注:こちらはミラーブログなので、現時点で、この書庫は出来ていません。そのうちに作業をしようとは思いますが、それまでは恐れ入りますが元ブログの方にお越しいただけると幸いです。
“Ashley療法”論争の始まりから4年になろうとしています。
(Gunther&Diekema論文が発表されたのは06年秋のことでした)
この度、
これまで「ステレオタイプという壁」という書庫に入れてきた記事の中から
特にAshleyとほぼ同じ障害像を持つウチの娘について書いたエントリーを抜き出し、
「A事件・重症障害児を語る方へ」という書庫を新設しました。(上から二番目です)
ウチの娘(このブログではミュウと呼んでいます)が
いったいどういう人として、そこに生きて在るのか、
その姿をなるべくありのままに描き伝えたいと願いつつ書いたエントリーです。
重症重複障害児・者は数も少なく、
また外に出かけることも大変なために
なかなか世間一般の人の目に触れることが少なく、
また触れる機会があったとしても、外見からくるイメージが先行して
ありのままの姿を理解するには相当な時間をかけて直接ケアし付き合うしかないこともあって、
彼らが本当はどういう人たちなのか、
直接体験をお持ちでない方が大半だと思います。
Ashley事件について考えてくださる方に、
Ashleyのような重症重複障害児って、本当はどんな子? という
なるべく生き生きとしたイメージを持っていただけるように、
これからもウチの娘や、これまで私が接してきた重症児・者の
ただ「自己意識」とか「知能」とか「発達」という言葉では捉えきれない姿を
できるかぎり描いて行きたいと思っています。
あらかじめお断りしておきますが、ウチの娘は言葉という表現手段を持ちません。
この書庫でのやり取りは、すべて非常にカラフルな音声のバリエーションと
アバウトな指差し、目つき、顔全体の表情、全身の表現力を通して行われるコミュニケーションです。
筆力・表現力の未熟から
娘のキャラや、その微妙なニュアンスをうまく描き伝えることがなかなか難しいのですが、
重症児の親の両義的・重層的な思いと共に(こちらは「子育て・介護・医療の書庫」に)、
私なりに伝える努力を続けていきたいと思います。
よろしくお願いいたします。
(なお、宣伝めいて恐縮ですが、ゲストブックに挙げている拙著にも
娘の姿を描いていますので、読んでいただければ幸いです)
――――――
Ashley事件について考えてくださる方、特に学者の方に
これを機にお願いしたいことがあります。
1つは、
少なくとも最低限の基本的な資料を読み、
基本的な事実関係だけは把握したうえで
この事件を語っていただけないでしょうか、ということです。
私が「最低限の基本的な資料」と考えるのは
上記の主治医らの論文(2006)とAshleyの親のブログ。
できればWPASの調査報告書と批判的な論考・論文のいくつかも。
(トップページに、不十分ですが関連リンク一覧を作ってあります)
私が「基本的な事実関係」と考えるのは以下の3点です。
・何が行われたのか
・どういう理由・目的で行われたのか
・どういう障害像の子どもに行われたのか
当ブログにも「事実関係の整理」という書庫があり、
そこに一定の整理はしていますが、
それらはあくまでも07年当初に書いた時点での私の理解です。
細部には、現在の私の考えとは違っているものも含まれています。
ご自身で実際にこの2つの作業をされてみると、
この事件では、たったこれだけの事実関係を把握することが
いかに困難かがよく分かります。
その困難さに、
この事件の本質が隠されていますが、
それはまた別の問題かもしれません。
もしも、さらりと疑問も矛盾も感じずに資料が読め、
簡単に事実関係が把握できたと感じられる方は
もう一度、資料を熟読されることをお勧めします。
2つ目は、
上記の事実関係の内「どういう障害像の子どもに行われたのか」という点について、
「自分はAshleyのような重症心身障害児を(について)知っているか」と
まず自問してみていただけないでしょうか。
Ashleyの障害に対するGunther、Diekema、Ashley父の捉え方は
後に登場するFostと共、極端に偏向したものです。
しかし、重症心身障害児と関わったことはおろか見たことすらない方には
それを相対化して判断するだけの情報がないのだと思います。
また彼らの捉え方が世間の多くの人の重症児ステレオタイプと合致してもいるだけに
彼らの偏向した捉え方を疑うことなく受け入れ、観念としての「重症児」について
「重症児のQOL」「重症児の利益」「重症児の幸福」を云々しつつ
「Ashley療法は是か非か」を議論される方が多いのでしょう。
これは、A事件について批判的に論じられる方でも同じです。
「たとえAshleyに意識がないとしても倫理的ではない」と論じることも可能ですし、
実際にそう言われた方もあります。
私はAshleyに意識がないならやってもいいと論じるつもりはありませんが
