前回のエントリーで、植物状態の人の体を臓器移植や人体実験に使う道を開こうと、死の再定義が試みられているとする記事を紹介しました。
筆者のWesley J. Smithは“アシュリー療法”についてもNational Review Onlineというサイトに非常に優れた論評An Ethically Unsound “Therapy”:Emotions and motives to the side, this radical procedure is unjustifiable.(2007年2月8日)を書いています。
私も当時発表された論考・記事をすべて把握しているわけではありませんが、少なくとも一定期間に目に付いたものを手当たり次第に読んだ相当数の文章の中では、最も優れていたものの1つでした。なによりもSmithは、他では見られない指摘と提言をしています。私が特に目を引かれたのは、以下の論点。
・アシュリー療法論争では、まず情緒を排除して問題を考えるべきである。アシュリーのおかれた状況や親の動機を巡るセンチメンタリズムを排して、何が行われたのか、それは何故なのかを検討するべきである。
(当ブログの前半で私が試みたのも、この2点に「アシュリーはどのような子どもなのか」を加えた3点について、直接当事者の資料から事実を確立する作業でした。詳しくは「事実関係の整理」の書庫を。)
・その上で、当人の障害と親の動機は、果たして通常であれば明らかに虐待であるはずの行為を医師の行う正当な医療行為に変えるものかどうか。
・その際、重要なのは「なぜ」よりも「なに」が行われたかということ。
・医師らの論文がこのたびの医療処置について「前例がない」、「目新しい」、「リスクも効果も推測するしかない」などと書いていることから、アシュリーに行われたのは非倫理的な実験である可能性がある。
【追記】この点については、当ブログでも 詳しく検証しています。
・この問題は、親の決定権や一病院の倫理委員会に任されて済むような簡単な問題ではなく、倫理上の問題点が充分に検証されるまでは他児への適用をストップすべきである。
・その上で、専門家の特別委員会か政府の機関、またはその両方がこのたびの事件の調査を独立して行うべきである。
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アシュリーのことなど誰もが忘れてしまったかのように思えるこの頃、1月2月のあの騒ぎは何だったのだろう……と時に考えます。
しかし、Smithが指摘しているように、“アシュリー療法”論争ではセンチメンタリズムが大きな役割を果たしたのは事実です。そして当ブログでの検証から考えると、それは恐らく子ども病院の医師らが事実を隠蔽するために使った煙幕であったと思われます。その煙幕が成功し、うやむやのうちに多くの障害者・病者・高齢者にとって恐ろしい前例が作られてしまったのかもしれない……。
それを考えると、いまだにお腹の底で憤りの種火がチロチロする──。
それは私が、よほど偏屈なのか──。
それは私が、よほど偏屈なのか──。
2007.09.10 / Top↑
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