あの傲慢なDiekemaに反論の隙を与えない、実に見事な批判論文を書いた法学者です。
また、去年4月28日にMaryland大学法学部が開催した
障害者の権利に対する医療と倫理委の無理解を考えるカンファレンスにおいて、
「障害と医療資源の分配」をテーマに講演を行っています。
Albany Law Schoolの準教授で
Union Graduate College/Mt. Sinal School of Medicine Program in Bioethicsの生命倫理の教授。
2008年のその論文については以下のエントリーにまとめています。
「倫理委の検討は欠陥」とQuellette論文 1(2010/1/15)
Quellette論文 2:親の決定権とその制限
Quellette論文 3:Aケース倫理委検討の検証と批判
Quellette論文 4:Dr. Qの提言とSpitzibaraの所感
Quelletteはこの翌年に、射程をもう少し広くとり、
Shaping Parental Authority Over Children’s Bodies
「子どもの身体に及ぶ親の権限を造り替える」というタイトルの論文を書き
ネットで公開した後、2010年にIndiana Law Journal Vol. 85に発表しています。
(10年にジャーナルに発表された際に内容が変わっている可能性がありますが、
私が読んだのは同じタイトルで2009年にネット上で公開されたものです)
たぶん、上記08年の見事な論文を書いた時に、
こういうことを急いで言わなければならない必要を痛感して、
それで本当に急いで書いたんだろうなぁ……という感じ。
あの08年論文と同じ人の手に寄るとは思えないほど
思いが先走って、ちょっと粗雑な印象の議論が続く。
そういう長大な論文を読み通すのはすごく苦しかったのだけど、
それでも、相当な日数をかけて最後まで読まずにいられなかったのは、
こういうものを急ぎ書かないでいられなかったQuelletteの危惧を
私自身が全く同じように共有しているから。
Ashley事件を追いかける過程で、
私が最も重大な問題として受け止めてきたのは、
親と子の関係性の中にはそれぞれの利益と権利の相反があり、
そこには支配―被支配の関係が潜んでいる、ということでした。
でも米国社会は、その事実と向き合うよりも
むしろ積極的にそこから目をそむけ、むしろ親の権限を「愛」で飾り立てては
「親の決定権」を増強していく方向に突き進み、
社会をそちらの方向へと煽りたてているように見える。
それは、米国を中心に広がっていく「科学とテクノで簡単解決バンザイ文化」と
そこに利権構造が絡みついたグローバル金融ひとでなし慈善資本主義にとっては
「親の権利」と「親の美しい愛と献身」とが、
たいそう都合よく利用できる隠れ蓑だから……。
そういうのが、07年からAshley事件を追いかけてきた4年半で
私におぼろげながら見えてきた「大きな絵」――。
そこでQuelletteの09年論文は「マスト論文」として、
かなり前から少しずつ読み進めていたところ、
19日にエントリーにした「姉のドナーとして生まれた妹がテレビに」という話題で
俄かに懸念がまた膨れ上がり、その懸念に背中を押されて、
やっと残りを一気に読み終えました。
アブストラクトはこちら
U.S. law treats parental decisions to size, shape, sculpt, and mine children’s bodies
through the use of non-therapeutic medical and surgical interventions like decisions to send a
child to a particular church or school. They are a matter of parental choice except in
extraordinary cases involving grievous harm. This Article questions the assumption of parental
rights that frames the current paradigm for medical decisionmaking for children. Focusing on
cases involving eye surgery, human growth hormone, liposuction, and growth stunting, I argue
that by allowing parents to subordinate their children’s interests to their own, the current
paradigm distorts the parent-child relationship and objectifies children. I propose an alternative.
Pushing analogies developed in family law and moral philosophy to respect children as complete but vulnerable human beings, I develop a trustee-based construct of the parent-child relationship, in which the parents are assigned trustee-like powers and responsibilities over a child’s welfare and future interests, and charged with fiduciary-like duties to the child. Application of the trustee-based construct separates medical decisions that belong to parents, from decisions that belong to children and those that should be made by a neutral third party.
内容について、これを含め4つのエントリーで取りまとめてみます。
Quelletteがこの論文でとりあげている「親が子の身体を造り替えた」事例は4つで
① 整形外科医が自分のアジア系の養女の目を二重瞼にする手術をしたケース
② スポーツ選手にとの期待から正常な背丈の子どもに成長ホルモンが使われるケース
③ 12歳の女児に脂肪吸引術、効果がなくなるとバインディング手術が行われたケース
④ Ashley Xのケース
(今だったら、イジメ防止のための耳の整形ケースも加えたいところ)
これらを「典型的な身体改造( shaping )ケース」とQuelletteが挙げているのは、
4つのケースに共通している以下の点が
shaping ケースでの親の権限を問題とするから。
・外見や社会的文化的理由で非治療的な造り替えが行われた。
・それらの介入は侵襲的、不可逆的で危険を伴うものである。
・親の意思決定によって行われた。
・いずれも判例法に報告されていない。
Quelletteは、これら4つのケースで用いられた医療介入の内容とリスクを詳細に検証し、
現在の医療決定における親の権限の危うさを指摘する。
そして、
親と子の関係を上下のヒエラルキーとして捉え、子を親の「所有物」とみなして
親の「権限」をいつのまにか「権利」にすり替えてしまっている
現在の医療法における親の権限の捉え方を分析、批判し、
権利を持った一人の人として子どもを尊重し、
その福祉と将来の利益を「信託された者」として親を捉えなおすと同時に、
これまで提起された親を信託者とする3つのモデルを参照し、
次に財産管理の信託を巡る法の理念を参照しつつ、
信託者としての親の医療における意思決定権限の論理的な枠組みの構築を試みる。
結論としては、医療における一定の範囲を超えた意思決定には
第三者の検討を加え制約をかける仕組みを作るよう提言している。
いずれの個所もツッコミどころは沢山あって、
特に重症児の成長抑制はこれでは肯定されてしまうではないか……と
個人的にも不満でもあるのだけど
それでも急ぎこういうことを書かなければ……と
切迫したQuelletteの危機感には大いに共感するし、
よくぞ書いてくださったことよ……と感謝の気持ちにもなる。
科学とテクノの発達で
親が子どもの身体を造り替えるためのツールがどんどん増えてくるにつれ、
「科学とテクノの簡単解決バンザイ文化」の背後にいる利権は、
「親の決定権」や「親の愛」を批判をかわすための“印籠”として振りかざしては
同時に“打ち出の小槌”にしていこうとしている。
そんな時代の空気の中で
親の決定権がフリー・ハンドになってしまっている状態を
このまま放置してはいけないとの問題提起として、
とても重要な論文だと思う。
(次のエントリーに続く)