不思議な透明感のあったその時期のミュウの美しさについて
私自身の体験も一緒に、以下のエントリーに書いています。

「一筆ずつ描かれていく絵のように子は成長する」成長抑制批判(2009/7/23)

また、Erikaさんが指摘している
障害児の二次性徴に対して周囲が感じる不快感の軽減なのでは、という点については
Ashleyの父親の発言のみならず、FostやDvorsky、Hugesらの発言についても、
以下の2つのエントリーで07年に指摘しており、
私もErikaさんにまったく同感。

「グロテスク」論は成り立たないが……(2007/8/15)
巨乳がイヤだっただけ?(2007/10/3)

「じゃぁ、歩けるようにならないからと言って脚を切断するのか」という批判に対して
Diekemaらは去年のAJOBの論文で、脚を切断するのは誰から見てもグロテスクだから
そんなことは論外だと突っぱねており、歯を抜くことや髪を刈り込むことについても
彼らは同じ論法で反論するのだろうと思われますが、

上記07年8月のエントリーで指摘したように
「中身と外見のギャップがグロテスクだから」という理由で成長抑制した結果、
外見は年齢相応に老いていくのに身長だけは人為的に低いままに留められた人では
今度は年齢相応の外見と身長の新たなギャップが生じて
彼らが言うところの「中身とのギャップ」は解消されないばかりか
むしろ大きくしてしまうことの矛盾がそこにはあるように思います。

結局のところ、こういうショービニスティックなオッサン感覚を背景に
こねくり回される「本人の最善の利益」論は、
一見もっともらしい「理性的な反応」であるかのような体裁の陰で
実のところコテコテ・無反省の「感覚的な反応」に過ぎないのではないか、
というのが私自身の考えです。


ちなみに、
重症障害のある人だけが人為的にそうしたギャップを作られることで
重症障害のスティグマが新たに作られ、道徳上の害が生じる、との批判は
Quellette論文他から出ています。
2011.01.11 / Top↑