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26日金曜日、オクラホマ州に
患者サイドが希望する生命維持治療をQOLを根拠に一方的に拒否することを
医療職に禁じる法律が成立。

Thaddeus Popeによると、
これまでに同様の法律ができている州は
アイダホ、ニューヨークなど。

Popeはこうした州を “red light” states と呼んでいる。

こうした法律に反対する側の主張は、
医療の劣化を招き、医師が州外に逃げる、医療費がむやみに膨れる。

賛成する側の主張は、
患者の生の質が低いとか生きるに値しないという
第三者の価値意識に基づいて治療が拒否されることを防ぐことができる。

Oklahomans for Lifeでは
「仮に第三者がその患者のQOLを問題にしたとしても、
治療を受けたいという患者の希望は尊重されるべきである」と。

Oklahoma Prohibits Critical Care clinician from Stopping Requested Life Support
Medical Futility Blog, April 28, 2013
2013.04.30 / Top↑
前に、ピーター・シンガーが
ストーニーブルック大学の認知障害カンファで、アシュリー事件に言及したり、
エヴァ・キテイが障害のある娘セーシャが暮らすコミュニティへの見学ツアーに誘ったのを
「そんなのを見て何が学べるのか」と断ったりした際に(詳細は文末にリンク)、
あれこれ検索した中で偶然に拾って、興味を覚えつつ、
そのまま見失ってしまったので、いつか探しておこうと思っていた情報。

当事私が読んだのはまた別のサイトだったのですが、
シンガーのお母さんが認知症で云々、というその話を、
NDYのブログでStephen Drakeが2008年に書いていました。

Peter Singer ―A Slippery Mind
NDY, March 20, 2008


Drakeのエントリー趣旨は、
Golubchuk(無益な治療)事件でシンガーがコストをあげつらって
医療職の決定権を支持する主張をしたことについて、
以前のDavid Glassの無益な治療事件についてのインタビューでは
「本人と家族の意思を無視して医療職が勝手に決めるのは自律の侵害だ」と
繰り返し強調していることと矛盾している、と突っ込み、

ファンはそう言うのに気付かないだけで、
もともとシンガーの発言は矛盾だらけ、
その場その場で最も受けることを読んで発言しているだけの
ご都合主義だと批判するもの。

Golubchuk事件でのシンガーの発言はこちらに ↓
Singer、Golubchukケースに論評(2008/3/24)

David Glass事件については、Drakeは
とてつもなく長いテレビ番組(2003)のトランスクリプトをリンクしている。
そのタイトルがSinger: Dangerous Mind。

で、それを受けてDrakeは
いや「危険なマインド」というより
「言うことがコロコロ変わるすべり坂のマインド」なんだ…と
付けたエントリーのタイトルが、Peter Singer - Slippery Mind.

Drakeが「無益な治療」論での自律の扱いのほかに、
「言うことがコロコロ変わる」例として挙げているのが、
認知症になった母親の医療についてのシンガーの発言というわけ。

1999年のNew Yokerの取材ではシンガーは以下のように発言している。

I think this has made me see how the issues of someone with these kinds of problems are really very difficult.

これ(spitzibara注:母親の病気という体験)によって、
認知・知的障害を抱える人の問題というのが実際いかに難しい問題なのかということが
私にも分かったと思う。

Perhaps it is more difficult than I thought before, because it is different when it’s your mother.
たぶん私が前に思っていたよりも、ずっと難しい問題。
なぜなら、自分の母親となると話が違ってくるから。


ところが、翌年の2000年にReasonという雑誌のインタビューでは
「その意思決定に関わったのが自分だけだったら
母親はいま生きていなかっただろうけど、姉(妹?)がいるから」と答えている。

とても興味深いのは、
Drakeのこのエントリーに対して、Wesley Smithがコメントして
母親に関しては、どっちも真実だったんじゃないか、と言い、
Drakeがそれに対して、いや、Singerは発言の場を考え、
自分の発言が届く層によって一番受けそうなことを言っているだけだ、と返している。

