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北海道で知的障害のある中学生がずいぶん前から行方不明になっていて
ついに公開捜索に踏み切られたという以下のニュースを読んでいたところ、


ネットではいつものことなのかもしれませんが、
知的障害者を誹謗するコメントがあったらしい痕跡が見かけられるものの
既にコメントそのものは削除されていると思われる中で、
以下のコメントは削除されることもなく残っていたのが目を引いて
つくづく考え込んでしまった。

色々と事情はあるのだろうしこのニュースに書かれている以外の状況もあるのだろうが,18才で産んだ障害のある我が子を人に預けた自分には責めるべき点が全く無かったのか?この母親はどうも障害者版モンスターペアレントみたいに思えてならない。「迎えに行けないから」と説得してやめさせたが、そのときの様子は「いつもと感じが違った。前兆があったのに,どうして気付いてくれなかったのか」って
いやいや…だったらオマエが迎えに行けよw前兆に気付いたなら動くべきは先ず親である君だ。こういう輩に限って,施錠や外出を厳しくしたらしたで障害者の人権がどうのと言うんだろうな。砂浜君は無事に見つかって欲しいのは言うまでもないが,この女には全然同情できない。

重症児に対する「どうせ何も分からないに違いない」というステレオタイプに潜む危険を
当ブログでは「ステレオタイプという壁」という書庫のエントリーで訴えてきたのですが、

そうなのでした。

重症児について、または障害者一般についてのステレオタイプの他にも、
「障害者家族」特に「障害児の母親」についてのステレオタイプというのも
世間には実に根強いのでした。

我が子に障害があれば
それがどんなに過酷な介護生活であろうとも、
自分の身など一切省みずに献身的に笑顔でケアし続ける
明るく優しく強い母親像──。

どんな事情があろうとも
そうした「障害児の母親」というステレオタイプから外れることは
見も知らぬ相手から「オマエ」呼ばわりされ、
「この女」呼ばわりされても当たり前なほどの軽蔑に値することだと、
この人は考えているのでしょう。

「いろいろと事情はあるのだろうし」と書く一方で、
母親の愛情さえもってすれば、
障害のある我が子を人に預けるほどの事情などありえないだろうと
考えてもいるのでしょうか。

だからこそ、
自分で面倒を見ずに他人に預けておいて文句まで言うとはナニゴトか
という非難が出てくるのですね、きっと。

介護保険制度ができて介護は社会で担うものだという認識が広まるにつれて、
障害児の母親をはじめ家族の介護負担についても、
上手にサービスを利用して、むしろ自分だけで抱え込まないようにと
周囲の専門家からも勧められるようになってきたようで、

それでも多くの母親たちは
ほんのわずかのレスパイトさえ
罪悪感と闘いながら利用しているに違いないのだけれど、
なんでもかんでも「母親なんだから頑張れ」と叱咤された時代から比べれば
ずいぶん変わったものだと私は喜んでいたのですが、

障害児の母親を巡る母性神話的ステレオタイプは
まだまだ根強いのだなぁ……と改めて。

もっとも介護保険での保険給付も抑制の方向で
「ノーマライゼーション」だ「地域で暮らす」だのという美名の下に
またしても介護が当人と家族の自己責任へと
逆戻りの様相であることを思えば、

「障害児の親」のステレオタイプと美化もまた
かつての如くに復活するのかも?
2008.03.04 / Top↑
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