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障害のある子どもの子育ての負担や親への支援を考える際に、
案外、盲点になっているんじゃないかなぁといつも思うのは
家族の中に以前から潜在している、障害とは無関係な別問題の存在。

なんの問題もなく、いつでもみんなが仲良くてハッピーで……という家庭も
あるのかもしれないけれど、たいていの家庭では、
家族の人間関係にそれぞれ複雑な歴史というものがあり、
一口には他人に説明できない、ややこしい事情の積み重ねというものがあって、

何事も起こらない平穏な日常の繰り返しの中では
そうした事情や問題は表面化しないまま潜在しているけれども、
大きな行事やアクシデントという非日常が単調な生活に裂け目を生じて
家族に大きなストレスがかかったりすると、
それまで暮らしの営みに取り紛れて隠れていたり
意識のずっと下の方にくすぶっていたものがにわかに顕在化して、
波風が立ったり、諍いが起こってしまう──。

そういう問題はどこの家庭にも潜在しているものなのではないでしょうか。

障害のある子どもが生まれたり、
ある日突然に子どもに障害あると分かったり、
その後に負担の大きな子育てが続いたりする中で
潜在していた、そういう問題が、にわかに顕在化してくる……ということが、
実は障害のある子どもを育てている家庭にとっては
案外に大きな問題なんじゃないかと思うのです。

障害のある子どもが生まれたり、
ある日突然、子どもに障害があると知らされると、
家族はそれまでの価値観や人生観を根底から揺るがされて、
それぞれが相当なストレスを抱えこみます。

当初は「頑張らなければ」「みんなで助け合おう」と緊張し、
前向きな気持ちで団結していたとしても、

それまではしなくても良かった我慢や不快を強いられながら
家族一人ひとりが新たな日常というものを再構築していかなければならないのだから、
家族が団結して麗しく助け合う状態がずっと維持できるほどに現実は甘くない。

(逆にそんな状態を長く維持できるとしたら
案外に家族の誰かだけに過度な我慢を強いている可能性があるので、
むしろ維持できなくなって早めにトラブルが起こってしまう方が
長い目で見たらいいんじゃないかという気が私にはします)

家族それぞれにストレスがかかって不安定になり当初の覚悟もダレてくる、
みんなが疲れ始めて、ぴりぴりしてくる時期というのがあって

そういう時に、
それまでその家族の中に潜在化していた、
子どもの障害とは無関係な問題が一気に顕在化してくる。

夫婦の間に問題が潜在化していれば夫婦の関係に、
嫁姑問題がくすぶっていれば嫁姑の間のトラブルとして、
親子関係の火ダネがあったとしたら、そこから炎が上がる、といったふうに

子どもの障害とは直接関係しないはずの問題が、しかし障害をきっかけに、
顕在化し家庭には修羅場が出現します。

しかも
その修羅場の間だけ子どもの障害が消えてなくなってくれるわけでもなければ、
日々の子育ての負担はその間も誰かが担わなければならないのだから
別問題が引き起こす修羅場に子どもの障害を巡る思惑やら感情までかぶさり絡まって
ややこしく錯綜するのは必定で、問題がこじれることだって多々あるでしょう。

そういう中に置かれた親にとっては、
緊急事態が2つ(時にはそれ以上)重なって同時に起こっているようなものなので、
子育てだって平常時の何倍も耐え難く
負担感の強いものに感じられてしまうのではないでしょうか。

もちろん、そちらの別問題まで支援しろというのは
無理なことかもしれないのだけれど、

せめて、障害のある子どもの子育ての負担感や支援の必要度というのが
子どもの障害像や、その子と親との関係だけで測れるものではないということを
わかってもらえないものかな……と考えていたので、

前回エントリーのThe Canberra Timesの記事でSallyさんが言っている
「世間に分かってもらえないと思うのは
 介護は生活全体なのだということ」というのは、
もしかしたら、こういうことじゃないのかな、と。
2008.10.20 / Top↑
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