4月18日の補遺で書いたように、
映画「わたしを離さないで」のプロモでNHKが作った番組「カズオ・イシグロをさがして」で
以下のように語った分子生物学者の福岡伸一氏の生命観が印象に残った。
福岡氏の著書は前に「生物と無生物の間」を読んだきりだったので、
新書①「もう牛を食べても安心か」と
新書②「世界は分けてもわからない」の
2冊を読んでみた。
後者によると
私と福岡氏との出会いは「生物と無生物」以前に既にあったみたいで、
それは今でも忘れ難い「ヒューマン・ボディ・ショップ」という翻訳書。
たぶん私は95年か96年に読んで、目から大きなウロコがはげた。
それは新書②の福岡氏自身の解説によると氏の初めての翻訳で
「臓器、組織、細胞、遺伝子など人体部品の」
商品化と生命操作の危うさを描いたもの」(p.56)。
私が2006年に英語ニュースを読んで介護雑誌にコラムを書き始めた時に
葬儀屋のボディ・パーツ横流しスキャンダルに目を引かれたのも
この本を読んでいたからだったと思う。それくらい
私にとって「ヒューマン・ボディ・ショップ」の衝撃は大きかった。
で、今回この2冊の新書を読んで、新たに学んだのは、
上記の福岡氏の生命観の背景にある生命の「動的平衡」という考え方。
「動的平衡」そのものは福岡氏のオリジナルな考えではなく
1941年に自殺したユダヤ人科学者ルドルフ・シェーンハイマーの説。
シェーンハイマーは放射性同位体による分子の追跡技術を編み出し、
それによって、生命体は安定した「内燃機関」ではなく
それ自体が自らの内部においても、また外部環境との関係においても
つねに変化する流れの中にあることを発見。
その流れによって生命体内外に動的平衡が保たれている、
その流れこそが生命である、というホーリスティックな生命観を打ち出した。
新書①に引用されたシェーンハイマーの解説によると
これを同じく①で福岡氏が噛み砕いてくれる表現によると
95年に「ヒューマン・ボディ・ショップ」を翻訳した福岡氏が
その後も数々の自身の著書で書き続けていることは、このような大きな生命観に基づいた、
二元論や還元論や機械論の否定であり、たぶん次のような警告なのだろうと思う。
新書①は狂牛病をその揺らぎの1例として
草食の乳牛に生産性向上のために共食いを強い
動物たんぱくを与えるという植物連鎖への人為的な操作に端を発する
狂牛病の発生と感染のメカニズムを詳細に推理しつつ、
関連企業からの圧力や輸出入を巡る国家間の力関係のはざまで
政治的な思惑に左右され操作される科学の危うさを徹底批判したもの。
新書②は、その後、文学的な文章の名手として腕を上げた氏が
それと同じことを、ミステリー仕立てで、より広く、
より美しく面白く描いてみせたもの、と言えるかもしれない。
ただ分けてみる以外に分かろうとするすべがないから分けてみているだけで、
分けたからといって世界は分かるような単純明快なものではないのだと繰り返し説く
科学者の謙虚さが好もしい。
それは簡単にわかったフリをして見せる科学者たちへの批判でもある。
次のエントリーに続く。
映画「わたしを離さないで」のプロモでNHKが作った番組「カズオ・イシグロをさがして」で
以下のように語った分子生物学者の福岡伸一氏の生命観が印象に残った。
人間の細胞は繰り返し滅亡と再生を繰り返して、
自分という存在は物質としては常に移り変わっていることを思うと、
個体 というよりも液体のような存在ではないか。
さらに長いスパンで個体の変遷を考えると、
むしろ気体、ガスでしかないのかもしれない。
では、そういう存在でし かない自分が、
それでも間違いなく自分だと言える根拠はどこにあるのか。
それを考えた時に、それが記憶なのではないかと思う。
福岡氏の著書は前に「生物と無生物の間」を読んだきりだったので、
新書①「もう牛を食べても安心か」と
新書②「世界は分けてもわからない」の
2冊を読んでみた。
後者によると
私と福岡氏との出会いは「生物と無生物」以前に既にあったみたいで、
