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この回、前のエントリーの続きです。


2冊の中で
動的平衡に対する人為的かつ操作的な干渉として言及されているのは、

たとえば、
ES細胞(新書②第4章)
臓器移植と遺伝子組み換え(新書①第3章)
SSRI(上記第3章内、p.108-111)
子どもに増えてきたアレルギー(新書① p.121-122)
コンビニのサンドイッチの添加剤、ソルビン酸(新書②第3章)など。

私には特に、臓器移植について
動的平衡には取り込んだ情報の解体と再構築の繰り返しが不可欠だとの指摘と
その指摘を中心に展開される「臓器移植という蛮行」批判と、

「動的な平衡系に対して、単純な因果関係のモデルや安易な予測に基づいて
操作や干渉を行うと、意図したものと反対の結果をもたらすことがある」例として
SSRIの副作用のメカニズムが推理されている点が
非常に興味深かった。

これら科学とテクノロジー応用の問題点はそれぞれに具体的に詳述されていて
もともとそうした操作的な介入に懐疑的な立場で読むからか非常に説得力がある。

いずれの問題にも共通した要点は、どうやら以下のようなあたりか。

環境に対する人為的な組み換え操作は、一見、その部分だけをとるとロジックが完結し、人間にとって便利になったように見える。たとえば牛に高たんぱく食を与えれば効率的に肥育できる、あるいは、大豆に農薬体制のある遺伝子を導入すれば、強力な除草剤を散布しても大豆だけは生き残るようになる。しかし、動的な平衡系には部分のロジックは通用しない。すべてのことは繋がっているのである。

 操作の本質、それは多くの場合、効率を求めた加速である。早い肥育、大きな収穫。加速には必ず余分なエネルギーの投入があり、そこには平衡の不均衡が生じる。不均衡の帰趨はすぐには現れることがないし、現れるとしてもその部分に出現するとは限らない。乱された平衡は、回復を求めて、新たなバランスを求めて、ゆっくりとリベンジを開始する。どこかに溜められた不均衡は地下にもぐって目に見えない通路を分岐しながら思わぬところに噴出してくるのだ。

……(中略)……

 だから動的平衡系では、情報も分子もすべてが繋がっており、互いに関係を持って流れている。地球環境はおよそ四五億年前に出発して以来、様々な変化を受け入れつつ、途方もなく長い時間をかけて微調整を繰り返しながら、その平衡を維持してきたことになる。……(中略)……

 ここで、長い時間をかけて平衡に達する、ということは極めて重要なポイントである。複雑なサブシステムを内包する動的な平衡系が、揺らぎながらあるバランスに到達するためには長い時間の試練を経る必要があるのだ。
(新書① p.235-237)



クローン牛の安全性論議の際に、科学者の方々から
クローン技術など細胞レベルでの操作は時間の流れを無視しているという批判があったのは、
つまりはこういうことだったのですね。(詳細は文末リンクのクローン牛関連エントリーを)

それゆえ、クローン牛の安全性を言う際にさんざんあげつらわれた、あの「実質的同等性」を
著者は、遺伝子組み換え作物の安全性の根拠として使われる例をとって、否定する。

ES細胞についても明確に以下のように書く。

……今なお、私たちはガン細胞を十分コントロールすることができない。それと全く同程度にしか、私たちはES細胞をコントロールしえないであろう。
(新書② p.104)



機械論的な部分のロジックは通用しない、とか
細胞レベルでの操作は時間の流れを無視している、などの批判は、
クローン肉批判や、ES細胞研究にも通じていくし、
たぶん、さらに、ここには書かれていない生殖補助医療にも
また“Ashley療法”のあまりにも単純な正当化論、
そこに通底している安易なエンハンスメントの論理にも
通じていく、これは、すなわち、

当ブログが“科学とテクノの簡単解決バンザイ”と称してきた文化への
批判そのものではないか、と大いに共感しつつ読んだ。

例えば
Ashley事件で出た「自然に反する」という批判を
Diekemaらは「抗生剤だって自然に反する。それを言えば医療そのものが成り立たない」と
切って捨てたけれども、こうした大きな生命観に立てば、
「重症児にはどうせ無用な臓器だから取ってしまってもよい」という姿勢は
やはり「自然に反する」と言えるのではないだろうか。

それから例えば、ワクチンさえ次々にどんどん開発していけば
病気はいくらでも予防も撲滅もできるという考え方も、
やはり「間違いだ」とまで言えないにしても「限界がある」とは言えるのではなかろうか。

新書①から新書②で深められている考察から生じてくる
際立って鮮やかな指摘として「おおっ!」と思わず膝を打ったのは、

「死んだと定義した身体から、まだ生きている細胞の塊をとりだしたい」ために
「脳死」という人為的かつ操作的な概念の導入によって
「人が決める人の死は、生物学的な死から離れてどんどん前倒しされている」 P.144)一方で、
再生医療などの名目で利用するために受精卵および胚を
単なる細胞の塊に過ぎないとみなす「私たちが信奉する最先端科学技術は」
私たちの寿命を延ばしてくれているのでは決してない。
私たちの生命の時間をその両側から切断して、縮めているのである」
(①  P.144-145)

