こうした考察を経て、では、どういう規制が望ましいのか、について
Dr. Qはだいたい、以下のような提言をしています。
Dr. Qはだいたい、以下のような提言をしています。
障害者に健常者と同じ医療を保障するADA(米国障害者法)違反となるので
これらの医療介入それ自体を法律で禁じることはできない。
そこで、やはり第三者の検討モデルを導入し、
親以外の第三者が本人の利益を代理するという方法をとり、
なおかつ親の提案が承認されるための明確な基準が作られるのがよいのではないか。
第三者の検討で親の要望が許容される条件としては、たとえば
1.その介入が子どもの最善の利益にかなう
2.より侵襲度の低い選択肢では目的を達せられない
3.介入のリスクが非治療的研究で許される最小限のリスクを超えない
4.子どもが成人するまで待てない
5.同じ目的を達成する一時的な解決策がない
障害者アドボケイトへの通知、本人のアドボケイトの任命
倫理委の検討、裁判所の同意などに触れた
WPASと子ども病院との合意をモデルとして議論をスタートしてはどうか。
これらの医療介入それ自体を法律で禁じることはできない。
そこで、やはり第三者の検討モデルを導入し、
親以外の第三者が本人の利益を代理するという方法をとり、
なおかつ親の提案が承認されるための明確な基準が作られるのがよいのではないか。
第三者の検討で親の要望が許容される条件としては、たとえば
1.その介入が子どもの最善の利益にかなう
2.より侵襲度の低い選択肢では目的を達せられない
3.介入のリスクが非治療的研究で許される最小限のリスクを超えない
4.子どもが成人するまで待てない
5.同じ目的を達成する一時的な解決策がない
障害者アドボケイトへの通知、本人のアドボケイトの任命
倫理委の検討、裁判所の同意などに触れた
WPASと子ども病院との合意をモデルとして議論をスタートしてはどうか。
ところで、
この論文の冒頭にある事件のまとめは詳細で
この複雑な事件と論争の全貌を、なるべく手近に知りたい方にはお勧めですが、
いくつかQuellette論文の事実誤認を指摘しておくと、
・部外者を含めた病院の通常の倫理委が検討したと誤解している
(実際は部外者を除外した「特別倫理委」だった)
・「その倫理委には利益の衝突がなかった」と誤解して書いている
(もしAshleyの父親がMicrosoftの役員だったら衝突があるというのが当ブログの指摘)
・ホルモン療法の期間が1年だったと誤解している
(「1年ちょっと」は06年論文のウソで、実際は2年半)
・医師らの論文と親のブログの内容の祖語に気付いていない
・WPASとの合意を病院が遵守していないことに気づいていない
(実際は部外者を除外した「特別倫理委」だった)
・「その倫理委には利益の衝突がなかった」と誤解して書いている
(もしAshleyの父親がMicrosoftの役員だったら衝突があるというのが当ブログの指摘)
・ホルモン療法の期間が1年だったと誤解している
(「1年ちょっと」は06年論文のウソで、実際は2年半)
・医師らの論文と親のブログの内容の祖語に気付いていない
・WPASとの合意を病院が遵守していないことに気づいていない
一か所だけ、思わず「ぶははっ」と吹いてしまった箇所があって、
それは、このケースでは親に虐待の意図がなかったことは
倫理委の検討を求めていることからも明らかだと書いた下りで、
「この親なら倫理委が承認しなかったら、その不承認に従ったであろう」と書いてあること。
それは、このケースでは親に虐待の意図がなかったことは
倫理委の検討を求めていることからも明らかだと書いた下りで、
「この親なら倫理委が承認しなかったら、その不承認に従ったであろう」と書いてあること。
――いえいえ。それは違います。
そんな生易しい親ではなかったからこそ、
病院は特別倫理委員会を招集して、冒頭で父親当人にプレゼンまでさせ、
「ほら、親が誰なのか、よく見てからモノを言え」と、関係職員にプレッシャーをかけ
批判・反論を封じなければならなかったんじゃないでしょうか?
病院は特別倫理委員会を招集して、冒頭で父親当人にプレゼンまでさせ、
「ほら、親が誰なのか、よく見てからモノを言え」と、関係職員にプレッシャーをかけ
批判・反論を封じなければならなかったんじゃないでしょうか?