Ashley事件の事実認識としては、それはあくまで誤認なのです。
07年の論争時から今に至るまで、国籍を問わず、アシュリーの障害像については
一般人の中にも単なる思い込みやステレオタイプでこの事件を語る人は多いですが、
そういう人と違って、学者の方の場合、発言には影響力があります。
Ashley事件を語ろうとする方、
少なくとも学者として発言しようとされる方は、その前に、
重症重複障害児について自分はどこまで直接的に知っているか、と
それぞれに自問していただけないでしょうか。
もしも「まったく知らない」「良く知らない」という答えであれば、知る努力を、
なるべくなら「情報として知る」のではなく「ご自身の直接体験として知る」努力を、
払っていただけると嬉しいです。
もちろん、それは、時間と労力のかかる、大変なことです。
ウチの娘はAshleyとほぼ同じ障害像の持ち主です。
親である私は、そんな娘の障害に対して、
Ashleyの父親とは全く違う捉え方をしてきました。
(あちら超リッチ。こちらビンボーという意味でも全く違います)
せめて、そんな親の目に映った娘の姿を
「A事件・重症障害児を語る方に」の書庫で読んでいただけると
私にはとても嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。
ここから先は、分かる人にだけ分かる余分です。
Peter Singerは障害と障害児・者の現実について、あまりにも無知過ぎると思います。
一般に、自分が知らないことについて人は語ることを控えるものですが
一部の学者さんたちには、自分が知的に他より優越していることをもって
よく知らないことについても自分には語る資格が付与されていると
勝手に思い込んでいる人があるのではないでしょうか。
(また、それが何故か通ってしまう世の中というものも
非常におかしなことですが、実際にあります。)
障害について知るにつれて発言を修正しているのが事実だとすれば
Singerには、自身のこれまでの発言の影響力を自覚して、
自分は修正したのだということを明示する責任があるはずです。
そして、もしも発言を修正するほどに自分の無知・認識不足を自覚するならば
少なくとも障害新生児の安楽死や“Ashley療法”については
当面は口を閉じるのが学者としての良心というものではないでしょうか。
私たち障害当事者や家族の立場にあり、
そうでなくとも弱者に向けた社会の空気の冷え込みに脅かされている者にとっては
私たち自身や愛する者の命や身体への直接的でリアルな危険の問題なのです。
“Ashley療法”論争の始まりから4年になろうとしています。
(Gunther&Diekema論文が発表されたのは06年秋のことでした)
この度、
これまで「ステレオタイプという壁」という書庫に入れてきた記事の中から
特にAshleyとほぼ同じ障害像を持つウチの娘について書いたエントリーを抜き出し、
「A事件・重症障害児を語る方へ」という書庫を新設しました。(上から二番目です)
ウチの娘(このブログではミュウと呼んでいます)が
いったいどういう人として、そこに生きて在るのか、
その姿をなるべくありのままに描き伝えたいと願いつつ書いたエントリーです。
重症重複障害児・者は数も少なく、
また外に出かけることも大変なために
なかなか世間一般の人の目に触れることが少なく、
また触れる機会があったとしても、外見からくるイメージが先行して
ありのままの姿を理解するには相当な時間をかけて直接ケアし付き合うしかないこともあって、
彼らが本当はどういう人たちなのか、
直接体験をお持ちでない方が大半だと思います。
Ashley事件について考えてくださる方に、
Ashleyのような重症重複障害児って、本当はどんな子? という
なるべく生き生きとしたイメージを持っていただけるように、
これからもウチの娘や、これまで私が接してきた重症児・者の
ただ「自己意識」とか「知能」とか「発達」という言葉では捉えきれない姿を
できるかぎり描いて行きたいと思っています。
あらかじめお断りしておきますが、ウチの娘は言葉という表現手段を持ちません。
この書庫でのやり取りは、すべて非常にカラフルな音声のバリエーションと
アバウトな指差し、目つき、顔全体の表情、全身の表現力を通して行われるコミュニケーションです。
筆力・表現力の未熟から
娘のキャラや、その微妙なニュアンスをうまく描き伝えることがなかなか難しいのですが、
重症児の親の両義的・重層的な思いと共に(こちらは「子育て・介護・医療の書庫」に)、
私なりに伝える努力を続けていきたいと思います。
よろしくお願いいたします。
(なお、宣伝めいて恐縮ですが、ゲストブックに挙げている拙著にも
娘の姿を描いていますので、読んでいただければ幸いです)
――――――
Ashley事件について考えてくださる方、特に学者の方に
これを機にお願いしたいことがあります。
1つは、
少なくとも最低限の基本的な資料を読み、
基本的な事実関係だけは把握したうえで
この事件を語っていただけないでしょうか、ということです。
