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(ネタばれ、あります)

ブログを始めるよりも前にPBで購入はしていて、
何度も手に取ってみては、どうしても冒頭で躓くことを繰り返して
読むのに何年もかかってしまった、私には「因縁の本」――。

このブログのコメント欄でも、
これまでに2人の研究者の方から勧められ、
その際に思い切って図書館で翻訳を借りてみたりしても
やっぱり数ページから進むことができなかったのだけど、

年末に、こちらのエントリーへのコメントでモランさんから勧められたのを機に、
もう一度翻訳を借り出してきた。

ちょうど半日ほど現実逃避していたい精神的ニーズもあったので、
今度こそ読み切る覚悟で臨み、その覚悟で物語に入りこむまでの冒頭部分の抵抗感を超えると、
後はなんてことなく、一気に最後まで読んだ。

そういう精神状態と、
それが非力な存在としての娘に関わっていることの影響もあったのだろうけど、
あらかじめ内容の予測がついていたこと、その静謐な語り口なども手伝って、
読んでいる間中、ずっと悲しかった。

知っているのに知らない、知らないのに知っている子どもたちの姿と
最初から親も家族も持たない子どもたちの存在の寄る辺なさ、
そうした子どもたちが大人の都合でテクニカルに創り出されている世界がすべからく悲しくて
終始、どこか痛みに耐え続けるように、その悲しみをこらえて読み進んだ。

タイトルになっているのは
ジュディ・ブリッジウォーターの「夜に聞く歌」というアルバムの中の
「わたしを離さないで(Never Let Me Go)」という歌。

物語の語り手であるキャシーが10代の頃に、
宝物にしていたのがこのアルバムのテープ。

この歌のリフレインから、
親を持たず、自分も子どもを産むことのできない身体として生まれてきたキャシーが連想するのは

……ある女の人がいて、赤ちゃんを産めない身体と言われていました。でも、奇跡が起こって、赤ちゃんを授かります。それで、その人は嬉しくて、赤ちゃんをしっかりと抱きしめます。でも、恐れもあります。何かが起こって、この赤ちゃんから引き離されるのではないか。それで、ベイビー、ベイビー、わたしを離さないで……と歌うのです。
(p.325)



そんなふうに連想しながら、赤ちゃんに見立てた枕を抱いてキャシーが寮の部屋で踊っているところを
廊下から目撃した謎の女性マダムは、その場に立ちつくして涙を流す。

後年、成人したキャシーからその時のことを問われた際の
マダムの答えにこの作品の主題があるのだろうと思う。

あの日、あなたが踊っているのを見たとき、わたしには別のものが見えたのですよ。新しい世界が足早にやってくる。科学が発達して、効率もいい。古い病気に新しい治療法が見つかる。すばらしい。でも、無慈悲で、残酷な世界でもある。そこにこの少女がいた。目を固く閉じて、胸に古い世界をしっかり抱きかかえている。心の中では消えつつある世界だと分かっているのに、それを抱きしめて、離さないで、離さないでと懇願している。私はそれを見たのです。
(p.326)




このテープは、物語の展開を通じて、
主人公の3人の関係性を象徴していく役割も担っている。

その3人の関係性とは、
外の世界に住む人間とは別の存在として作られ
その宿命に対して無力でしかない彼らが、それでも
当たり前に人を愛し、人を憎み、人として当たり前の生を生きていることを語るものだし、

物語の中に出てくる子どもたちの絵や音楽や詩などの芸術作品は
そういうものを全く期待されていない彼らの持つ「創造性」を可視化することによって
彼らが人としての「感性」、「魂」の持主であることを「証明」する試みだった。

トランスヒューマニストらが芸術、とくに文学を一切語らないこと
ずいぶん前から目についているのだけど、

この物語の一節で(見失ったので引用できない)
子どもたちのこうした作品が彼らの「魂」から生まれてきたものだという表現を読み、
魂とか、恐らくは心というものの存在や意義すら認めないのであろう彼らが
芸術や文学を認めないことが、とても納得できる気がした。

それは、主人公の一人トミーが大人になってから描く動物の絵にも象徴されている。

……実物を見て、その一体一体が実に細かく、実に丁寧に書きこまれていることに驚きました。まず、動物であるとわかるまでに、多少の時間がかかりました。わたしの受けた第一印象はラジオです。裏板をはずして、中を覗き込んだところ、とでも言いましょうか。細い管、うねるリード線、極小のねじと歯車が、これでもかという精密さで描かれていました。でも、紙から顔を遠ざけると、それは確かにアルマジロに似た動物であったり、鳥であったりします。
(p.226)



もう1つ、作中で最も印象的だったのは
3人の関係性が大きく変わり始めるきっかけになるシーンの一つが
「宗教墓地」での出来事であること。

ここに死と結びついた「宗教」が出てきていること。
(宗教も文学と並んで、トランスヒューマニストが触れないものの一つ)

それから「墓地」の存在――。

彼らは「使命を終えて」死んだ後には、どうなるのだろう……?

「普通の人」とは違う存在であり、「外の世界」には属さない彼らは、
「外の世界」では人として存在しないのだから、
「普通の人」のように墓地に埋葬されることもないのでは……?

トミーの描いた動物のように、臓器庫である彼らの肉体は
部品の集合体として解体、利用価値のあるものは有効利用されるのでは……?

この部分は、小説が全く触れていないところで、それだけに
「宗教墓地」を場面として置くことで、それを示唆する手腕に唸った。


【関連エントリー】
持ち味と芸、そして「かけがえのなさ」(2007/11/17)
2011.01.13 / Top↑
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