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書店でタイトルを見た時にAlisonとKatieの顔が浮かんだので、
「家族と法---個人化と多様化の中で」(二宮周平 岩波新書)を買ってみました。

日本の話にはなりますが、家族の中での権利の衝突を考えてみる手がかりになるかと思って。

第5章の「人の世話をすること ―─保護と自立へのサポート──」冒頭に
「自立できない人を助ける仕組み」として民法が定める保護の3類型が紹介されています。

①身の回りの世話
②財産の管理と法律行為の代理
③扶養

未成年者については親権者が①②③を総合的に担う仕組み。
成人の場合は、それぞれが分離されて運用される。
ただし、このシステムの問題として著者は以下の3点があると。

(1)高齢や障害などで自立しえない人を家族が引き取り同居して①②③を総合的に行ってきたこと。
   家族のライフスタイルが変化してきたことから、
  「男女が共同し、家族の中だけで支え合うのではなく、
   地域や社会と連携しながら、担っていくことが求められる」。
   そのようにして「①②③を分離するメリットを生かすという課題がある。」

(2)未成年、高齢や障害によって判断能力が低下していく人の自己決定を尊重するという課題。
   画一的に②を制限するのではなく、状況に応じて②を使い分ける必要。

(3)障害者の継続的な保護。障害を持つ人も成年に達すれば大人であり、
   雇用を含めた自立へのサポートが不可欠の課題。

なるほど、基本理念はケアの社会化、本人の自己決定の尊重のようで、
アメリカ、イギリスと同じ方向を向いているんだなぁ……と思って読んだのですが、
ここで著者は上記の3つの問題にもう1つ付け加えています。

最後に、私たちの日常生活でとても大切な問題がある。それは、保護する人とされる人との関係性である。どうしても、保護する人がされる人を支配しがちになる。される人が、する人の思いどおりにならないとき、する人が負担感から感情が爆発することもある。お互いが笑顔で接することができるようにするには、どうしたらよいのか。それは、もっとも基本的な課題であり、法制度を考える場合にも重要である。つまり、保護は、される人の視点に立つことが原点だということである。される人は、可能な限り、独立、平等、自由な存在となるために、保護を受ける権利を有しているのである。

                ―――――

私自身は病院や施設でのケアを考える際にいつも感じるのは
「保護」と「管理」の間の距離は短いなぁ……ということ。

多数を対象とするケアでは一定の管理が避けられないため「保護」と「管理」の距離がしごく短くて、
本来は「保護」であるはずのところが「管理」に置き換えられてしまうこともよくあって、
「保護」に置き換わった「管理」が「支配」の手段に使われることも。

でも本当は、家族ケアにおいても同じことが起こりうるのでは?

誰もケアなど必要としてなくても
「支配―被支配」の関係が存在する家庭って、結構あるように思います。

そこに家族の誰かがケアを必要とする事態が起こると、
もともとあった「支配―被支配」の関係性が影響しないはずはなく、
場合によっては支配が強化されてしまうこともありそうです。

保護される人への支配だけでなく、
ケアを担う人への他の家族からの支配が強化されることもありそうです。
(ケアされる側がケアする側を支配しているという家族も見たことがあります。)

また、家族はそれまでの暮らしの中でお互いに対する様々な感情のねじれを抱えてもいて、
ケアを巡る家族の関係性にはそれが重層的に絡まりあい時に奇怪に錯綜したりもして、
しかも常にうつろっている……。 

そんな、元来ややこしいものをいろいろ抱え込んでいる家庭という場で、
ケアする側に負担感が過重に感じられる場面があると、
そこにはやはり虐待の芽が生じやすいのではないでしょうか。

必ずしも「ケアされる人とする人」の関係だけでなく、
他の家族間での支配関係も、ケアされる人への虐待の引き金になりそうな気がします。
(例えば夫に強く支配されている妻が、ケアしている夫の親に感情を爆発させるとか?)

そういう家族の危うさが病院や施設ほど見えにくいのは、家庭という場の閉鎖性の他にも、
周囲にある「介護とは美しいものである」という介護のステレオタイプや
「家族は愛情に満ちたケアをしているはず」とか
「施設よりも家庭でのケアの方が本人は幸せ」という
家族ケアについてのステレオタイプな思い込みによるのかもしれません。

もともと「ケアされる人とする人との関係性」という“場”には、
施設ケアであれ在宅ケアであれ、
それぞれの個人がどのような人かという資質とは別に、
そういうリスクを避けがたく孕んでしまう厄介さがあるような気がします。

だからこそ、
「保護はされる側の視点に立つことが原点」という時の「される側の視点」は
「保護する人とされる人との関係性」の外から保証されるべきなのではないでしょうか。
2007.11.06 / Top↑
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