Smithは上記の2003年の番組に出て、
自殺幇助と安楽死を批判する文脈でこのエピソードを紹介し、
いかなシンガーでも母親に対する愛情があったということは
彼がいずれ過ちに気付き訂正する可能性があるということであり、希望だ、と
語っている。

その個所を抜くと、以下。

The ironic thing was that when Peter Singer’s mother got Alzheimer’s disease, and ceased, in his view, to be a person, he couldn’t have her euthanized. He said, well, it’s different when it’s your mother. Well, that just says that Peter Singer was raised well. Sometimes I think you can take the boy out of the sanctity of life, but you can’t take the sanctity of life out of the boy. Peter Singer proved that he had love in his heart by the fact that he wouldn’t kill his mother, and, in fact, that gives me hope that Peter Singer, someday, will see the error of his ways and realize that either all human life is equal, or none of it is equal.


ここで(2003年に)Smithが言っていることは、
やっぱりちょっと甘っちょろいんじゃないかと思うけれど、
でも、どちらも真実だったんじゃないかという2008年の彼の発言は
意味深いという気がする。

誰にとっても自分の愛する家族の終末期の医療を巡る判断というのは
他人の医療を巡る判断とはまるきり別の話になるだろうし、
まして一般論としての「終末期の人」の話とは
まるきり別の話であって当たり前だと思う。

それに、
終末期の人の医療を巡る意思決定に関わるのが
自分一人だけというケースもあるだろうけれど、
たいていは関わる家族も関係者も複数いて、それぞれの関係にだって
それなりに年月の間に積み重ねられてきた複雑なものがあれこれ絡みついている。

そういうふうに、人が一人、生まれた時から
いろんな人と関わりながら生きてきて死ぬまでの間には
外からはうかがい知れないほどのややこしい事情やいきさつやしがらみが
魑魅魍魎のように絡みついているんであって、

でも人が関係性の中にあるというのはそういうことだし、
だからこそ「わたし」と「あなた」とか「わたしたち」という関係が
そこにはあれこれと輻輳しながら生じているわけで、

シンガーやサヴレスキュやトランスヒューマニストは
人をまるでバラバラに切り離されて存在する個体でしかないように、
しかも、それぞれが単なる機能や能力の総和としての個体ででしかなくて
能力が高くなればそれだけ、その個体それぞれが
それぞれにバラバラのところでハッピーになる……かのように
描いてみせるけれど、

それは、やっぱり違うんじゃない? と
これはもう何度も何度も何度も、そう思う。

やっぱり人間は人との関わりの中で、
「あなたにとってかけがえのない私」、「私にとってかけがえのないあなた」という
「かけがえのなさ」を生きている存在なのだと思う。いい意味でも悪い意味でも。

「自分の母親ということになったら話が違う」というのは、そういうことだし、

その一人の母親の終末期の医療を巡っても、
そこには自分の「私にとっての母」と兄弟それぞれにとっての「私にとっての母」がいて、
さらに意思決定を巡っては、私と兄弟それぞれの「私にとってのあなた」の関係が絡まってくる。

さらに、母と自分と兄弟がそれぞれに絡まりつかせている人との
複雑な関係性にまつわる歴史や事情やいきさつや思惑や、いろんなものが
金魚のウンチ状態になっている。

人はそんなふうに生きているし、

だからこそ、
単なる「機能と能力の総和としての個体」なんかじゃない。

だからこそ、人が幸福かどうか、
誰かの生が生きるに値するかどうかなんて、
その人の能力で決められるものじゃない。



ストーニーブルック大でエヴァ・キテイが中心になって開催した
2008年の認知症カンファに関連したエントリーはこちら ↓

認知障害カンファレンス巡り論評シリーズがスタート:初回はSinger批判(2008/12/17)
知的障害者における「尊厳」と「最善の利益」の違い議論(2008/12/18)
What Sorts のSinger 批判第2弾(2008/12/22)
「障害児については親に決定権を」とSinger講演(2008/12/26)
Singerが障害当事者の活動家に追悼エッセイ(2008/12/29)
Sobsey氏、「知的障害者に道徳的地位ない」Singer説を批判(2009/1/3)
2013.04.30 / Top↑
大統領から任命された15人のチームから成り、
大統領、議会その他連邦機関への諮問を行う連邦政府の機関、
National Council on Disabilityに対して、

