今年2月、英国BBCのTVキャスターが自分の番組の中で
かつてエイズで苦しんでいた恋人の男性を病院で窒息させて殺したと
“慈悲殺”を告白、大きな騒ぎになった事件で、
BBCの司会者が番組で“慈悲殺”を告白(2010/2/16)
番組で恋人の“慈悲殺”を告白したBBCのキャスター、逮捕される(2010/2/17)
TVで“慈悲殺”告白のGosling氏、続報(2010/2/18)
その告白の直後にGosling氏は逮捕されたが、警察が捜査したところ、
あの告白は偽りで、そんな事実はあり得ない、とのエビデンスが揃ったとのこと。
ウソの告白で警察に1800時間もの無駄な仕事をさせ、
45000ドルも無駄に支出させたことに対して
90日間の執行猶予のついた有罪判決を受けた。
どうも、近く本を出版することになっていて、
その売り込みのために話題つくりをしたかったのではないかとか、
TVキャスターとして切れかけた賞味期限の延期を狙ったのではないか、
などの憶測も流れていたらしい。
本人は、そういう噂を否定しつつも、
「多くの人から、いろいろと打ち明け話を聞いているうちに、
つい言ってしまった、申し訳ない」と。
特に、死んだかつての恋人だった男性の家族を傷つけたことと
警察を無駄に働かせてしまったことについてお詫び。
弁護士も、自分が枕で顔を覆って殺してやったというのは
恋人の死についてGosling氏が長年抱き続けてきた「幻想」に過ぎない、と。
Ray Gosling admits wasting police time over TV murder confession
The Guardian, September 14, 2010
いやはや。
これだけ自殺幇助合法化議論の嵐が吹きすさぶと、
“芸能界”では、こういう人も出てくるわけで。
でも、
あんなに苦しんで死ぬのだったら、
あの時に、いっそ医師にちょっと出て行ってもらって、
この手に枕を握って……と、
この人がかつての恋人の死に対する悔いを
心にずっと抱えて生きてきたのだということには、
どこか、こちらの心がしん、となるようなものがある。
私自身も、かつて同じように「こんなに苦しむくらいなら、いっそ」と
障害があるというだけで基本的な医療もしてもらえず苦しむ娘を前に
Gosling氏と同じ夢想に駆り立てられたことがあるから、なのかもしれない。
あの時、娘があのまま死んでしまっていたら、
私もGosling氏と同じ深い悔いと「幻想」を抱えて今を生きていたかもしれない。
でも、たぶん、
あの時、自分には恋人を苦しみから助けてやることが出来たのに、と
死んだ恋人への深い悔いを抱えたまま生きていることと
実際に恋人の顔に枕を押し付けて殺した感触を
ずっと手に記憶して生きていることとは、
何かが決定的に違うんじゃないか、と思う。
例え、そのことが誰にも知られず、罰せられることがなかったとしても、
そういう表面的なこととは別に、何か、もっと深いところで
何かが決定的に違うんじゃないかという気がする。
何が違うのだろう……。
うまく言えないのだけれど、
たぶん、そのことが、その人の魂とか品性とか人間性とかヒューマニティとか
その人がその人であってその人以外の何ものでもないところにある
なにか「善きもの」が、失われたり損なわれたり傷ついたりしないために、
人には、おのずと後者であるよりも前者であろうとする本能みたいなものが
備わっているんじゃないだろうか。
それが、人を殺すことには理屈を超えた抵抗感となっているからこそ、
その日、Gosling氏も何度も頭では考えたのだろうけれども結局は実行できず、
頭に思い描いた「その場面」を、その後、ずっと「幻想」として
恋人の苦痛をどうしてやることもできなかった悔いと共に
抱え続けてきたんじゃないのだろうか。
誰かに対する深い悔いや負い目をもって生きるということだって、
案外に大切な、尊いことだったりもするんじゃないだろうか。
少なくとも、“慈悲殺”などという言葉で、後者の人に対して、
あなたは殺すことで苦しみから解放してあげたのだから、
美しい善い行いをしたのであり、悔いも負い目も忘れなさい、と
皆で寄ってたかって免罪するような人間社会であってはいけないのでは――?
