といっても、
最初のLeaphart判事の書いた部分のみで、あとは気力が続かず挫折。
最初のLeaphart判事の書いた部分のみで、あとは気力が続かず挫折。
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まず、今回の判決文から、これまでの状況を以下に整理しておくと、
白血病の末期で抗がん剤も効果がなくなり、治癒の見込みもなく、
合併症が多発して常に苦痛があったRobert Baxter氏が
4人の医師と、Compassion & Choiceと共に
(合法化ロビーのC&Cが噛んでいるわけですね)
意思決定能力があるターミナルな患者の死を幇助した医師にMT州が殺人罪を適用しているのは、
個人の尊厳とプライバシーを保障する州憲法の条項違反だと訴えたもの。
2008年12月に地方裁判所はその訴えを認め、さらに
患者には致死薬を手に入れるために医師の幇助を利用することも可とした。
その上で、その薬を飲むかどうかを判断するのは患者自身に限る、
また患者の権利には、医師が殺人罪に問われないための保護も含まれる、とした。
(Baxer氏は、この地方裁判所の判決が出た日に死去)
それに対して、州当局が上訴したのが今回の最高裁の裁判だったわけです。
判決文は、まず、
意思決定能力があるターミナルな状態の患者が
自殺幇助を受けることも含めて尊厳のある死に方をする権利が
州憲法で保障された尊厳とプライバシー権に当たるかどうかについては
最高裁として判断することを避け、憲法レベルではなく州法レベルで解決を模索した、と。
意思決定能力があるターミナルな状態の患者が
自殺幇助を受けることも含めて尊厳のある死に方をする権利が
州憲法で保障された尊厳とプライバシー権に当たるかどうかについては
最高裁として判断することを避け、憲法レベルではなく州法レベルで解決を模索した、と。
論点は主に2つで、
モンタナでは自殺そのものは違法行為ではなく
この場合、罪に問われるのは医師のみということになるとしたうえで、
モンタナでは自殺そのものは違法行為ではなく
この場合、罪に問われるのは医師のみということになるとしたうえで、
①同意条項によって、医師が患者の意思に逆らって延命した場合には罪に問われるのであれば、
逆に患者の意思によって自殺幇助を行うことも許されるのかどうか。
逆に患者の意思によって自殺幇助を行うことも許されるのかどうか。
②それとも、結果的に害をなす行為は public policy に反するので、
この場合、患者の意思は無効とされるべきか。
この場合、患者の意思は無効とされるべきか。
州法では患者の同意が無効とされる例外が4つ決められており、
a. 法的に同意能力のない人が犯罪とされている行動に同意を与えた場合
b.若年、知的障害、酒や薬物のために、犯罪とされている行為の性質や有害性について合理的な判断ができない人の同意
c.力ずくだったり、強要したり騙して同意させた場合。
d.同意があったとしても、その行為やその結果として起こる害を許すことがpublic policyに反する場合。
a. 法的に同意能力のない人が犯罪とされている行動に同意を与えた場合
b.若年、知的障害、酒や薬物のために、犯罪とされている行為の性質や有害性について合理的な判断ができない人の同意
c.力ずくだったり、強要したり騙して同意させた場合。
d.同意があったとしても、その行為やその結果として起こる害を許すことがpublic policyに反する場合。
この最後のd.の例外に当たるかどうか、ということ。
この点について、バーで酔って暴れた人をめぐる判例を引き、
またWashington州での public policy の考え方にも言及しつつ、
この例外は、公共の平穏を乱し、他者に危害を与える行為の場合に適用されるものと判断。
またWashington州での public policy の考え方にも言及しつつ、
この例外は、公共の平穏を乱し、他者に危害を与える行為の場合に適用されるものと判断。
医師の自殺幇助は単に手段を提供するもので
最終的な行為に関わってもいなければ医師が最終決断をするわけでもない。
最終的な行為に関わってもいなければ医師が最終決断をするわけでもない。
……と述べた後の部分が私は個人的にまったく気に食わないので、
特に以下に引っ張っておくと、
特に以下に引っ張っておくと、
Each stage of the physician-patient interaction is private, civil, and compassionate. The physician and terminally ill patient work together to create a means by which the patient can be in control of his own mortality. The patient’s subsequent private decision whether to take the medicine does not breach public peace or endanger others.
