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福岡で母親が発達障害のある息子を殺した事件について
ネット上で「殺すぐらいならギブアップしろ」という意見をいくつか見て違和感を覚え、
それがどこから来るのかをずっと考えています。

「殺すぐらいならギブアップしろ」という人は、
たぶん「親の愛情が最初からないから殺す」または「親が愛情を失ったから殺す」と
考えているのではないでしょうか。

もちろん、そういう親もいるかもしれないのだけれど、
私はむしろ、愛情があるからこそ抱え込んでしまって
どうしていいかわからないところに追い詰められたり、
逃げ場がないまま、しんどさに擦り切れ、燃え尽きて殺してしまう親のことを考えてしまう。

そういう場合、
「虐待したり殺すよりは」と考えてギブアップできるような親なら
最初から殺さずに済むんじゃないか、

簡単にギブアップできないからこそ
殺すところまで追い詰められてしまうんじゃないか、

なぜならギブアップして我が子を完全に他人に託してしまうためには
どこかで「他人に託してもこの子は大丈夫だ」と思えなければならないのだけど、
「この子は自分が」「私でなければ」と思い込んでいるからこそ抱え込むのだし、

また抱え込んでいる腕をわずかに緩めて、ちょっと他人に托してみる体験がないかぎり
「自分でなくても大丈夫」ということも知りようがないのだから、
腕を緩めてみる人はどんどん支援サービスを利用するのに抵抗がなくなる一方で
抱え込んでいる人ほど、より深く抱え込むしかないところへ追い込まれるジレンマもある。

そもそも
ギブアップするためには「ギブアップ」という声を上げなければならないわけだけど
それ自体が「助けて」と意思表示をすることでもあって、
それができる人なら大抵は、もっと以前の段階で
もっと身近なところで「助けて」という声を上げられるんじゃないだろうか。

産んだ以上は愛情さえあればどんなことでも耐えられるはず、
それが出来ないなら、いっそ完全にギブアップして棄てろ、と
全部かゼロかの2者択一しか許さない狭量な社会よりも、

むしろ、その2つの間にある無数の種類の負担や痛みをきめ細かく支え柔軟な支援体制で
様々な形の「小さなギブアップ」が許される懐の深い社会の方が
親も肩の力を抜いて長く頑張ることができるだろうし、
親と子の関係も風通しのよいものとなり、
子どもの幸せにも繋がるんじゃないだろうか。

自分の辛さや限界と子どもへの想いの板ばさみの中にいる親は
完全にギブアップして子どもを棄てるなんて恐ろしいことができないからこそ、
殺すほどに思いつめるのだから、

むしろ
時にギブアップしたいと感じるのは誰にでもある自然なことであり、
早めに支援を求めて「小さなギブアップ」をしてかまわないこと、

それで逆に親と子の関係が大切に守られることだってあること、

頑張りすぎてしまって限界が来そうな時には
親と子の関係を大切にするためにこそ「小さなギブアップ」を許容する社会の懐の深さと

それでOKなんだよというメッセージが
苦しくなる前の段階から親に充分に送られることが必要なんじゃないだろうか。

そうして上手に他人の手を借りて、
いわば「小さなギブアップ」をいろんな形で繰り返しながら
親が子どもを育て続けることができるなら
最後の最後の大きなギブアップを避けられる人はもっといるんじゃないだろうか。

いつでも「小さなギブアップ」が許される
きめ細かい柔軟な支援が整っている社会の方が
親も安心してゆったりと子どものケアを続けられるし
(なにより安心して産めるし)
結局は社会のコストもかからないのではないだろうか。

2008.10.01 / Top↑
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