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日本のマスコミについては、日ごろから、
ある種類の海外ニュースについては報道しないなぁ……という不思議を感じていて、

たとえば、大晦日の米国モンタナ州の自殺幇助合法化なども、
現在、厚労省で終末期医療のあり方について懇談会が議論している最中でもあり、
日本でも報道されてしかるべき大ニュースだと私は思ったのですが、
どうやら共同通信が地味な記事を打ったのみだったようす。

(私自身は検索しても、この共同通信の記事すら見つけられなくて
人に教えてもらって知ったので、まだ気づいていない記事もあるのかもしれませんが
それほど地味だったことは間違いないでしょう)

なんだか、やっぱり……なぁ……というのを引きずっていたところ、
昨夜なんとなく見た深夜のZEROというニュース番組で、
小沢氏の後援会事務所の土地購入資金問題で、何とも不可解な解説を聞いて言葉を失った。

昨日の強制捜査など一連の出来事を報じるVTRが終わってカメラがスタジオに戻った際に、
キャスターの男性が「なぜこの問題に我々国民が注目しておく必要があるかというと……」と
フリップをとりだした。

真中に描かれたゼネコンを挟んで、右側に政治家、左側に国民が描かれている。
そして、ゼネコンから政治家に札束が1つ。
国民からゼネコンに札束が4つ、それぞれ渡っていく矢印。

そこで、「これは仮定の話ですが、もしもこういうことが行われていたとしたら」と
前置きしたうえで、キャスターの男性がフリップを使って行った解説は
だいたい、以下のような内容。

ゼネコンが何かの仕事を請け負ってやる時には、
その代金は、このように(4つの札束を指す)我々国民の税金で支払われます。

ところが、その陰で、
もしも便宜を図ってもらう目的でゼネコンから政治家にお金が渡されていたとしたら、
そこでゼネコンが使ったお金は、こちらの代金に跳ね返るわけです。

つまり、こちらで政治家に渡った、この金額分が(札束1つを指す)なかったら、
国民がゼネコンに支払う金額も、このように(一番上の札束に赤でバッテンがつく)
その金額分、少なくて済んだことになり、
その金額分を例えば福祉などに使うことができたはずなのです。

しかし、お金がゼネコンから政治家に渡ったために
国民は払わなくてもいい余分な税金をゼネコンに払うことになり、
福祉には使えなくなってしまったのです。

このように、これは税金の私的流用ということになるので、
我々としては、重大な関心を持って眺めていく必要があるのです。

もちろん、贈収賄が回りまわって国民の税金の無駄遣いにつながる構図そのものを
否定するつもりはありません。

しかし「これは税金の私的流用ということになるので」と言うのは、
解説として、あまりにも不正確ではないでしょうか。

本当に「収賄」と「税金の私的流用」の区別ができない人物が記事を書いたのか。
それをそのまま読むキャスターも、疑問に思わないほど鈍いのか。

それとも、
回りまわって国民の税金を余分に使わせることになったのだから、
わいろを受け取った政治家が私的に使う目的で直接的に国民の税金に手をつけたも同然だし、
“同然”である以上「収賄とは、すなわち税金の私的流用」なのだと解釈したとでも?

まさか「収賄」とするよりも「税金の私的流用」という方が、
いかにも自分の私利私欲で政治家が公金に手をつけたかのように
直接的な視聴者の憤りを掻き立てることができて面白いとでも?


考えてみれば、そのほかにも不思議はいくつもあって、
先の総選挙前の西松建設問題の際も、
検察の強引な動き方の怪や先走った報道の怪が指摘されていたような気がするけど、

いまだ捜査段階で事実関係が確認されていない事柄に対しては
以前のメディアは、もう少し慎重に言葉を選んで、
言うならば「推定無罪」原則にのっとって報道していたのでは?

いつから、こんなふうに「仮定の話ですが、もしも行われていたとしたら」と
その事実があったかのように先走った、しかも不正確な解説をして
(図や写真の使用は無意識の潜入感植え付けにつながりやすいと思う)
国民の一定の感情を誘導するような報道をするようになったのか。

そして、とても耳についた、ことさらな「福祉」の繰り返し。

「本来なら福祉に使えるはずの国民の税金がこんなに無駄にされていること」への怒りなら
他にも言及すべき対象はたくさんあるはずなのだけど、
この番組はそれらについても「福祉に使えたはず」を
いちいち連発しているのかしら。

メディアの不正確な解説で煽られた国民感情が一定のところまで行くと、
その国民感情によって、なんとなく事実であったかのような幻想が先行して、そのうち、
それが事実であったかどうかすら意味がなくなってしまうんじゃないか……というような
そんな不気味を感じると同時に、

このところ、ずっと考えているAshley事件の背景とも思い合わせて、
誰かの意図がメディアの報道姿勢や内容に影響を与えるということが
(私はA事件で一番恐ろしいのは“知っている”CNNが黙したことだと考えています)
彼の地だけでなく、もしかしたら我が国でも現に起こっている可能性について
あれこれと考えていたら、

いったい、この世の中は、これからどうなっていくんだろう……と
ちょっと呆然となってしまった。
2010.01.15 / Top↑
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