私が「最低限の基本的な資料」と考えるのは
上記の主治医らの論文(2006)とAshleyの親のブログ。
できればWPASの調査報告書と批判的な論考・論文のいくつかも。
(トップページに、不十分ですが関連リンク一覧を作ってあります)
私が「基本的な事実関係」と考えるのは以下の3点です。
・何が行われたのか
・どういう理由・目的で行われたのか
・どういう障害像の子どもに行われたのか
当ブログにも「事実関係の整理」という書庫があり、
そこに一定の整理はしていますが、
それらはあくまでも07年当初に書いた時点での私の理解です。
細部には、現在の私の考えとは違っているものも含まれています。
ご自身で実際にこの2つの作業をされてみると、
この事件では、たったこれだけの事実関係を把握することが
いかに困難かがよく分かります。
その困難さに、
この事件の本質が隠されていますが、
それはまた別の問題かもしれません。
もしも、さらりと疑問も矛盾も感じずに資料が読め、
簡単に事実関係が把握できたと感じられる方は
もう一度、資料を熟読されることをお勧めします。
2つ目は、
上記の事実関係の内「どういう障害像の子どもに行われたのか」という点について、
「自分はAshleyのような重症心身障害児を(について)知っているか」と
まず自問してみていただけないでしょうか。
Ashleyの障害に対するGunther、Diekema、Ashley父の捉え方は
後に登場するFostと共、極端に偏向したものです。
しかし、重症心身障害児と関わったことはおろか見たことすらない方には
それを相対化して判断するだけの情報がないのだと思います。
また彼らの捉え方が世間の多くの人の重症児ステレオタイプと合致してもいるだけに
彼らの偏向した捉え方を疑うことなく受け入れ、観念としての「重症児」について
「重症児のQOL」「重症児の利益」「重症児の幸福」を云々しつつ
「Ashley療法は是か非か」を議論される方が多いのでしょう。
これは、A事件について批判的に論じられる方でも同じです。
「たとえAshleyに意識がないとしても倫理的ではない」と論じることも可能ですし、
実際にそう言われた方もあります。
私はAshleyに意識がないならやってもいいと論じるつもりはありませんが
Ashley事件の事実認識としては、それはあくまで誤認なのです。
07年の論争時から今に至るまで、国籍を問わず、アシュリーの障害像については
一般人の中にも単なる思い込みやステレオタイプでこの事件を語る人は多いですが、
そういう人と違って、学者の方の場合、発言には影響力があります。
Ashley事件を語ろうとする方、
少なくとも学者として発言しようとされる方は、その前に、
重症重複障害児について自分はどこまで直接的に知っているか、と
それぞれに自問していただけないでしょうか。
もしも「まったく知らない」「良く知らない」という答えであれば、知る努力を、
なるべくなら「情報として知る」のではなく「ご自身の直接体験として知る」努力を、
払っていただけると嬉しいです。
もちろん、それは、時間と労力のかかる、大変なことです。
ウチの娘はAshleyとほぼ同じ障害像の持ち主です。
親である私は、そんな娘の障害に対して、
Ashleyの父親とは全く違う捉え方をしてきました。
(あちら超リッチ。こちらビンボーという意味でも全く違います)
せめて、そんな親の目に映った娘の姿を
「A事件・重症障害児を語る方に」の書庫で読んでいただけると
私にはとても嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。
ここから先は、分かる人にだけ分かる余分です。
Peter Singerは障害と障害児・者の現実について、あまりにも無知過ぎると思います。
一般に、自分が知らないことについて人は語ることを控えるものですが
一部の学者さんたちには、自分が知的に他より優越していることをもって
よく知らないことについても自分には語る資格が付与されていると
勝手に思い込んでいる人があるのではないでしょうか。
(また、それが何故か通ってしまう世の中というものも
非常におかしなことですが、実際にあります。)
障害について知るにつれて発言を修正しているのが事実だとすれば
Singerには、自身のこれまでの発言の影響力を自覚して、
自分は修正したのだということを明示する責任があるはずです。
そして、もしも発言を修正するほどに自分の無知・認識不足を自覚するならば
少なくとも障害新生児の安楽死や“Ashley療法”については
当面は口を閉じるのが学者としての良心というものではないでしょうか。
私たち障害当事者や家族の立場にあり、
そうでなくとも弱者に向けた社会の空気の冷え込みに脅かされている者にとっては
私たち自身や愛する者の命や身体への直接的でリアルな危険の問題なのです。
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