私は、最先端科学が可能にした生命の操作が及ぼすすべり坂の社会心理的影響として
生命がそのスタートと終点とで縮められていくことは考えていたけれど、
最先端科学技術そのものが生命の時間を両端から縮めているというのは目からウロコだった。

で、②の結論として著者が提言するのは、
すべてのものは繋がり流れているという認識に立ち、以下の努力をすること。

1.環境を人間と対峙する操作対象と捉えることをやめる。
2.出来る限り生命の動的な平衡を乱さない。

特に興味深かったのは、鴨長明を引用して、
著者がシェーンハイマーの動的平衡という生命の捉え方を
日本の死生観やチベット医療の生命観になぞらえていること。

分子科学者が、その専門性を追求していき、ふと突き抜けたところで
一見、科学の対極にあると思える哲学や宗教の近辺に行きついているということ。

これは科学者だけに限らないと思うのだけど、
非常に優れた専門性を持った人は、むしろ「らしさ」から離れていく傾向って、
あるんじゃないのかなぁ……ということを、ずっと前から考えている。

逆に、実際にはまだまだ半人前であったり未熟であったりする人たちが
必要以上に「らしく」ふるまい「らしい」物言いをしたがる……そんな
ある種の逆説って、あるんじゃないのかなぁ……みたいなこと。

例えば、なりたての新米教師はいかにも「学校の先生」然とふるまいたがるし、
彼らはいかにも「叱っています」然と叱ることしかできないのだけれど、
本当に実力のあるベテラン教師は一見ぜんぜん「叱っている」と見えないのに
ちゃんと叱ることが出来ていたりするんじゃないのか、ということとか

生半可な学者さんは難しい単語や横文字をこれ見よがしに並べて
大した内容でもないことを黒々と固くこわばった難解な文章にしてしまうけど、
本当は難しいことを柔らかい普通の日本語で表現する方が難度がはるかに高くて
よほど中身を自分のものにしていなければ、そんな芸当はできないのだ、というようなこととか、

実際には科学者ではないトランスヒューマニストが
自分が誰よりも科学的な発想をし、科学的なものの言い方をしていると
信じて疑っていないらしいこと、とか。

キメラ胚作製に山中教授の方が立花隆より慎重だったり、
なだいなだ先生の説く「こころ医者」論とか、
「医師の姿勢で薬の効き方違う」と非科学的なことを言う緩和ケアの徳永医師とか、

専門性というものは、案外に極めていけばいくほど
一般に思われている意味での専門性から遠いところへとその人を運んでいくものなのかも、

または、専門性というものをいよいよ極めた先に、
本当にすごい人は、どこかでふっと「突き抜ける」のかも、
そうしたら、その人の専門性はその人ならではの融通無碍なものとなり、
その時、その人の専門性は専門性一般ではもはやなくて、
その人ならではの独自の専門性に至っているのかも、

そして、それは「成熟」ということに、ある種、通じていくのかも……
……などということを、この2冊を読んでいる間ずっとグルグルと考えていた。

例えば福岡氏は「ヒューマン・ボディ・ショップ」を翻訳したことに関連して
こんなことを書いている。


不思議なことに私が親和性を感じるものは、すべて自分自身の方法への懐疑と再考を喚起するようなものばかりだった。
(p.56)



このことと「成熟」ということとが
なにかとても関連している気がしてモヤモヤしているのだけど、

例えば、
自分や自分のやっていることに懐疑や再考を向けることができる能力と、
また人としてのホーリスティックな「成熟」との関係。

あるいは専門性の「成熟」度と「頭がいいだけのバカ」と
「科学とテクノで簡単解決バンザイ」文化の関係性
……みたいなこと……?

モヤモヤをうまく言葉で捕まえることができたら、
いつか、また書いてみたい。


【関連エントリー】
「ない」研究は「ない」ことが見えないだけという科学のカラクリ?(2008/11/7)
まずは「クローン肉たべろ」という人に3世代食べ続けてもらおう(2009/1/6)
「飛騨牛の父」クローンで、ぐるぐる(2009/1/8)
大統領生命倫理評議会の「人間の尊厳と生命倫理」と「おくりびと」(2009/6/30)
「インドで考えたこと」で考えたこと(2009/11/21)
「現代思想2月号 特集 うつ病新論」を読む 3:社会と医療の変容と「バイオ化」(2011/2/23)

cf.
「洗車機とUFキャッチャーでおむつ交換ロボットできる」と言う工学者の無知(2010/4/5)
2011.05.08 / Top↑
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