2月にこちらのエントリーで予告を紹介した
生活書院の雑誌「支援」が、大震災があったにもかかわらず予定通りに創刊された。
さっそく手に入れて読み始めたら、
これまで味わったことのない感じを受けた。
なんというか、軽く頭ごと、ひっ捕まえられて揺さぶられる感じ。
でも不快な感じではなくて、ゆさぶられて、ほぐされる感じ。
脳みそにゆらっ、とか、くらっ、と刺激がきて、ゆるっとほぐされて、
そこから自分が何をどう考えようとするのかは、まだ捉えようもないのだけど、
とりあえず、ゆるっという感触は面白いし、
おっ、いいんとちがう、これは……?
なんか開けていく感じ……? みたいな。
ちょっと夢中になり、2日かけて書評から編集後記まで読んだ。
やっぱり一番面白かったのは「『個別ニーズ』を超えて」という特集で、
その中でも、やっぱり目玉の、三井さよ氏の「かかわりのなかにある支援」(p.6-43)
(恥ずかしながら私は三井さよさんについて今まで何も知らなかった)
多摩地域の知的障害者への支援活動との関わりを通じて、
個別ニーズに応えることを前提とする「個別ニーズ視点」を批判的に捉えかえして
「知的障害は当時者に属するのではなく、関係の中に存在する」と考え
個別ニーズの判断よりも先にかかわりを置く「かかわりの視点」を考えてみるもの。
個別ニーズ視点が、当時者を「ニーズのある人」と規定することから始まり、
それによって支援の必要を障害のある人の側にのみ帰することによって、
「その人を自らのかかわる他者として捉えていないのではないか」
また、そのニーズに適切な対応ができる人以外のかかわりを排除する姿勢にも
繋がっていくのではないか、と問題提起し、
「当時者のふるまいや思いを、自らの関与や多様な人たちとのかかわりのなかから探り、
そのつどいま何が起きているのか、誰が何をどのように必要としているのかを
問いなおそうとする支援のあり方」を「かかわりの視点」として提言する。
これ、“Ashley療法”論争の核心にズバリと迫っていく問題だと思う。
「知的障害は当時者に属するのではなく、
関係の中に存在する」というのは著者によると
その人は伝えているにもかかわらず、こちらが理解できていない。その人がわからないだけでなく、こちらが説明できていない。知的障害というのは、そうした現象なのではないだろうか。
本当は問題の質が違うのかもしれないのだけれど、
私がここで頭に浮かべたことを率直に書いてみると、
それは自分が英語の教師として、毎年、最初の授業で
英語でのコミュニケーションについて学生さんたちに語ってきたことだった。
私たちの多くは「英語をしゃべれるようになりたい」と思う時に、
自分が英語でしゃべる相手としてネイティブ・スピーカーを想定していて、
自分さえ「正しい英語」をしゃべれば相手に通じる、だから努力して
「正しい英語」をしゃべれるようになろう……と考えるのだけど、
現実には、このグローバル化した世界で、
私たちと同じように外国語として英語を身につけた人と会話をすることも多い。
表現する力と理解する力ともに「そこそこ」の人間同士の会話では
そこで「どの程度コミュニケーションが成り立つか」というのは
どちらか一方だけの英語力のレベルの問題や責任ではなくて
双方が不十分なところをいかに補い合えるかという共同作業の問題になる。
そういう場での「コミュニケーション能力」とは
「どれだけ正しい英語をしゃべるか」でも「どれだけ正しく聞き取れるか」でもなく
いかにその時、その場で、という一回性の中で
その人とのコミュニケーションという共同作業を担うか。
それは実はもう言語能力の問題ではなくなっていたりする。
本当は英米加豪だけが英語ネイティブじゃないし、
もともと英米加豪のネイティブが相手だとしても、
「伝わる・伝わらない」の責任はノン・ネイティブの側にだけあるわけじゃない。
だって、誰かが手持ちの英語で必死に話しかけているのに
「あんたの言ってること、さっぱり分からんわ」とネイティブに
ハエでも払うような手つきで追い払われてしまったら、
そこでコミュニケーションが成立しなかった責任は
話しかけた方の英語力にあるわけじゃないよね。
私たちは、知的障害のある人とのコミュニケーションにおいて、
または言葉という表現手段を持たない人とのコミュニケーションにおいて、
そんなネイティブと同じこと、近いことをやっているんじゃないか……と
三井氏は問うているような気がした。
そういうことを無自覚的にやりながら
コミュニケーションが成立しないことの責を、その人の障害だけに負わせて、
その責を負わせられた個人のニーズにエラソーに「支援」を入れようとしているけど、
その前に、
その場で誰かに話しかけられてしまった者として
私たちもその時その場でのコミュニケーションの共同責任者であることを
自覚しないといけないこと、ない?
