前々からずううううううっと不思議でならないのですが、
「利益vsリスク」の差し引き勘定による「最善の利益」論というのは
根本的におかしいんじゃないかと思えてならないのは
根本的におかしいんじゃないかと思えてならないのは
それって、
そもそもの前提が「やってもいい」に立っているじゃないか、と。
そもそもの前提が「やってもいい」に立っているじゃないか、と。
リスクよりも利益の可能性が勝っていたら「やってもいい」という前提があるから
その差引勘定をすることに意味があるわけであって、
その差引勘定をすることに意味があるわけであって、
それ自体、
この差引勘定以前の段階で
既に「一定条件を満たせばやってもいい」という判断が行われているのでは?
この差引勘定以前の段階で
既に「一定条件を満たせばやってもいい」という判断が行われているのでは?
だからAshley事件で、
倫理委が3つの医療処置それぞれについて
「利益と害の可能性を比較検討した結果、利益が勝っており、
従ってAshleyの利益になると結論した」
というDiekema医師の主張は、
倫理委が3つの医療処置それぞれについて
「利益と害の可能性を比較検討した結果、利益が勝っており、
従ってAshleyの利益になると結論した」
というDiekema医師の主張は、
倫理委がその比較検討をする以前の段階で
(実際に倫理委がまともな議論をしたと仮定してのことですが)
(実際に倫理委がまともな議論をしたと仮定してのことですが)
「利益の可能性が害の可能性より勝っていたらやってもいいことだ」との判断が行われたことになり、
じゃぁ、誰がそんなの決めたんだ?
そっちの判断はどうやって検討したんだ?
という話にならないでしょうか。
じゃぁ、誰がそんなの決めたんだ?
そっちの判断はどうやって検討したんだ?
という話にならないでしょうか。
つまり、何よりもまず
「最善の利益」を検討する前に
「一定条件を満たせば許されることなのか」それとも「何がどうであっても許されないことなのか」
という判断が行われるべきではないのか、ということ。
「最善の利益」を検討する前に
「一定条件を満たせば許されることなのか」それとも「何がどうであっても許されないことなのか」
という判断が行われるべきではないのか、ということ。
Ashleyの親が要望した医療処置についての倫理的判断は
その段階から始まるべきだったのではないでしょうか?
その段階から始まるべきだったのではないでしょうか?
それとも生命倫理という装置そのものが
解釈しだいでどうにでもなる「最善の利益」という概念でもって
最初の前提部分であるべき本質的な判断を消滅させるカラクリなのでしょうか。
解釈しだいでどうにでもなる「最善の利益」という概念でもって
最初の前提部分であるべき本質的な判断を消滅させるカラクリなのでしょうか。
【追記】
ちょっと整理させてもらうと、
ちょっと整理させてもらうと、
1.条件によっては許されることか、条件を問わず許されないことか。
(ここで答えが後者であれば議論はそこで終わります。
ここで答えが前者であった場合にのみ議論は次の段階に進むことになります。)
ここで答えが前者であった場合にのみ議論は次の段階に進むことになります。)
2.では当該処置が許されるための条件とは何か。
3.2の段階で決められた条件を満たしているかどうかをAshleyのケースで具体的に検討。
2の段階で「利益vsリスク」の検討で利益の方が勝っているという条件が有効だと確認された場合にのみ
Diekema医師のジャスティフィケーションは有効だということになるはずだと思うのですが、
Diekema医師のジャスティフィケーションは有効だということになるはずだと思うのですが、
Diekema医師は自分が倫理学の専門家であることから
あたかも1,2の段階は自明であるかのように装い、
あたかも1,2の段階は自明であるかのように装い、
最初から第3段階の議論のみを行った倫理委員会の検討が
あたかも妥当であったかのようにミスリードしているのでは?
あたかも妥当であったかのようにミスリードしているのでは?
2008.03.06 / Top↑
| Home |