Ashleyの主治医だった発達小児科医のDr. CowenがSalonの取材に対して
「あなた方は間違っていると、この家族に向かって言うなんて不可能でした」と
(たぶん言外に「この家族に」の部分に傍点をつけて)証言したように。
「あなた方は間違っていると、この家族に向かって言うなんて不可能でした」と
(たぶん言外に「この家族に」の部分に傍点をつけて)証言したように。
倫理委での検討を親が謙虚に求めたわけではなくて、
(あの父親の性格からして「私に自分で説明させろ」と言った可能性はあるでしょうが
もともと倫理委検討の必要の判断をするのは患者サイドではなく医師サイドでしょう)
(あの父親の性格からして「私に自分で説明させろ」と言った可能性はあるでしょうが
もともと倫理委検討の必要の判断をするのは患者サイドではなく医師サイドでしょう)
あの特別倫理委に限って言えば、
職員からの批判・反対を封じるための場として
(2年も表に出なかったことを思うと、かん口令を敷くための場としても?)
病院にとってこそ必要だったんじゃないかと私は思うし、
職員からの批判・反対を封じるための場として
(2年も表に出なかったことを思うと、かん口令を敷くための場としても?)
病院にとってこそ必要だったんじゃないかと私は思うし、
だから、最初から承認という結論ありきで
「承認しなかったら」という仮定はありえないだろうとも思うのですが、
「承認しなかったら」という仮定はありえないだろうとも思うのですが、
でも、もし、あの特別倫理委が「やっぱり無理です。できません」と回答していたら、
いったい、どういうことになっていたんだろう……。
いったい、どういうことになっていたんだろう……。
今、Diekema、Fost両医師が議論にもならない奇怪なヘリクツをこねまわしてでも
何が何でも”Ashley療法”の流布を目指し、せっせと奮闘している背景に思いを致すと、
まさか、Ashley父がおとなしく「その不承認に従った」とも思えないのですが……。
何が何でも”Ashley療法”の流布を目指し、せっせと奮闘している背景に思いを致すと、
まさか、Ashley父がおとなしく「その不承認に従った」とも思えないのですが……。
とても読みごたえのある論文でした。
改めて、科学とテクノロジーの飛躍的な発展のおかげで
これまでできなかったことができるようになり、
それにつれて変貌する価値観によって
人類が長い時間をかけて知恵を絞り、法律や文化を通じて
よりよい社会を作るために積み重ねてきた営為が脅かされていること、
これまでできなかったことができるようになり、
それにつれて変貌する価値観によって
人類が長い時間をかけて知恵を絞り、法律や文化を通じて
よりよい社会を作るために積み重ねてきた営為が脅かされていること、
まさに、その脅威を挟んで
2つの生命倫理の潮流が対峙していることを感じました。。
2つの生命倫理の潮流が対峙していることを感じました。。
Ashley事件は、やはり、ただ重症児一人の問題ではなく、
また“Ashley療法”だけの問題でも、障害児・者だけの問題でもなく、
むしろ、そうした今の時代を象徴して、
また“Ashley療法”だけの問題でも、障害児・者だけの問題でもなく、
むしろ、そうした今の時代を象徴して、
「無益な治療」論や「死の自己決定権」にまで通底していく事件なのだと
当ブログが当初から直感してきたことは、やはり図星だったなぁ……と改めて痛感。
当ブログが当初から直感してきたことは、やはり図星だったなぁ……と改めて痛感。
実は2007年の春頃に、
Ashley事件を日本でも広く知ってもらいたいと考えて、
ある出版社に企画を持ち込んだことがありました。
Ashley事件を日本でも広く知ってもらいたいと考えて、
ある出版社に企画を持ち込んだことがありました。
その時の出版社の返答は「所詮は海の向こうの話に過ぎない」という、つれないものでした。
でも、その後の数年間で、日本社会の空気の中にも、
「どうせ障害児・者」「どうせ高齢者」「どうせ自立できない怠け者」と
人への敬意を値引きする空気は着実に広がってきたし、
「どうせ障害児・者」「どうせ高齢者」「どうせ自立できない怠け者」と
人への敬意を値引きする空気は着実に広がってきたし、
フクヤマのいう our human essence は
日本でもじわじわと浸食され始めているのではないでしょうか。
日本でもじわじわと浸食され始めているのではないでしょうか。
2010.01.15 / Top↑
| Home |