医師と患者のやり取りはどの段階でもプライベートで、礼儀正しく、思いやりに満ちたものである。医師とターミナルな患者は協働して、患者が自らの限られた命をコントロールするための手段を創造するのである。その後、その薬を飲むかどうかを患者自身が決定することは、公共の平穏を乱すわけでもなければ他者を危険に陥れるわけでもない。
医師と患者のやり取りはどの段階でもプライベートで、礼儀正しく、思いやりに満ちたものである。医師とターミナルな患者は協働して、患者が自らの限られた命をコントロールするための手段を創造するのである。その後、その薬を飲むかどうかを患者自身が決定することは、公共の平穏を乱すわけでもなければ他者を危険に陥れるわけでもない。
(アンタはCompassion & Choice の回し者か……?
自殺幇助合法化ロビーや“科学とテクノの簡単解決万歳”文化代弁者の言うことには
「患者―医師」または「患者―家族」の関係の麗しきステレオタイプが付きまとっている。
例えばAshley事件で医師が“親の愛”の大安売りをやったように。
それから移植医と生殖補助医療の医師が突出して患者の苦しみに共感的であるように。)
自殺幇助合法化ロビーや“科学とテクノの簡単解決万歳”文化代弁者の言うことには
「患者―医師」または「患者―家族」の関係の麗しきステレオタイプが付きまとっている。
例えばAshley事件で医師が“親の愛”の大安売りをやったように。
それから移植医と生殖補助医療の医師が突出して患者の苦しみに共感的であるように。)
モンタナ最高裁の判決は、その後、様々な関連の州法に触れて議論を展開した後に、
いずれも医師の自殺幇助行為がpublic policy(公序良俗)に反するとは規定しない、と結論する。
いずれも医師の自殺幇助行為がpublic policy(公序良俗)に反するとは規定しない、と結論する。
ここらあたりの論理は、私の大まかな理解では、
自殺が違法ではないのなら医師の幇助は単なる手段の提供であって、
その手段を使うかどうかの判断は本人のものだから違法じゃないだろう、というのと
「モンタナ・ターミナルな人の権利法」の理念は、そもそも、
終末期の患者自身の意思を尊重してあげましょう、ということなのだし、
どこにも自分で死に時を決めるのはpublic policyに反するとも規定されていないし、
18歳以上の健全な精神の持ち主に延命治療差し控えや中止の決定権を認めているし
医師にもそれによって差し控えや中止の行為を行うことが認められて
中止という直接行為が免罪されているし、
「(延命を)中止する」のも「(致死薬を)与える」のも同じく
この法律で患者が求めても良いと認められた“行為”である、と考えたって良いだろう、と。
(これ、生命倫理でよく出てくる、あの omission とcommissionですね)
その手段を使うかどうかの判断は本人のものだから違法じゃないだろう、というのと
「モンタナ・ターミナルな人の権利法」の理念は、そもそも、
終末期の患者自身の意思を尊重してあげましょう、ということなのだし、
どこにも自分で死に時を決めるのはpublic policyに反するとも規定されていないし、
18歳以上の健全な精神の持ち主に延命治療差し控えや中止の決定権を認めているし
医師にもそれによって差し控えや中止の行為を行うことが認められて
中止という直接行為が免罪されているし、
「(延命を)中止する」のも「(致死薬を)与える」のも同じく
この法律で患者が求めても良いと認められた“行為”である、と考えたって良いだろう、と。
(これ、生命倫理でよく出てくる、あの omission とcommissionですね)
つまり、延命治療の差し控えや中止を決断するのも
最終的に決断して致死薬を飲む行動に出るのも患者自身である以上、
医師の行為が omission でも commission でも、そこに違いはない、という論理なのでしょう。
最終的に決断して致死薬を飲む行動に出るのも患者自身である以上、
医師の行為が omission でも commission でも、そこに違いはない、という論理なのでしょう。
で、この後、Leaphart判事は、
判事の間で出た反対意見をひとつずつ挙げてはニベもなく潰していって、最終的に
州法のどこにも医師による自殺幇助がpublic policyに反するという規定はない、と
みんなで結論したんだ……と述べて終わる。
判事の間で出た反対意見をひとつずつ挙げてはニベもなく潰していって、最終的に
州法のどこにも医師による自殺幇助がpublic policyに反するという規定はない、と
みんなで結論したんだ……と述べて終わる。
あれこれ“いかにも”な言葉で書いてありますが、
私には、ぶっちゃけ、以下のように聞こえました。
私には、ぶっちゃけ、以下のように聞こえました。
「自殺は違法じゃないし、最後に薬を飲むのは本人なんだから、いいじゃん」
「死にたいという人に死ねる薬を渡したからといって、
他の人に危害や迷惑をかけるわけじゃないんだから、いいじゃん」
他の人に危害や迷惑をかけるわけじゃないんだから、いいじゃん」
「本人意思で延命治療を停止したって死ぬんだから、
本人意思で死ねる薬を渡して死ぬのだって要は同じことじゃん」
本人意思で死ねる薬を渡して死ぬのだって要は同じことじゃん」
……あー、でもねー、
個々人の権利の問題としてだけ議論して、これを認めちゃうってことはさぁ、
廻りまわって社会全体に影響するわけじゃん?