Not Dead Yetのトップ、Dian Colemanが電話で、
全米に広がりつつある「無益な治療」論による一方的な治療の停止・差し控えについて、
「我々の命が脅かされている」と危機感を表明。

NCDがこれらの動きに対して懸念の声を挙げる中心となることを求めている。

その内容がNDYのブログに全文掲載されていますが、
ちゃんと訳す余裕がないので、指摘されている主なポイントのみ、以下に。

・無益な治療論そのものは以前からもあったが、そこには
障害のある生を生きるに値しないものとみなす価値意識と、
医療職の障害者のQOLに対する偏見が影響している。

・最もラディカルなテキサスの無益な治療法には
法改正の努力が何度も行われては実らずにきたが、
去年の改正案などはあまりにも穏やかな内容で、
障害者運動は反対せざるを得なかった。
それほどに「無益な治療」法は根付き、憂慮されるものとなっている。

・無益を巡る意識決定プロセスは病院内倫理委に依拠しているが、倫理委そのものに一定の基準がなく、
障害者運動は病院外に障害当事者アドボケイトを含めた場を設けるべきだと主張してきた。

・昨年のNDRNの報告書にも見られるように、
様々な州でP&A組織の介入が何人もの障害者の命を
無益な治療論による一方的な治療の中止から救ってきた事実がある。
NDRNも病院内倫理委ではセーフガードとして不十分だと指摘している。

NDY President Diane Coleman Submits Comments on Futile Care Policies to National Council on Disability
Not Dead Yet, April 22, 2013



昨年のNDRN報告書については、こちらに ↓

障害者人権擁護ネットから報告書「“A療法”・強制不妊・生命維持停止は人権侵害(2012/6/20)
障害者の人権を侵害する医療への痛烈な批判: NDRNの報告書「まえがき」(2012/6/22)
障害者への医療の切り捨て実態 7例(米)(2012/6/26)
NDRN報告書:概要(2012/7/7)
NDRN報告書:WI州の障害者への医療切り捨て実態 2例(2012/7/9)
NDRN報告書: A療法について 1(2012/7/13)
NDRN報告書: A療法について 2(2012/7/13)
NDRN報告書:カルメンの強制不妊ケース(2012/7/14)
NDRNのCurt Decker、"アシュリー療法“、障害者の権利、医療と生命倫理について語る(2012/7/31)
NDRN報告書: 提言(2012/8/2)

2013.04.26 / Top↑
“Knowing when to stop: futility in the ICU”
Dominic J. C. Wilkinson and Julian Savulescu
Current Opinion in Anesthesiology, 2011, 24:160-165


これも、前のエントリーで読んだ論文と同じく、
落ちていく先はコスト論。

無益な治療論争は定義が一定しないまま、いったん下火になったが、
Betancourt事件やGolubchuk事件などで、またぞろ再燃しているとして、

集中治療室における無益な治療をめぐる係争の周辺の文献を概観し、
ざっと以下のことを提言。

・客観性を装う「無益」から「医学的に不適切」に表現を変えて
医療職の価値判断であることを明示。

・「医学的に不適切である」理由の説明を家族にはっきりと行う。
そこには本人への害となることの説明と共に、
他者(限られた資源が他に回されると利益を受ける患者)への害も含めて。

・上記2つの害の可能性を検討して公平公正な判断を行うためには
 病院内倫理委のコンセルテーションによるテキサス型の決定過程が望ましい。

そこで著者らが引いているのは、
2003年にJAMAに報告された調査結果。

治療をめぐる係争が倫理委コンサルテーションで検討されたケースでは
致死率に影響することなく、呼吸器使用、ICU滞在、入院期間が短縮できた。

で、著者らの結論は、

…… it is ethical for doctors to decline to provide treatment that is judged to be medically inappropriate or futile either when such treatment is contrary to the interests of the patient or when there are insufficient resources to provide treatment of this level to benefit.


