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「人はただ人であることによってではなく、
高度な認知能力を示すことによって道徳上の地位を認められるべきだ」とし、

それゆえに
「重症の知的障害のある子どもを生かしておくことは
倫理上の義務からではなく、あくまでも親の選択権によって行われるべきだ」とする
Peter Singer氏の主張に対して、

カナダAlberta大学のDick Sobsey氏が
What Sorts of Peopleの新シリーズ第5段で批判しています。

氏は重症知的障害のある息子の父親でもあり、
長年、障害児・者への虐待を研究してきた人でもあるだけに
Ashley事件の当初から非常に熱く憤っており、
今回のWhat Sorts ブログのシリーズでも
粘り強くSingerによる障害児・者の権利の否定に反論を繰り返しています。

思いが深く、言いたいことが沢山ありすぎて
長い文章が多少まとまりを欠いているケもあるのですが、
(この辺り、私も全く同じなので非常に良くわかる・・・・・・)
大まかな論旨を以下に。

自分は哲学について詳しくないので、
この議論における両者の立場の違いには自分の哲学の原理に関する無知と
Singer氏の重症の知的障害に関する無知が関っている可能性はあるが、
しかし人権や、人権の基本となるとされる「人であること」、「人格であること」については
万人の関心事なのだから、これらについての議論は
職業的哲学者だけの小さな集団の中で好きなようにされていいというものではない。

基本的権利があるはずの女性の権利が全面的には認められなかった歴史に見られるように、
人権を巡る概念は決して客観的で普遍的なものではなく、
時代背景や社会によって影響されるものであり、
「重症障害児は人格ではないので殺されてもよい」とするSinger氏の主張も
特定の社会背景では女性の人権が認められないことを当然とするのと同じ論理である。

Singer氏がAshleyケースにおいて、
親と医師らの行為は倫理的だと主張するのも
重症の知的障害のあるAshleyには道徳的な地位がないとの根拠によるものだが、

一方、WPASの調査によっても、またSeattle 子ども病院自身によっても
Ashleyの人権が侵害されたことが確認されていることにSinger氏は触れていない。

しかし、独立の調査でも病院によっても人権侵害があったと確認されたということは
障害のある子どもにも人権があると社会が認めているということだ。

Singer氏は子どもの障害を理由に中絶が認められている事実を
障害児には道徳的な地位が認められていないことの正当化に使うが、
女の子だからというだけ理由で中絶する親もいる事実に彼の論理を当てはめると
それもまた親の考え次第の親の選択権の範疇ということになってしまい、
女であることを理由に中絶されることを根拠に
女性には道徳的地位がないと論じることに等しい。

国連の子どもの人権条約において
生存と成長発達の権利が子どもの最も基本的な権利として謳われている。

この条約を前提に
障害があるという理由で命を断たれてしまう子どもや
Ashleyのように意図的に成長を止められる障害児のケースを説明しようとすれば
それらが全て障害のある子どもの権利を侵害してるか、
もしくは障害児はすべての子どもに認められた権利の埒外とされているかの
いずれかだと考えるしかなく、
私は前者だと主張し、
Singer氏は後者だと主張するわけだ。

私が前者だと主張する根拠は1989年の子どもの人権条約において
重い障害のある子どもが十分に保護されるべきことが謳われており、
障害を理由に異なった扱いを受けるなど
「いかなる種類の差別も」明白に禁じられていることである。

条約は障害児の権利が侵されてきたことを指摘したうえで、
彼らの権利に特に保護を求めているのであり、
Singer氏が主張するように
障害児はすべての子どもに認められる権利の対象外だとの理解ではない。

ソマリアと米国以外の国連加盟国が批准している
この子どもの権利条約を否定することなしには
Singer氏の主張は論理的に成立しない。

48年の世界人権宣言にも、71年の精神薄弱者の権利宣言についても同様であり、
すなわちSinger氏の立場を受け入れることは、
ユニバーサルな人権を認めてきた過去60年の成果を無にすることである。

またSinger氏が道徳的地位に値しない人間のカテゴリーを表すものとして使用する
「重症の精神薄弱」という用語は
重症の知的障害者の実態を理解したものではなく
大雑把なステレオタイプを当てはめたものに過ぎない。

現実の重い知的障害のある人たちは
Singer氏が「彼らには出来ない」と決め付けている様々な能力を見せるし、
Singer氏が人格の根拠とする
Sentience(苦痛や喜びを感じること)や自己意識、ある程度の社会的な行為も
見せる人がほとんどである。

さらに、障害のある子どもを生かすも殺すも親の勝手とする彼の主張が認められない
もう1つの理由として、
子どもは親だけが育てるものではなく、
親と社会が養育の責任を負うものである。
そうでなければ社会が教育や医療を用意する必要もない。

確かに障害のある子どもを産むと親が決めることは
家族にとっても大きな責任であり、社会もまたその選択を支える義務を負う。
現在の国際法や多くの国の法律では
障害のある子どもには社会からその支援を受ける権利が認められている。

私は重複障害のある息子をもつ身として
この問題に個人的な興味をもってはいるのは事実だけれども、
この問題に関する私の立場は息子が生まれる前から一貫して変わらない。

障害のある子どもたちの権利を認めようとしない親も
認めようとしない政府も現実に存在する。
しかし、障害のある子どもたちの権利が往々にして侵害されているからといって、
その権利が存在しないことにはならない。
Singer氏の立場を受け入れれば
それらの権利は間違いなく奪われてしまう。

ブラボー、Sobseyさん。

Peter Singer & Profound Intellectual Disability
By Dick Sobsey,
What Sorts of People, December 30, 2008


「Singer氏の主張は重症知的障害に関する誤解に基づいている、
Singer氏は知的障害者と個人的に直接接する体験がないまま
知的障害者というグループを非常に抽象的で誤ったイメージで捉えているからだ」
とのSobsey氏の主張は
当ブログでもAshley事件の当初から述べてきたことと同じで、全く同感。

“Ashley療法”論争当時にも、
国連の子どもの権利条約や
ちょうど論争になる直前に成立した障害者の権利条約に触れて
同様の批判は出ていました。

しかし現在に至るまで、親や担当医はもちろん養護する立場の人たちは
いわゆる”Ashley療法”がこうした国連の権利条約違反だとの批判には
まったく応えていないし、それどころか、ほとんど歯牙にもかけていない様子。

私はずっと不思議なのだけれど、
英国のヒト受精・胚法改正議論で障害児はnon-personだという話が出たり、
重症障害を理由に「治療は無益」だからと栄養と水分まで止められる事件が相次いだり、
またオーストラリアで息子のダウン症が永住権拒否の理由になったり……
そのたびに、それらがこうした人権条約の違反であるという視点が議論からほとんど抜け落ちていることに、
国連が謳う人権って一体なんなんだろう、
もしかして、ただの壮大なタテマエに過ぎないのだろうか・・・・・・と
なんとも索漠とした気分になってしまう。
2009.01.03 / Top↑
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