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以下、まだ全然、掘り下げられていなくて、
ただの思いつき程度の内容なのですが、
とりあえず自分自身のメモとして書いておきたいので。


マーサ・ファインマンが「ケアの絆」で力を入れて批判していた
フェミニズムのジェンダー中立性重視というのは、たとえば

社会で男性と対等の権利を手に入れることを重視するあまり
会社で男と同じだけ働いて、家に帰っても、また働かなければならない状況が作られたり、

離婚の際の親権をめぐる男親と女親との評価においても
全く同じ条件で比較されることが平等だということになって
却ってシングル・マザーに非常に不利な状況が作られてしまったり、

平等を求めたはずが、あまりにも政治的な正しさとしてジェンダー中立性にこだわったあまり
回りまわって不平等を後押ししてしまったじゃないか…・・・ということのようだったのですが、

本を読んだ後も、なんとなく、そのことをぼんやりと考え続けていたところに
モンタナの自殺幇助合法化判決の続報が出てきたりしているうちに、

ふっと思い出したのが、Tom Shakespeareの
「健常者には認められる“死の自己決定権”が障害者には認められないというのはおかしい。
障害者にも健常者と同じように“死の自己決定権”が認められて然り」という論理。

これ、読んだ時から、ずうっと引っかかっていて
自分がどういう理屈でこれを否定しようとするのか、
たびたび考えてみようとしては、いまいち整理できていないのだけど、

Shakespeareはここで、
フェミニズムのジェンダー中立性重視の轍を踏んでいる、とは言えないかなぁ……。

障害者が“生きる権利”において差別され、不利益をこうむっている事実を
女性が家庭において差別され、不利益をこうむっている事実と並べてみたら、

社会での男女平等だけを求めすぎたために、
家庭での差別はそのまま温存されて、社会での悪平等を引きかぶることになった
フェミニズムの失敗と同じように、

“生きる権利”における差別と不利益は温存されたまま
政治的正しさとしての“死ぬ権利”での平等を求めても、それは結局、
生きることにおいても死ぬことにおいても障害者が差別され、
さらなる不平等と不利益をこうむることにしか繋がらないんじゃないだろうか。



2010.01.19 / Top↑
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