重い障害があって病気がちな娘を育てていると、
正直、ギブアップしたい時は、あった。
正直、ギブアップしたい時は、あった。
瞬間的に娘を憎悪してしまう瞬間だって、あった。
(いま振り返ると、充分助けてくれない誰かへの怒りを
思うようにならない娘に投影していたような気がするけれど)
思うようにならない娘に投影していたような気がするけれど)
幸い、私には
「お母さん、苦しいんじゃない?」
「もう1人で頑張り続けなくてもいいんだよ」と
向こうから迎えに来てくれる人がいた。
「お母さん、苦しいんじゃない?」
「もう1人で頑張り続けなくてもいいんだよ」と
向こうから迎えに来てくれる人がいた。
あの時の迎えがなかったら、私だって殺していたかもしれない。
だからこそ、本当は助けを必要としている人が「助けて」という声を上げられないまま
今もどこかで苦しんでいるんじゃないかと想像すると、
その頃のことが思い出されて、息が苦しくなってしまう。
今もどこかで苦しんでいるんじゃないかと想像すると、
その頃のことが思い出されて、息が苦しくなってしまう。
そして、誰かその人に伝えてあげてほしい、と思う。
もうダメ、これ以上頑張れない、投げ出したい、と感じることがあるからといって、
決してあなたが冷たく酷い親だというわけではないのだと。
決してあなたが冷たく酷い親だというわけではないのだと。
親だって生身の人間なのだから、
頑張れること、耐えられることには限界があるのが当たり前。
頑張れること、耐えられることには限界があるのが当たり前。
限界があるからといって決してあなたに愛情がないわけでもなければ
一時的にもうイヤだと考えることがあるからといって、
あなたが本当に子を憎んでいるわけでもない。
一時的にもうイヤだと考えることがあるからといって、
あなたが本当に子を憎んでいるわけでもない。
そんな思いになるのは、あなただけじゃない。
そんな思いになるほど頑張り続けたのなら、今はあなた自身に休息が必要な時。
そんな思いになるほど頑張り続けたのなら、今はあなた自身に休息が必要な時。
小さなギブアップをして、また親が元気を取り戻せるのなら
子どもにとっても、その方がいいかもしれない。
子どもにとっても、その方がいいかもしれない。
親子の繋がりは、そんなに簡単に切れるものじゃない。
あなたがそんなにも苦しんでいることが、
あなたが愛情を失っていない何よりの証。
それほどの愛は、必ず子どもに伝わっている。
あなたが愛情を失っていない何よりの証。
それほどの愛は、必ず子どもに伝わっている。
だから、ちょっとだけ勇気を出して、
ちょっとだけ我が子の持つ力を信じて、
ちょっとだけプロの技量を信じて
ほんの小さなギブアップをしてみない?
ちょっとだけ我が子の持つ力を信じて、
ちょっとだけプロの技量を信じて
ほんの小さなギブアップをしてみない?
そういうメッセージを伝えていくこと、
「助けてほしい」という気持ちにすら自分で気付くことができない親を見つけ出して、
その複雑な思いに寄り添いながら
上手に支援への最初の一歩を踏み出させてあげること、
その複雑な思いに寄り添いながら
上手に支援への最初の一歩を踏み出させてあげること、
その受け皿を作ることも支援なんじゃないだろうか。
2008.10.01 / Top↑
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