個々人の権利の問題としてだけ議論して、これを認めちゃうってことはさぁ、
廻りまわって社会全体に影響するわけじゃん?
でもって、長期的には、ちょっとずつ、
「自分の意思なら死なせてあげてもいいんだ」
「苦しい状態のまま生きていることは尊厳がないんだ」
「苦しければ死ぬのは自分の勝手なんだ」
「社会や家族に迷惑をかけないためにも、
こういう状態になったら自ら望んで死んだ方がいいんだ」
こういう状態になったら自ら望んで死んだ方がいいんだ」
……みたいな意識や価値観の変容をもたらす可能性があるとしたら、
それは、間接的には public policy に反することにならないのかなぁ……?
それは、間接的には public policy に反することにならないのかなぁ……?
そういう対象者像の混乱とか、論理の飛躍は、英国の自殺幇助議論では起こりまくっていて、
「障害を負ったら死んだ方がマシ」だとか「家族に迷惑かけたくなくて死ぬのは美しい」みたいな意識が
そこには着実に混じりこんでいっているんだけど?
「障害を負ったら死んだ方がマシ」だとか「家族に迷惑かけたくなくて死ぬのは美しい」みたいな意識が
そこには着実に混じりこんでいっているんだけど?
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途中で力尽きたので、その他の判事さんたちの書いた部分はほとんど読んでいませんが、
たぶんNelson判事の書いた部分だと思うのだけど、
43ページから51ページにかけての「人間の尊厳とは何か」という部分は(たぶん)圧巻。
これは、できたら改めてじっくり読みたい文章かも。
43ページから51ページにかけての「人間の尊厳とは何か」という部分は(たぶん)圧巻。
これは、できたら改めてじっくり読みたい文章かも。
collectively という言葉が繰り返し使われていることが私には印象的で、
アルグレイブ捕虜収容所で裸の人間がピラミッドを作らされている虐待の場面を見たら、
なぜ我々はcollectivelyに理屈抜きで不快を覚えるのか、
それは人間に本来的にある尊厳が侵されていることを
我々がcollectivelyに感じとるからではないのか……というところあたり、
ちょろっと眺めてただけでも、迫力があった。
なぜ我々はcollectivelyに理屈抜きで不快を覚えるのか、
それは人間に本来的にある尊厳が侵されていることを
我々がcollectivelyに感じとるからではないのか……というところあたり、
ちょろっと眺めてただけでも、迫力があった。
Diekema医師やFost医師、Ashley父に読ませてやりたいような文章ですが、ただ、ここでは
だからこそ、死に直面した人に死の自己決定権を保障しようという論理になるみたいで
そのあたりの繋がり方に、こっちは、ちょっと頭がうろうろと混乱する。
だからこそ、死に直面した人に死の自己決定権を保障しようという論理になるみたいで
そのあたりの繋がり方に、こっちは、ちょっと頭がうろうろと混乱する。
Collective という言葉を使うのなら、
個々人の立場だけで認めることが社会全体、人類全体に及ぼす長期的な影響にも
もうちょっと思いを馳せて考えてみよーよ……と、不遜にも、
米国モンタナ州最高裁の判事さんに向かって、つぶやいてみる。
個々人の立場だけで認めることが社会全体、人類全体に及ぼす長期的な影響にも
もうちょっと思いを馳せて考えてみよーよ……と、不遜にも、
米国モンタナ州最高裁の判事さんに向かって、つぶやいてみる。
2010.01.05 / Top↑
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