そんなふうにして、
それぞれが自分の中に守ろうと努力すると同時に、
世の中全体としても守っていこうとすべき、
私たちの中に共有されている何か「善いもの」……。
そういうものは、やっぱり、あって、
それと「尊厳」とは関わっているような気がする。
そういうことを前に考えてみたのが、以下のエントリー。
MN州の公式謝罪から「尊厳は無益な概念」を、また考えてみる(2010/6/17)
かつてエイズで苦しんでいた恋人の男性を病院で窒息させて殺したと
“慈悲殺”を告白、大きな騒ぎになった事件で、
BBCの司会者が番組で“慈悲殺”を告白(2010/2/16)
番組で恋人の“慈悲殺”を告白したBBCのキャスター、逮捕される(2010/2/17)
TVで“慈悲殺”告白のGosling氏、続報(2010/2/18)
その告白の直後にGosling氏は逮捕されたが、警察が捜査したところ、
あの告白は偽りで、そんな事実はあり得ない、とのエビデンスが揃ったとのこと。
ウソの告白で警察に1800時間もの無駄な仕事をさせ、
45000ドルも無駄に支出させたことに対して
90日間の執行猶予のついた有罪判決を受けた。
どうも、近く本を出版することになっていて、
その売り込みのために話題つくりをしたかったのではないかとか、
TVキャスターとして切れかけた賞味期限の延期を狙ったのではないか、
などの憶測も流れていたらしい。
本人は、そういう噂を否定しつつも、
「多くの人から、いろいろと打ち明け話を聞いているうちに、
つい言ってしまった、申し訳ない」と。
特に、死んだかつての恋人だった男性の家族を傷つけたことと
警察を無駄に働かせてしまったことについてお詫び。
弁護士も、自分が枕で顔を覆って殺してやったというのは
恋人の死についてGosling氏が長年抱き続けてきた「幻想」に過ぎない、と。
Ray Gosling admits wasting police time over TV murder confession
The Guardian, September 14, 2010
いやはや。
これだけ自殺幇助合法化議論の嵐が吹きすさぶと、
“芸能界”では、こういう人も出てくるわけで。
でも、
あんなに苦しんで死ぬのだったら、
あの時に、いっそ医師にちょっと出て行ってもらって、
この手に枕を握って……と、
この人がかつての恋人の死に対する悔いを
心にずっと抱えて生きてきたのだということには、
どこか、こちらの心がしん、となるようなものがある。
私自身も、かつて同じように「こんなに苦しむくらいなら、いっそ」と
障害があるというだけで基本的な医療もしてもらえず苦しむ娘を前に
Gosling氏と同じ夢想に駆り立てられたことがあるから、なのかもしれない。
あの時、娘があのまま死んでしまっていたら、
私もGosling氏と同じ深い悔いと「幻想」を抱えて今を生きていたかもしれない。
でも、たぶん、
あの時、自分には恋人を苦しみから助けてやることが出来たのに、と
死んだ恋人への深い悔いを抱えたまま生きていることと
実際に恋人の顔に枕を押し付けて殺した感触を
ずっと手に記憶して生きていることとは、
何かが決定的に違うんじゃないか、と思う。
例え、そのことが誰にも知られず、罰せられることがなかったとしても、
そういう表面的なこととは別に、何か、もっと深いところで
何かが決定的に違うんじゃないかという気がする。
何が違うのだろう……。
うまく言えないのだけれど、
たぶん、そのことが、その人の魂とか品性とか人間性とかヒューマニティとか
その人がその人であってその人以外の何ものでもないところにある
なにか「善きもの」が、失われたり損なわれたり傷ついたりしないために、
人には、おのずと後者であるよりも前者であろうとする本能みたいなものが
備わっているんじゃないだろうか。
それが、人を殺すことには理屈を超えた抵抗感となっているからこそ、
その日、Gosling氏も何度も頭では考えたのだろうけれども結局は実行できず、
頭に思い描いた「その場面」を、その後、ずっと「幻想」として
恋人の苦痛をどうしてやることもできなかった悔いと共に
抱え続けてきたんじゃないのだろうか。
誰かに対する深い悔いや負い目をもって生きるということだって、
案外に大切な、尊いことだったりもするんじゃないだろうか。
少なくとも、“慈悲殺”などという言葉で、後者の人に対して、
あなたは殺すことで苦しみから解放してあげたのだから、
美しい善い行いをしたのであり、悔いも負い目も忘れなさい、と
皆で寄ってたかって免罪するような人間社会であってはいけないのでは――?
そんなふうにして、
それぞれが自分の中に守ろうと努力すると同時に、
世の中全体としても守っていこうとすべき、
私たちの中に共有されている何か「善いもの」……。
そういうものは、やっぱり、あって、
それと「尊厳」とは関わっているような気がする。
そういうことを前に考えてみたのが、以下のエントリー。
MN州の公式謝罪から「尊厳は無益な概念」を、また考えてみる(2010/6/17)
2010.09.16 / Top↑
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