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「末期であること」を尊厳死の要件にしながら
その一方で意識の有無を問題にして植物状態を尊厳死の対象にするのは
日本尊厳死協会の矛盾であると指摘した際に小松氏は
植物状態はコミュニケーション障害である」との自説を展開します。

当ブログでも「ステレオタイプという壁」の書庫にあるエントリーで
繰り返し主張してきましたが、
「重症児は表出能力が非常に限られているのであって、
 それが必ずしも認知能力の低さを証明するものではない」
と考えた場合、
重症障害についてもコミュニケーション障害である可能性は常にあると思われます。
これはAnn McDonaldさんやHank Bersani氏らが指摘している点でもあります。

どちらとも証明できない場合に、
医療は「だから、きっと分からない」という立場をとりがちで、
教育は「だから、分かるかもしれない」という立場をとろうとするのかも……
という違いを私は”Ashley療法”論争から感じているのですが、
(私の主観的な印象に過ぎませんが)

それによって害を及ぼす可能性を失くすためには
やはり後者の立場が正解ではないでしょうか。


小松氏の指摘は
「命の末期」がいつのまにやら「意識の末期」にずらされている矛盾を突いたものですが、

そして、
この尊厳死要件における「ずらし」は
米国医療倫理の「無益な治療」議論で見られる
「治療の無益」が実は「命や人の無益」に摩り替わっている「ずらし」と
まさに同質だと私には思えるのですが、

我々一般人が漠然と「尊厳死」を考える際にも
「もうどうせ助からないのに過剰医療で苦しみたくない」と
「意識がなくなって家族に全面的に依存してまで生きていたくない」という
2つの「尊厳死」希望には、
よくよく考えてみると相当な開きがあるにもかかわらず、
その開きはほとんど意識されないまま
混同されているのではないでしょうか。

切り捨てたい側の巧妙な「ずらし」を
我々一般人の側が見過ごしてしまう要因の1つがここにあるように思うのです。

つまり「意識の有無」を巡るステレオタイプの怖さです。

身体的な状況が「悲惨」、「重症」と感じられる場合に、
意識状態まで身体状況と同じ程度に「悲惨」で
「同じくらい障害されている」と短絡してしまう危険。
そして一気に「どうせ分からないのだから」とさらに短絡してしまう危険。

(Diekema医師が繰り返している
「どうせAshleyは生後3ヶ月の赤ん坊と同じなのだから」というセリフが
 こうした短絡と同じではないという保障もどこにもないのです。)

このステレオタイプの短絡にはもう1つ、
端から見る人が感じる「悲惨」であって
それが必ずしも本人の主観的な「悲惨」とは限らないという問題も
含まれています。

こうしたステレオタイプと
それに付け込む「ずらし」には充分に警戒していないと、

やがて行き着くのは
意識状態を問わず一定の要介護状態になったら『尊厳死』の対象。
本人が尊厳死を望まないなら、次には『無益な治療』の適用対象
というところではないでしょうか?
2008.03.03 / Top↑
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