そうでなければ、本当の意味でその人を支援することなんかできないこと、ない? と。
問題は、関係のなかにある障害そのものではなく、そこから生じる弊害や痛みを、当時者に一方的に押し付けることにある。修正されなくてはならないのは、関係の存する障壁そのものでは必ずしもなく、そこから生じる不利益を当時者だけに集中させる社会構造の方である。
私はAshley事件と重ねて共感するところが多かったので
ここではコミュニケーションに焦点を当てましたが、
三井氏の論文はもっと広くて深いです。
次に面白かったのは「資格は必要か? ケア・介護・介助と専門性」という座談会。
土屋葉(司会)×山下幸子×星加良司×井口高志。
この座談会で私が一番面白かったのは、
自立生活モデルだけでは知的障害者の支援には限界があるということを巡っての
あれこれだったのだけど、そこのところは、自分の言いたいことを
まだうまく説明する自信がないので、またの機会に。
ただ、私自身、娘を通じて出会ったいわゆる「専門家」には
いろんなことを感じ、考えさせられてきたので、
そういうことを諸々、頭に思い返しながら座談会を読んでいて、
ふいに焦点を結んだ考えがあった。
「専門性」は「問題解決能力」とイクオールみたいに通常はなんとなく想定されているけど、
現実には両者はイクオールだとは限らない……という考え。
というか、
「専門性」を「問題解決」のために有効に生かせる専門家よりも
むしろ「専門性」を「問題解決」の足を引っ張る方向に働かせてしまう専門家の方が
多いように思えてしまうのは、いったい何故だろう……という問い。
これは、この座談会のおかげで発見させてもらった私にとっては貴重な問いなので、
この後ていねいに大切に考えてみたいと思っている。
それから、Ashley事件にも、DALYや無益な治療論にも直結していくので
のめり込むように読んで赤だらけにしてしまった記事として、
田島明子氏の「リハビリテーションとQOL - 主観・客観の裂け目から見える地平」。
全体として、
障害学にも障害者運動にも疎い私がこういうことを言っては失礼かもしれないけど、
障害学とか障害者運動というものが持っているように(無知だからか私には)感じられる
ある種の「かたくなさ」みたいなものが
ここでは解きほぐされようとしているんじゃないか、
解きほぐしてみようとしている人たちが
ここに集まっているんじゃないか……。
そんな手触りの創刊号だった。
生活書院の雑誌「支援」が、大震災があったにもかかわらず予定通りに創刊された。
さっそく手に入れて読み始めたら、
これまで味わったことのない感じを受けた。
なんというか、軽く頭ごと、ひっ捕まえられて揺さぶられる感じ。
でも不快な感じではなくて、ゆさぶられて、ほぐされる感じ。
脳みそにゆらっ、とか、くらっ、と刺激がきて、ゆるっとほぐされて、
そこから自分が何をどう考えようとするのかは、まだ捉えようもないのだけど、
とりあえず、ゆるっという感触は面白いし、
おっ、いいんとちがう、これは……?
なんか開けていく感じ……? みたいな。
ちょっと夢中になり、2日かけて書評から編集後記まで読んだ。
やっぱり一番面白かったのは「『個別ニーズ』を超えて」という特集で、
その中でも、やっぱり目玉の、三井さよ氏の「かかわりのなかにある支援」(p.6-43)
(恥ずかしながら私は三井さよさんについて今まで何も知らなかった)
多摩地域の知的障害者への支援活動との関わりを通じて、
個別ニーズに応えることを前提とする「個別ニーズ視点」を批判的に捉えかえして
「知的障害は当時者に属するのではなく、関係の中に存在する」と考え
個別ニーズの判断よりも先にかかわりを置く「かかわりの視点」を考えてみるもの。
個別ニーズ視点が、当時者を「ニーズのある人」と規定することから始まり、
それによって支援の必要を障害のある人の側にのみ帰することによって、
「その人を自らのかかわる他者として捉えていないのではないか」
また、そのニーズに適切な対応ができる人以外のかかわりを排除する姿勢にも
繋がっていくのではないか、と問題提起し、
「当時者のふるまいや思いを、自らの関与や多様な人たちとのかかわりのなかから探り、
そのつどいま何が起きているのか、誰が何をどのように必要としているのかを
問いなおそうとする支援のあり方」を「かかわりの視点」として提言する。
これ、“Ashley療法”論争の核心にズバリと迫っていく問題だと思う。
「知的障害は当時者に属するのではなく、
関係の中に存在する」というのは著者によると
その人は伝えているにもかかわらず、こちらが理解できていない。その人がわからないだけでなく、こちらが説明できていない。知的障害というのは、そうした現象なのではないだろうか。
本当は問題の質が違うのかもしれないのだけれど、
私がここで頭に浮かべたことを率直に書いてみると、
それは自分が英語の教師として、毎年、最初の授業で