いつのまにか
本人利益にならない場合と、または社会資源が不足している場合のいずれであっても
治療の提供を医学的に不適切だと判断して拒否することは倫理的だと言われてしまう。

でも、少なくとも後者は「医学的に」不適切だとの判断ではない、と思う。
2013.04.16 / Top↑
A Life Worth Giving? The Threshold for Permissible Withdrawal of Life Support From Disabled Newborn Infants
Dominic James Wilkinson
Am J Bioeth, 2011 February; 11(2): 20-32

【関連エントリー】
「“生きるに値する命”でも死なせてもOK」と、Savlescuの相方が(2011/3/2)


この論文でウィルキンソンが立てる問いは、
親と医師が重症障害のある新生児を死なせることが許されるのはどのような場合か?

「その子どもの将来の利益が負担と同等である」点を「ゼロ地点」とし、
利益がそこを下回る場合にのみ生命維持の中止を認めるハリスの考え方を
「ゼロ・ライン論」と呼び、

それに対して、

Steinbockの「閾値論」を採用すべきだとし、
生きるに値する生を生きられそうな子どもでも親の選択で死なせてもよい閾値の設定を説くのが、
この論文の趣旨。

「閾値論」とは、
上記のゼロ地点ラインの上下に、それぞれ
「生きるに値する生を送る可能性はあるが、親の裁量を認めて親が決めるなら中止してもよい」上限と、
「負担が利益を上回るが、診断その他の不確実性をかんがみて親が希望するなら治療を継続してもよい」
下限を設けて、

上限を超えた治療は「やらなければならない」とされ
下限を下回る治療は「不適切」とされる、というもの。

従来の「グレー・ゾーン」と「閾値」の違いは
ゼロ地点よりも上の「生きるに値する生」を生きる可能性のある子どもでも中止を認めている点。

なぜなら
……it may be worse to allow an infant to live with an LNWL, than to allow a newborn to die who would have had a restricted life.

生きるに値しない生で新生児を生きさせるのは、
制約された生を生きたかもしれない新生児を死なせることよりも悪い可能性がある


ここまで説いて、ウィルキンソンは問いを今度は、
「では、生きるに値する生になることが確実な子どもではどうだろう?」と転じる。

例として、
重症の知的障害(知能レベルが3カ月の幼児に留まる)があるが
身体的には健康で医療を必要としない子どもを挙げる。

そして、親の、結婚生活の破たんにまで及びうる心身の負担、経済的な負担と、
子どもにかかる教育と医療の「大きなコスト」という社会の負担を挙げて、

さらに問いを
「では、他者の利益によって新生児を死ぬに任せることが認められるのは、
どのような場合か」と発展させる。

それに対して、

…… The level of impairment that a society is able to support will depend upon the resources available. In societies that are very impoverished, the threshold would potentially be higher than in societies that have ample resources.

社会がどの程度の障害までを支えるかは、利用可能な資源による。
非常に貧しい社会では、閾値は豊富な資源のある社会よりも高くなるだろう。

(資源は豊かで差別的な社会でも、閾値は高くなると思いますが)


また、
コストもかからず本人に害がないなら、続けてもよいが、
将来的に重度化してゼロ地点を下回るリスクはある、とも追加。

見込まれる反論として、ウィルキンソンが挙げているのは
① 新生児にだけ別基準を設けることになる。
② 障害のある新生児への差別である。
③ 閾値設定の恣意性。
④ 本人の最善の利益論と一致しない。


② への反論が象徴的で、
問題にしているのは将来のwell-beingであって障害ではないから差別ではない、と。

しかし、そんなふうに一定の障害像にはwell-beingの可能性を認めないことが差別なんでは?