それは今でも忘れ難い「ヒューマン・ボディ・ショップ」という翻訳書。
たぶん私は95年か96年に読んで、目から大きなウロコがはげた。
それは新書②の福岡氏自身の解説によると氏の初めての翻訳で
「臓器、組織、細胞、遺伝子など人体部品の」
商品化と生命操作の危うさを描いたもの」(p.56)。
私が2006年に英語ニュースを読んで介護雑誌にコラムを書き始めた時に
葬儀屋のボディ・パーツ横流しスキャンダルに目を引かれたのも
この本を読んでいたからだったと思う。それくらい
私にとって「ヒューマン・ボディ・ショップ」の衝撃は大きかった。
で、今回この2冊の新書を読んで、新たに学んだのは、
上記の福岡氏の生命観の背景にある生命の「動的平衡」という考え方。
「動的平衡」そのものは福岡氏のオリジナルな考えではなく
1941年に自殺したユダヤ人科学者ルドルフ・シェーンハイマーの説。
シェーンハイマーは放射性同位体による分子の追跡技術を編み出し、
それによって、生命体は安定した「内燃機関」ではなく
それ自体が自らの内部においても、また外部環境との関係においても
つねに変化する流れの中にあることを発見。
その流れによって生命体内外に動的平衡が保たれている、
その流れこそが生命である、というホーリスティックな生命観を打ち出した。
新書①に引用されたシェーンハイマーの解説によると
生物が生きているかぎり、栄養学的要求とは無関係に、生体高分子も低分子も代謝物質もともに変化して止まない。生命とは代謝機会の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である
(p.62)
これを同じく①で福岡氏が噛み砕いてくれる表現によると
肉体というものについて、感覚としては、外界と隔てられた個物としての実体があるように私たちは感じているが、分子のレベルでは、たまたまそこに密度が高まっている、分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。この回転自体が「生きている」ということであり……
(p.60)
この地球上に存在するそれぞれの元素の総量はおおむね一定である。それがほかの元素とあるときは結び、別の時には離れながら、様々な分子を形作り、大きな循環の中にある。循環は、環境とその構成要因である生命体との間を往還し、全体として動的なバランスを保っている。
(P.233)
95年に「ヒューマン・ボディ・ショップ」を翻訳した福岡氏が
その後も数々の自身の著書で書き続けていることは、このような大きな生命観に基づいた、
二元論や還元論や機械論の否定であり、たぶん次のような警告なのだろうと思う。
……現在、私たちが悩まされているほとんどの問題はすべて、人為的な操作に対して環境がその平衡を回復するために揺り戻しをかけている、その揺らぎそのものであるといってよい。
(p.238)
新書①は狂牛病をその揺らぎの1例として
草食の乳牛に生産性向上のために共食いを強い
動物たんぱくを与えるという植物連鎖への人為的な操作に端を発する
狂牛病の発生と感染のメカニズムを詳細に推理しつつ、
関連企業からの圧力や輸出入を巡る国家間の力関係のはざまで
政治的な思惑に左右され操作される科学の危うさを徹底批判したもの。
新書②は、その後、文学的な文章の名手として腕を上げた氏が
それと同じことを、ミステリー仕立てで、より広く、
より美しく面白く描いてみせたもの、と言えるかもしれない。
ただ分けてみる以外に分かろうとするすべがないから分けてみているだけで、
分けたからといって世界は分かるような単純明快なものではないのだと繰り返し説く
科学者の謙虚さが好もしい。
それは簡単にわかったフリをして見せる科学者たちへの批判でもある。
次のエントリーに続く。
2011.05.08 / Top↑
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