英語でのコミュニケーションについて学生さんたちに語ってきたことだった。
私たちの多くは「英語をしゃべれるようになりたい」と思う時に、
自分が英語でしゃべる相手としてネイティブ・スピーカーを想定していて、
自分さえ「正しい英語」をしゃべれば相手に通じる、だから努力して
「正しい英語」をしゃべれるようになろう……と考えるのだけど、
現実には、このグローバル化した世界で、
私たちと同じように外国語として英語を身につけた人と会話をすることも多い。
表現する力と理解する力ともに「そこそこ」の人間同士の会話では
そこで「どの程度コミュニケーションが成り立つか」というのは
どちらか一方だけの英語力のレベルの問題や責任ではなくて
双方が不十分なところをいかに補い合えるかという共同作業の問題になる。
そういう場での「コミュニケーション能力」とは
「どれだけ正しい英語をしゃべるか」でも「どれだけ正しく聞き取れるか」でもなく
いかにその時、その場で、という一回性の中で
その人とのコミュニケーションという共同作業を担うか。
それは実はもう言語能力の問題ではなくなっていたりする。
本当は英米加豪だけが英語ネイティブじゃないし、
もともと英米加豪のネイティブが相手だとしても、
「伝わる・伝わらない」の責任はノン・ネイティブの側にだけあるわけじゃない。
だって、誰かが手持ちの英語で必死に話しかけているのに
「あんたの言ってること、さっぱり分からんわ」とネイティブに
ハエでも払うような手つきで追い払われてしまったら、
そこでコミュニケーションが成立しなかった責任は
話しかけた方の英語力にあるわけじゃないよね。
私たちは、知的障害のある人とのコミュニケーションにおいて、
または言葉という表現手段を持たない人とのコミュニケーションにおいて、
そんなネイティブと同じこと、近いことをやっているんじゃないか……と
三井氏は問うているような気がした。
そういうことを無自覚的にやりながら
コミュニケーションが成立しないことの責を、その人の障害だけに負わせて、
その責を負わせられた個人のニーズにエラソーに「支援」を入れようとしているけど、
その前に、
その場で誰かに話しかけられてしまった者として
私たちもその時その場でのコミュニケーションの共同責任者であることを
自覚しないといけないこと、ない?
そうでなければ、本当の意味でその人を支援することなんかできないこと、ない? と。
問題は、関係のなかにある障害そのものではなく、そこから生じる弊害や痛みを、当時者に一方的に押し付けることにある。修正されなくてはならないのは、関係の存する障壁そのものでは必ずしもなく、そこから生じる不利益を当時者だけに集中させる社会構造の方である。
私はAshley事件と重ねて共感するところが多かったので
ここではコミュニケーションに焦点を当てましたが、
三井氏の論文はもっと広くて深いです。
次に面白かったのは「資格は必要か? ケア・介護・介助と専門性」という座談会。
土屋葉(司会)×山下幸子×星加良司×井口高志。
この座談会で私が一番面白かったのは、
自立生活モデルだけでは知的障害者の支援には限界があるということを巡っての
あれこれだったのだけど、そこのところは、自分の言いたいことを
まだうまく説明する自信がないので、またの機会に。
ただ、私自身、娘を通じて出会ったいわゆる「専門家」には
いろんなことを感じ、考えさせられてきたので、
そういうことを諸々、頭に思い返しながら座談会を読んでいて、
ふいに焦点を結んだ考えがあった。
「専門性」は「問題解決能力」とイクオールみたいに通常はなんとなく想定されているけど、
現実には両者はイクオールだとは限らない……という考え。
というか、
「専門性」を「問題解決」のために有効に生かせる専門家よりも
むしろ「専門性」を「問題解決」の足を引っ張る方向に働かせてしまう専門家の方が
多いように思えてしまうのは、いったい何故だろう……という問い。
これは、この座談会のおかげで発見させてもらった私にとっては貴重な問いなので、
この後ていねいに大切に考えてみたいと思っている。
それから、Ashley事件にも、DALYや無益な治療論にも直結していくので
のめり込むように読んで赤だらけにしてしまった記事として、
田島明子氏の「リハビリテーションとQOL - 主観・客観の裂け目から見える地平」。
全体として、
障害学にも障害者運動にも疎い私がこういうことを言っては失礼かもしれないけど、
障害学とか障害者運動というものが持っているように(無知だからか私には)感じられる
ある種の「かたくなさ」みたいなものが
ここでは解きほぐされようとしているんじゃないか、
解きほぐしてみようとしている人たちが
ここに集まっているんじゃないか……。
そんな手触りの創刊号だった。
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