それに、このように弁明しつつ、
Wilkinsonは、論文後半の「実際的な基準」では、
「生きるに値する生」として補助具を使えば歩ける身体障害と
IQ35-50で基本的なニーズに関する会話が可能であることを知的障害の基準とし、

知的障害が重度の場合には明らかに「生きるに値しない生」となると断定し、
身障のみが重度の場合でも将来的に重度化するリスクを挙げて、
さらにその後は具体的な損傷、障害、病気を列挙している。

その際に、ダウン症候群と軽度の二分脊椎は閾値論の対象にならないと書いているけど、
上記の親と社会の負担論が持ち出されている以上、そうとばかりは言えないでしょう、と思うし、

閾値論という他人のふんどしを持ち出して論じつつ、Wilkinsonの眼目は、
そこに、こうして親と社会の負担を持ち込んで基準化することにあったのか――??


ところで、Wilkinsonがこの論文で考察事例として挙げているのは

ヘンリー。
妊娠42週で、緊急帝王切開で生まれ、
状態が悪かったため人工呼吸器を付けて集中治療へ。
生後72時間でまだ呼吸器が外れず、脳波には異常がみられる。
集中治療を続ければ命は救えるだろうが、
重篤な四肢マヒを伴う脳性マヒと中等度以上の認知障害を追うことになる
確率が高い、と親には説明。

マイケル。
7歳。重症の四肢マヒの脳性まひ、小頭症、てんかんがある。
視覚障害と重症の知的障害もある。
親や教師の声ににっこりし、馴染んだ音楽を聞くと笑う。
苦痛や不快を感じてはいない時が多いが、言葉や補助具を使っても会話はできない。
本人仕様の車いすを利用するものの、自分では操作不能。胃ろう。
重症の出生時低酸素脳症で、生後1カ月はICUで過ごした。
その後も、けいれん発作が長引いたり、肺炎で何度も入院。
周囲とのやり取りの能力はいずれ変わる可能性はあるが、寿命は予測不能。
成人して、数十年生きる可能性もある。


たぶん、ヘンリーの数年後をマイケルで想像せよということなんだろうから、
早産と帝王切開と胃ろう以外はこの2人とそっくりだった25歳を、ちょいと追加してみる。

ミュウ。
25歳。出生時に重症の低酸素脳症で、生後2カ月近くNICUで過ごした。
最初の1か月、人工呼吸器を装着し、保育器に入る。
生後3日目に胃穿孔の手術。生後6カ月から1か月、けいれん発作で入院。
その後も頻繁に肺炎や気管支炎で入院。
重症のアテトーゼ型脳性マヒと重症の知的障害がある。
本人仕様の車いすを利用するものの、自分では操作不能。寝たきりの全介助。
今のところ滑らか食を口から食べられているけど、いずれは胃ろうになる可能性も。
言葉での会話もエイドを使った会話もできないが、音声のバリエーションと
顔の表情、指差し、全身のありとあらゆるところを使って、言いたいことは分からせる。
自己主張は非常に強い。目だけで誰かを徹底的にバカにして見せることができる。
こっちの言っていることはだいたい理解しているが、
時に都合が悪いと、分からないフリをするチャッカリした面も。
言葉はなくても、けっこう理屈っぽい。
都合が悪い話題が出てくると、いきなり別のことに話を持っていったりもする。
現在、療育園の若手男性職員に熱烈な恋をしているところ。楽しそうである。

その他、ミュウの日常については
ぱんぷきん・すうぷ(2010/8/29)
お茶(2011/1/25)
ポテト(2012/3/4)
オトナの女(2012/5/26)
ミュウの試行錯誤(2012/6/25)
2013.04.16 / Top↑