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週末、安楽死を巡る某シンポを聞きに行ってきました。

まだ頭がちゃんと整理できていないのですが、
聞きながら考えたことを未整理のまま以下に。

・痛み・苦痛があることは安楽死の必要条件だとすることに同意か、という点について
かなり時間を割いて議論されていたのだけど、

(問題提起そのものの不毛さはパネリストの方々も言っておられたのですが、それはともかく)

ターミナルに至る前段階の医療一般において、
患者の痛み・肉体的精神的苦痛に対する医療職の人たちの感度は、
そんなに高いわけではないように個人的には感じてきたので、
そこのところは置き去りにしたまま終末期の痛みだけが、
あるとかないとか熱心に議論されることに違和感があった。

ターミナルな患者さんの中には、
長い医療との付き合いを経てそこに至る人も多いのだから、
その時点で患者が「死にたい」と口にする言葉の背景には、
その人がそれまでの医療との付き合いの中で重ねてきた
諸々の体験やそれにまつわる多くの思いが積み重ねられている。

特に口で「痛い」と言えない障害児・者の痛みに対しては、
障害への無知・無理解・偏見から十分な対応がされていない可能性は
英国Mencapが医療オンブズマンに訴えた事例からも、
私の個人的な体験や身近な障害児・者の発言からも想像される。

あのシンポの場におられた医師の方々も会場から発言された医師の方々も
意識も倫理観も高くて、そんなことはありえないだろうけれど、必ずしも
現場にはそういう医師ばかりではないので、

様々な体験を重ねながら医療と長く付き合ってくる過程で
どれほどの信頼関係がそこに築かれてきたかということが
終末期にその患者が医療に何をどこまで期待するかということにも
実はとても大きく関わっているんじゃないだろうか。

ターミナル以前の闘病からそのずっと後の「良い死に方」まで
患者にとっての時間は切れ目なく連続している。

患者にとって、どのような死に方をしたいか、という問題は
「病気や障害と付き合いながらどのように生きたいか」の問題と連続して
あくまでも、その先に考えられるもの。

病み、闘病し、やがて不幸な転機をたどらざるをえなくなる過程で、
病むこと、衰えていくこと、能力を失っていくことを巡る患者の肉体的・精神的苦痛を
その人の暮らしや人生の一回性の中で医療(社会かも?)がどう受け止め、どう支えていくのか、ということと、
終末期に「QOLを保って良い死に方を」ということとは、
本当は地続きの話なんじゃないのかぁ……という気がするのだけど
そこのところが断絶して”自発的”積極的安楽死が議論されていく感じ、
そこのところが、そこはかとなくアベコベになっている感じがする。

・病み、病と付き合いながら生きて、やがて死んでいく……という
患者にとっては繋がっている、そのプロセスを医療だけで支えることはできない。

それなら、介護を含めて、もっと広く地域の様々な資源の連携の中で考えると、
安楽死を巡る諸々にも、また全然違う可能性が広がってくる……ということは
案外にあるんじゃないだろうか。

でも、アカデミックな人たちは一般に介護の話には興味が薄いような気がする。
あれは、何故なんだろう。

・例えば何人かのパネリストが「やるべきこと、できることを
ちゃんと手順を踏んですべてやった上で、それでもなお」という言い方をされて、
「安楽死は、あくまでも最後の最後の手段として」という慎重姿勢そのものは
英米のメディアでの苛烈な議論を読んでいる身には全くありがたく温かく聞こえたのだけど、

「やるべきこと、できること」の質と量とが医療の中で一定水準を担保されることと同時に
「やるべきこと、できること」が「病院で医療にできること」だけではなく
「地域の介護と医療が連携して出来ること」にまで広がってもらえると、
患者の「それでもなお死にたい」という言葉にも、その周辺の心理にも
今よりも違ってくる可能性が、まだまだあるのでは?

・これは、会場の、緩和ケアと地域医療をやっておられるドクターの
「最近、反胃ろうキャンペーンが行われているような気がするけど、
実際には胃ろうによってQOLが改善するケースだってあるし、
延命効果があるケースもあり、一律にダメだとはいえない」という発言にも
たぶん通じていくことで、

介護と医療の多職種の連携が十分にある地域を想定して
これまでの生活とその人の人生の一回性の中で支え切り看取る覚悟の中で
「口から食べられなくなったら死」ということと、
病院という場だけを想定してそう言うこととでは、話がまるで違う。

意図が通じず誤解されがちだったけど、この話は、以下の2つなどで書きました。

「老人は口から食べることができなくなったら死」……について(2009/11/4)
「食べられなくなったら死」が迫っていた覚悟(2009/11/5)

なお、この発言は
富山型ディサービス「このゆびと~まれ」の創設者、惣万佳代子さんでした。

Ashleyも含め、まだ食べられるのに胃ろうにされる障害児・者・高齢者を知っているから、
私は、「口から食べられなくなったら死」については、
ぎりぎりまで食べられるためのあらゆる手を尽くし看取りをしてきた惣万さんのような人が
こういう前提と覚悟で言う場合に、という留保つきでのみ
議論の余地はあると考えておくことにしたい。

・それから、これはついでに。

ある倫理学者の方のプレゼン資料で
安楽死・自殺幇助で死んだ人の一覧の中に
Kay Gilderdaleが入っているのが目を引いた。

あれぇ? と思ったので、帰ってきて確認したら、やっぱり思った通りだった。
Kayさんは殺した母親の方だから、まだ生きています。
死んだのは娘のLynn Gilderdaleさんの方です。

まぁ、こんな些細な間違いはどうでもいい話なのだけど、
Gilderdale事件は、本質的には、自殺幇助というよりも
母親による慈悲殺の方に近い事件じゃないかと私は思うし、
メディアや世論だけでなく、裁判官の論理までが慈悲殺擁護だったので、
(というより実際はほとんど介護者の献身賛美による情緒的殺人擁護でしかなかった)
これを自殺幇助に入れてあったのが、ちょっと、ひっかかった。

【Gilderdale事件関連エントリー】
Gilderdale事件:「慈悲殺」を「自殺幇助」希望の代理決定として正当化する論理(2008/4/18)
慢性疲労症候群の娘を看護師の母親がモルヒネで殺したGilderdale事件(2010/1/19)
Gilderdale事件から、自殺幇助議論の落とし穴について(2010/1/22)
Gilderdale事件で母親に執行猶予(2010/1/26)
Gilderdale事件:こんな「無私で献身的な」母親は訴追すべきではなかった、と判事(2010/1/26)


・あと、すごく単純に、頭に浮かんだこととして、
多くの人が「もし自分がそうなったら……」と想像してみるときに、
寝たきりやTSLになったら……と自分が「介護される側」になることを想定し、
自分がそういう家族を「介護する立場」になったら……という想定をしないように思われるのだけど、
それは一体何故なのだろう、ということ。

自分は一人で、家族は一人以上であるとしたら
確率としては後者の方を想定してみてもいいと思うのだけど、

それは自分の人生においては誰もが主役だから
介護者という脇役に回ることよりも介護される主役になる方を想定するのが
心理として自然だということなんだろうか。

私のように既に家族に要介護者がいるという人間と、
まだそういう状況を個人的に経験したことがない人の違いなんだろうか。

それとも男性と女性とで意識に差があるということなんだろうか。

アカデミックな人が介護には興味が薄いと感じることと
どこかつながっているんだろうか。

これは考えてみたら面白いかも……と思った。
2010.10.06 / Top↑
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