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前回のエントリーで紹介した
「現代思想」2月号の対談「尊厳死をめぐる闘争」から、

そっくりそのまま“Ashley療法”批判にもあてはまると思われる
“尊厳”をめぐる小松氏の発言を以下に。

……ここでやはり問うべきは、尊厳死の前提となる人間の尊厳とは何か、ということです。こんなに惨めな状態で、家族に精神的にも肉体的にも金銭的にも迷惑をかけているし、自分で排便・排尿できない、食べ物も経管に頼っている。それを尊厳のない状態と考えるのがどういうことかといえば、言葉は悪いのですが、「社会的に役立たず」ということでしょう。そこでは人間の価値が社会的に必要か無用という価値になってしまっている。それに対して私は、どんなに無残で変わり果てた姿となっても、ただその人がいる・ある、という存在そのものの価値を体感するところに人間の存在が出来すると思っています。ですから、日本尊厳死協会は意識の有無に拘泥していますが、真に意識がないはずの死体ですら私は平常時では足蹴にできません。そうさせる存在をめぐる何かが人間の存在だと思います。経済政策の中で、存在の価値が有用性の価値にどんどん転化してきているということこそが問題です。
(太字はspitzibara)

昨今の科学と新興テクノロジーの進歩による
「身体は取替え可能な部品の集まりで
自分の自由にできる所有物に過ぎない」
とみなす傾向が拍車をかけて
人間存在が身体と切り離されてしまったように思えることも
小松氏のような尊厳感覚を希薄にしているのではないでしょうか。

太字部分はまさに重症児の状態そのものです。
「社会的に役立たず」であるばかりかコストがかかるのですから、
社会的コストパフォーマンスが悪い最たるものが障害児・者であり、
その中でも重症児ということになる。

「無益な治療」法などは、
まさに経済上の社会のニーズから
「無益な治療」が「無益な人間」を作り出していくマジックでしょう。

小松氏は別の箇所で
日本尊厳死協会は自己決定を前提に尊厳死を個人に限定して認めるようでいて
その実、尊厳死を社会的に認めさせていくという離れ業をやっているのだ
と指摘しているのですが、

「無益な治療」にせよ「ロングフル・ライフ」にせよ選別的中絶にせよ“Ashley療法”にせよ、

個別に検討することが大切といいながら、その実、
障害のある命を生きるに値しない命とする価値観
障害児・者の身体には健常者の身体と同じ尊厳を認めなくても良いとする価値観を
じわじわと着実に社会に蔓延させている

こちらは尊厳死協会以上の離れ業をやってのけているわけですね。

             ―――――

荒川氏の発言の中で目を引いた箇所を1点。

リビング・ウイルなしに
家族が本人の意向を推測して伝えるということを認めるかどうかについて、

植物状態の場合は死が差し迫っているわけではないから
それは認めないという立場だと説明した際に、

かつてDPI(障害者インターナショナル)日本会議で討論したときに
私たちは家族も信用していない」といわれたとのエピソードが
紹介されているのです。

障害児・者の医療やケアの問題を考える際に
「親や家族の愛」をキーワードにした情緒的扇情的なものの言い方には充分に警戒していなければ、

本人と親や家族の利害は必ずしも一致しているわけではないという重大な現実が
容易に見失われてしまいます。

私たちは家族も信用していない――。

心して傾聴すべき言葉ではないでしょうか。
2008.03.03 / Top↑
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